はむはむ草 朝里庵 -4ページ目

はむはむ草 朝里庵

はむはむなるままに、ひぐらし。

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番ぬこ。



夏らしい空になってきました。

蒸し暑いのもこれで気分的にちょっとましになるかな。





洗濯物を干すと夕立になる法則。

怒涛の終盤につられ、電脳コイルを最終話まで一気に
見てしまいました。

西田敏行じゃないですが、胸いっぱいになるシーンの連続に
溢れる涙。ありゃもうしょうがねえ。

とにかく、情報量がすごい。
電脳というギミックと情緒の機微をうまく組み合わせた作品
なのですが、どちらの情報も、とにかく多い。
情緒の方は、そぶりはあってもあえて語らずで行けますが、
ストーリーのてこになる電脳スキルや用語(この物語だけの情報含む)は
語っておかないと展開が意味不明になるので外せない。
で、終盤にかけてそれをぶちまける話があるのですが、
決して分かりやすい話ではなく(初出しの会社名を「~社」と付けずに
呼んだり、演出を最優先)、
これをTV放送で見てた人は、そのまま置いてかれた方が随分
多かったのではないかと推測されます。
そのあと、これまでのおさらいとして総集編が放送されますが、
その前話にはほとんど触れられません。
あ、あえて捨てたなと(笑)。

私としてはそれで正解だとは思いますが。
むしろ、「用語なんかちんぷんかんぷんでも最高に楽しませてやるぜ」
くらいの心意気が欲しいものです。
もちろん、心意気だけでなく、エンターテインメントの技術も
欲しいところです。

実際その後は怒涛の展開で、ついにはOP、EDのテーマも
切り捨てられます。最後の手段ですね。

実は、TV放送の時、8月に一ヶ月近くお休み(夏休みの話なのに)、
そして終盤の総集編、あとは間のおさらいを半分含めた話など、
電脳コイルは結構間を空けて放送しておりました。
それだけラストに切り詰めるなら、もう2話くらい足せよと
言いたくなるところですが、実際は予算の都合と、
地獄のスケジュールに追われていたのではないかと推測されます。
同じNHK放送の「ふしぎの海のナディア」は夏の特番によって
一命を得たそうです。それでも大分壊れてましたが。
むしろ、あのクォリティで最後までやってのけたというのは
驚愕に値すると思います。
ここまで完璧なTVアニメは観たことがないです。
映画のレベルにまで達していると思います。


で、その大いに濃くも駆け足な終盤で、ざっくり切り捨てられたのは
情緒に関するストーリー。特に、サブキャラは
すっぱり行かれている気がします。

しかしながら、そこは演出の腕。
短いシーンながらも、先のことを勝手に想像できるような
流れにしているんですね。
いわば、語られないが、実はきっちり作られている背景と
サブストーリー。
宮崎駿の作り方を彷彿とさせる、奥行きです。

これから見る人もいるでしょうから、あまり具体的な内容には
触れないようにしたいのですが、
ある告白のシーン。
切羽詰った状況の中、そのキャラはあっさり相手に告白します。
前後のタイミングとしても、それはどうなのかという所です。
しかし、いつもの屈託はなく、さらりと言う。
そのことで、そのキャラは最悪の結果を覚悟していることが分かります。
泣けるシーンです。
その後はもっと生に対する執着を見せる(演出する)のかと思いきや、
これまたあっさり、今まで通り走っています。
いちいち感情演出をしない。
しかしだからこそ、そのことに猛烈な美学を感じたわけです。
全部分からなくてもいい。
ちょっとづつ、分かるところで楽しんでくれたらいいんだ。
これをエンターテインメントと呼ばずになんというのでしょうか。

小学6年という、少年と青年の間に属する、微妙な年頃。
少年少女らしさ全開の登場人物たちも、少しずつ経験をして
変わっていく。その結末まではいちいち見せない(尺の都合もあろうが)。
しかし、その片鱗を見せて、視聴者に投げかける。
視聴者は、それを見て、過去の自分の変化を思い出す。
未体験の若年は、それに気づかないかもしれない。
でも、これから起こりうる自分の未来に何かを感じる。
ヤンチャなオバチャン性格のフミエちゃんも、きっと
年頃には落ち着いた素敵な女性になることでしょう。
子供が出来たら、元に戻るのだろうが(笑)。




何度見ても何かの発見があるほど、見事に詰め込まれた作品です。
ラストがハッピーなものかどうかは、人によって分かれるかも
しれません。それは、視聴者に投げかけられているからです。
それについて述べたいこともあるけど、内容言っちゃつまんないし。
歴史に残ればいいなあ、この作品。

今まで録りためたアニメ「電脳コイル」をちまちま見ている。
途中忙しくなり、最後まで見てなかったのだ。


電脳コイル (ロマンアルバム)


電脳コイルは日本アニメの正統後継者だ。
本編を見てればわかるが、
宮崎駿、押井守、そしてエヴァの影響を胸張って主張している。
それは、出来に自信があるからに他ならない。


舞台はごく近未来。
攻殻機動隊のように、電脳化した社会。
ただし、街の風景はむしろ退化ぎみ。
つまり、昭和後期の風景。
リアルな空間に電脳がテクスチャーのように貼りついた、
2重世界である。
その隙間をぬって繰り広げられるのは子供のやんちゃ、いたずら。
ドラえもんの空き地が電脳空間と代わり、
その活動舞台は都市伝説へと繋がっていく。


駄菓子屋に、神社境内、裏路地。
昭和後期の風景は、明らかにスタッフが過ごした少年時代のものだ。
ドラえもんが提示した、昭和中期の風景の後がまである。
意図して作られた風景だからこそ、細微にわたり美しい。
そういうアニメは随分増えた。
自らの世界を再構成する。
明らかに、時代は進んだ。
でも、ここまでその意図が機能的に反映されているアニメは知らない。


主人公達は小学生。
大人に比べれば非力である。
かといって、超能力は使えない。
そういうアニメではない。
むしろ、その非力さを魅力とする。
それは、電脳を駆使することで、日常をドラマチックに変えたからだ。

本来、空想好きなやんちゃ坊主の日常はドラマチックなものである。
しかしそれは、本人だけにとって。
それを「電脳コイル」は、俯瞰者から見てもドラマチックなものに変えた。
共感できるものに変えた。


本来これは、私達の世代の、心の風景なのだ。
そこに、新たな世界、「電脳」が入り込んだのである。
その意義は大きい。


非力な少年少女達の、リアルな必殺技。
それは、
「走る」しかない。
昇竜拳は出ない。そんなものは使えない(電脳でビームは使っているけど)。
「走る」ことが、何よりのダイナミズムなのだ。
だから、このアニメは「トトロ」の後継者なのだ。
走ることが最大の美しいアクションであり、またエロスの放射なのだ。


まだ最後まで見ていない。
全26話。
ちょっとづつ見てます。

毎朝、「ちりとてちん」を見てから出かけている。
連続テレビ小説を見るのはひさしぶりだが、最初は設定を聞いて
「毎度ヒロインが都会に出ないと話が出来んのか」と
いちゃもんをつけていた。
ところが、何の気なくみているうちにはまってしまう。
そんな文句なんか何の意味もなさないレベルで、このドラマは優れていた。

ストーリーをざっというと、
福井は小浜に引っ越してきた幼少のヒロインは、同姓同名のクラスメイトと
比較を余儀なくされ劣等感を持つ。
大人になったヒロインは大阪で落語家の道を進むこととなるが…

ちょっと大雑把すぎるか。でも、ホムペとか見たほうがいいでしょ。
非常に緻密でよく出来たストーリーなので、半端な説明じゃ
却ってよくないかなと。

登場人物がかなり多いのだが、それぞれの人物に主役級の見せ場が
織り込まれていて、しかもそれが見事な流れで構成されている。
どちらかというと過去と現在が交錯するシーンが多いが、
その振り返る演出は主人公の性格とも関係しており、
バラエティに富みつつも非常に美しく帰納されているのだ。

まず、主人公が後ろ向きである。
しかも、おせじにも出来がいいとはいえない。
コンプレックスを常に抱えて、もんもんとしている。
そして、脇役達が非常に個性的でキャラが濃い。
皆、それぞれに頑固でわがまま。
他人からみれば「しょーもない」ことに悩み、ひたすら意地を張る。
しかし、その「しょーもない」ことは、本人にとっては切実な記憶であり、
修正しがたいコンプレックスなのである。
「しょーもない」ゆえに、人間なのである。
その大事な「しょーもなさ」を、このドラマは丁寧に辿っていく。
やがて、その「しょーもなさ」は笑いとなり、優しさに変わるのだ。

その心は落語である。
落語家というストーリーと、コンプレックスより生み出される喜劇性。
みごとなあわせ技である。
登場するキャラクターは皆、どこか滑稽でかわいい。
抜き差しならない現実の前でも、そこにいる誰かが笑いを作る。
その心は場違いを越えて、どこまでも優しい。


それとなく見ていたのに、そのドラマを非常に心地よく感じていた
自分に気づき、それは何なのか分析してみた。
上記のストーリー(というか脚本)の上手さもあるが、
恐るべしはそのカメラ(視聴者)視点。
ドラマの中の人物にとっては、未来のヒロインの回想であり、
また神様的な視点である。

個々のコンプレックスを元に悩んだり、憤ったり。
そんな侃々諤々する人物たちに、カメラの視線は常に優しい。
「そんなこと、気にしなくていいよ」ではなくて、
「気にしたかったら、気にしてええ」なのである。
全肯定。
それが、この作品の背景なのだ。

無職だったり、仕事で失敗したり。
逃げ出してしまったり。
普通の話だったら、そこに努力や助けなどで修正をいれて
「めでたしめでたし」となるだろう。
それは、作家の潜在意識に「こうあるべきだ」という
思いが含まれているからにほかならない。
しかし、この作品はそうならない。
どう転んでも、誰が何を言わなくとも、
お天道様が「いいやんけ」と言ってくれるのだ。

人が幸福かどうかは、自身のコンプレックスとの付き合いで決まる。
最近、つくづくそう思う。
仏教では、煩悩を取り払うことで平穏を得ようとする。
その為には、具体的な活動、すなわち修行が存在する。
「ちりとてちん」では、その煩悩をも肯定する。
別に、何を教えるわけでもない。それほど幸せなストーリー展開でもない。
救われるとか、そんなんじゃない。
ただ、そういう風に撮っている。
その強さ。
素晴らしさ。

ただのハートウォームドタバタドラマでもなく、
地域復興ドラマでもない(やってるけど)。

語らない背景で大事を語れ。
勉強になりました。