その6よりの続き

レクイエムの「ディエス・イレ」=「怒りの日」は天国か地獄か神が死者に対し最後の審判を下すシーンを描いています。カトリック教会のミサ曲の中でも最も重要な曲です。

$フォーレを聴きませんか?

歴代のレクイエムは大抵「ディエス・イレ」に一番重点が置かれています。つまり最後の審判で許しを得て天国に行けるという図式があるので、その部分をいかに劇的に表現するか、ということに作曲家のオーケストレーションや様々なことで腕の見せ所となりやすい所なのです。


$フォーレを聴きませんか?

前回お聴き頂いたヴェルディやモーツァルトのレクイエムでも、いずれも神の威厳を印象づけるために怒りの日をレクイエムの前半に独立した曲として置いています。


$フォーレを聴きませんか?

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ところが、フォーレのレクイエムには「怒りの日」という独立した曲は登場しません。その代わりフォーレは「リベラ・メ」の中にある、「ディエス・イレ」の歌詞に着目し、部分的に怒りの日風に作曲したのです。


しかし、何故フォーレはこのようなレクイエムを作曲したのでしょうか?

To be continued.


今日は、フォーレのレクイエム第5曲「アニュス・デイ(神の子羊)」をお聴きください。





P.S. iPhone なかなか 使いこなしていませんが、やっと着信音を作ることができました。
ケックランのピアノ曲です(レアだ・・・)

ケックランのピアノ曲が着メロで聴こえてきたら、それは勇さんですやった

おはようございます雨


昨日は啓蟄でしたね。24節気の中の一つで、天文学的には、天球上の黄経345度の点を太陽が通過する瞬間だそうです。太陽の動きを15度づつ区切っているわけですね。大地が暖まって、冬の間地中にいた虫が這い出てくる頃。今日は冬に逆戻りしたような寒さですが、もう春遠からじ、を実感します。


今日も、朝早くから仕事ですがママヒヨ ナク、どんなに忙しくても自然の営みを感じる心は忘れないようにしたいものです。


さて、今日の新聞の記事から(朝日新聞:天声人語)


愛された記憶が、愛するという資質を耕す


昔、まだ若かった頃恋愛談義ハートでこの言葉について盛り上がって語り合ったことを思い出しました(笑)




愛されなかった記憶が、愛するという心を臆病にする


愛されなかった記憶が、愛されたいという欲求を耕す


愛されたことのある記憶が、愛されてない現実を見失わせる


etc. etc.・・・


何せ昔のことなので(大学時代だったかな??)記憶が曖昧ですが、いわゆる恋バナというやつですね。思い出すと赤面の至りです(;^_^A、 もっと変なのがいろいろあったと思いますが、当時は真剣だったなぁ。あんなに人を真剣に好きになれたのはただ若かったからでしょうか(笑)


この辻占は何と解釈すればよいのかな?

朝から変な記憶が蘇った一日ですが、今日も一日頑張りましょう腕。

みなさんも、よい週末を。

明日も仕事ですが、午後からなので、週末恒例! といえばもうお馴染み(陰の声:誰も知らないと思うけど・・・)シャンパン+ポッキー でテンションを上げてレクイエムの記事を続けたいと思います。今日はいつもにも増してキンキンに冷やしたシャンパンが五臓六腑に染み渡りますきゃ
そしてポッキーではなく今日もロイズの生チョコレートチョコ 
チョコに罪はないのだけどなぁ(笑) ← これは独り言です

では、今日はまず、ヴェルディのレクイエムの中の「ディエス・イレ」=「怒りの日」を聴いてみましょう。




「のだめ」でも千秋くんの飛行機のトラウマシーンなど、恐怖を呼び覚ます場面で使われてお馴染みです。

キリスト教では世界の終わりの日にあらゆる死者の霊が甦り、神の裁きによって地獄に堕ちるものと天国を約束されるもの分けられるのです。つまり最後の審判です。

$フォーレを聴きませんか?


レクイエムには通常この世界の終わりの日の恐怖が表現されていなければなりません。この代表的な例がこのヴェルディのレクイエムです。

モーツァルトのレクイエムにもこの「ディエス・イレ」=「怒りの日」は表れます。



つまり、レクイエムにおける「ディエス・イレ」=「怒りの日」は天国か地獄かを神が死者に対し最後の審判を下すシーンを描いている、カトリック教会のミサ曲の中でも最も重要な曲なのです。

しかし、フォーレのレクイエムにはいつまでたってもこの「ディエス・イレ」が出てきません。そう、特別なレクイエムなのです。

しかし、何故これが特別で異教徒的と呼ばれる原因となったのでしょうか?

To be continued.



>独り言

最近、ちょっと、立ち直ってきました。

学生時代に読んだ庄司薫の薫くんシリーズの本を読み直しています。

過去のものから答を見つけようとするのは間違い・・・なのかな?