なんて、小学生のときにすごく疑問に思ったことがありました。

小学校二年の時だったのかな。

その頃、私はいきていたくなかったみたいです。

だから意味を考えてた、毎日毎日。

夕暮れの校舎の屋根の上とか

校庭一大きい木の下でとか。

自分の邪魔されないところにいってひとり。

いろんなことを考えていた。




それから、何十年たって答えを見つけたのかと言われたら

未だにはっきりした答えはでないのだけど。




…なにかをのこすためだと私はおもっているのです。


ひとはそれぞれなにかをうみだせるいきもの


私はそう思っています。

家庭を作り、子供を生むこともそうですが。

アーティストは心にのこる作品を生み出すように。

壮大じゃなくても

人は人と出会うことで、その心の中に何かをのこせると思うのです。

ただこのひとこういう人だっただけじゃなくて。

人と交流することで生まれる感情とか、想いとか。

人の心の中になにかが生み出され、形となっている。

その人がいなくなっても、残っている。



なにもないってことはないのでしょう。

なにかをのこしていってるのでしょう。




子供の頃から西行法師が好きで。

死ぬのなら、桜の頃に花の下でなんて思っていたので、

四月がすぎると、今年一年がんばっていくしかないのかーと。

子供心思ったものでした。




さて、三月ですね。

今年もきっと素敵な桜はたくさん咲くのでしょうね。