クリスマスです。
クリスマスが、本来、何の日か、ご存じの方も多いことでしょう。
「サンタの誕生日!」なんてギャグは流行りません。
もちろん、イエス・キリストの誕生をお祝いする日です。
聖書の記録によれば、イエスさまがお生まれになった夜、羊飼いが野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていたそうですから、今の季節、真冬ではなかっただろうと思います。聖書には、誕生の具体的な日について、報告がありませんので、実のところ、本当のイエスさまの誕生日はいつだかわからないのです。
聖書に、イエスさまは「すべての人を照らすまことの光」として紹介されていますので、北欧などの北の国で、日のほとんど昇らない真冬、冬至を過ぎると太陽が戻ってくることを祝い、冬至の祭りが盛んに祝われていたことと結びつけ、光が世に来られた、というキリスト降誕と結びつけて、ローマによって「キリスト教化」されたものと思われます。
さて、それはさておき、イエス・キリストがお生まれになったとき、もちろん、母になったマリヤさまや人間としての父となったヨセフさまは別として、その誕生を知る人はほとんどありませんでした。出産の場所は家畜小屋でした。ローマの命令で住民登録のために、先祖の出身地に旅していたふたりは、旅の空の下でした。そして、聖書には「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と書いてあるのです。
今、クリスチャンでなくても、クリスマスを知らない人はまずいませんが、初めてのクリスマスは、だれにも知られないような、ひっそりと寂しい、そして、介助がなかった可能性の高い、危険なお産でした。
しかし、イエスさまの誕生を知らされた人々がいました。先に記した、その晩、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちです。
彼らは、別に特別信仰深かったわけではありません。特別な血筋だったり、何らかの集団に属していたわけでもなさそうです。単に、普通の羊飼いだったのです。
その羊飼いのところに、真昼よりも明るい光に包まれた天使がやって来ます。そして、もちろん、びっくりして怖がっている羊飼いたちに「恐がることはありません」と言って、「今日、ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。あなたがたは布にくるまれてかいばおけに寝ておられるみどりごを見つけます。それがあなたがたのためのしるしです」とお告げになりました。
そして、そのあと、「天の軍勢」が神さまを讃美したと記されています。どんな讃美だったのか、後世の人々が想像をたくましくしていますけれども、本当のところはわかりません。きっと想像を絶するものだったに違いありません。
この人たちが、こんな不思議で圧倒的な出来事を無視することができるはずもなく、早速ベツレヘムの町へ行って、実際に、布にくるまれてかいばおけに寝ている新生児を見つけたわけです。動物の餌入れであるかいばおけに新生児を寝かせるということは、よほど他の場所がなかったのでしょう。とても不潔な感じがして、当時の人でも絶対にためらうようなことだったと思うのです。
天使のお告げが「事実」であったことで、そのお告げの内容の真実性もぐんと増しました。羊飼いたちは、お産のあった家畜小屋に集まっていた人々に、彼らの見聞きしたことを話して聞かせました。みんな、びっくりしたと書いてあります。そりゃそうですよね。でも、現実に見ていない人の印象は薄かったようです。でも、マリヤさまが、その話を深く心に刻んで、思いを巡らしていたと書いてあります。きっと、この記録を書いた、医者で歴史家のルカという人は、マリヤさまに取材したに違いありません。
天使は、「あなたがたのため」と言いました。言われた羊飼いは、何一つ特別なことのない人たちでした。
神が人を救うために、自ら人となる、というとんでもない出来事が、何か特別な人ではない、何の取り柄もない、羊飼いに「あなたがたのため」といって語られた、ということは、この知らせを受けとるために、特別な資格が必要ないことを示しているのではないでしょうか。
そう、だれでもいいのです。私も、あなたも。
愛と平和、いのちと光をもたらすイエス・キリストの誕生は、そう、何の関わりもない、と思っているあなたのため、私のための知らせだったのです。
あなたにとって、このクリスマスが、最高に幸せなときとなりますように。
イースターおめでとうございます。
イエス・キリストの復活祭です。
よく、キリスト教は、復活を言わなかったら信じられるのに、と言われます。
その気持ちはよくわかります。私も大変理屈っぽいタイプですから。
イエス・キリストが、何一つ罪を犯さなかったのに、罪人のために、つまり、私のために十字架にかかって死んで、償いをしてくださった、ということで、十分感動的だし、それを信じることにためらいは少ないと思います。
しかし、そのイエス・キリストが復活した、といった時点で、怪しさ満点になってしまう…そんなことを思います。
しかし…ちょっと考えてみました。子どものころから、時々考えていたことです。イエス・キリストに罪がなかった、というのはどういう意味だろうか、と。「罪」の定義は、時代や国、文化、そして、その行為のコンテキストによって判断が分かれますし、同じ時代、同じ国、同じ文化の中でも、個人によって罪と判断するか否かが分かれたりします。
もちろん、キリスト教においての「罪」の定義は、聖書に明確に示されているわけですし、それはどの時代、どの文化に持って行っても、批判に耐えうるきびしいものであると思います。
しかし、キリスト教徒であること自体が罪であるとみなされた時代や場所があるのもまた事実。聖書の基準を、聖書を信じない人に押しつけるのは(神の法廷ではさておき)、実際の社会においては無理があるでしょう。
そうすると、キリストは罪がなかった、だから、私の罪の身代わりになれたのだ、とする考えの前提があやふやになってしまうのではないかと思うのです。
ですから、キリストの十字架による死が、今の私にも有効である、ということの明確な証明のためには、復活という奇跡が必要だったのではないのでしょうか。
キリストの復活については、聖書の中にあらわれる奇跡の中で、最も証明が容易なものだ、といわれるほどに、明白なものです。その証明のあれこれについては、今年は論じることはいたしませんが、機会があったらまたいずれ。大変面白いですよ。
とにかく、イエス・キリストの復活祭であるイースターは、クリスマスにも増して、大切な記念のときです。
イースターバニーだったり、エッグハントだったり、本質からずれているのはクリスマスと同じでありますけれど、日本でもだんだん知られるようになってきたことはうれしい限りです。
この日、心から、イエス・キリストの復活をお祝いしたいと思います。
イエス・キリストの復活祭です。
よく、キリスト教は、復活を言わなかったら信じられるのに、と言われます。
その気持ちはよくわかります。私も大変理屈っぽいタイプですから。
イエス・キリストが、何一つ罪を犯さなかったのに、罪人のために、つまり、私のために十字架にかかって死んで、償いをしてくださった、ということで、十分感動的だし、それを信じることにためらいは少ないと思います。
しかし、そのイエス・キリストが復活した、といった時点で、怪しさ満点になってしまう…そんなことを思います。
しかし…ちょっと考えてみました。子どものころから、時々考えていたことです。イエス・キリストに罪がなかった、というのはどういう意味だろうか、と。「罪」の定義は、時代や国、文化、そして、その行為のコンテキストによって判断が分かれますし、同じ時代、同じ国、同じ文化の中でも、個人によって罪と判断するか否かが分かれたりします。
もちろん、キリスト教においての「罪」の定義は、聖書に明確に示されているわけですし、それはどの時代、どの文化に持って行っても、批判に耐えうるきびしいものであると思います。
しかし、キリスト教徒であること自体が罪であるとみなされた時代や場所があるのもまた事実。聖書の基準を、聖書を信じない人に押しつけるのは(神の法廷ではさておき)、実際の社会においては無理があるでしょう。
そうすると、キリストは罪がなかった、だから、私の罪の身代わりになれたのだ、とする考えの前提があやふやになってしまうのではないかと思うのです。
ですから、キリストの十字架による死が、今の私にも有効である、ということの明確な証明のためには、復活という奇跡が必要だったのではないのでしょうか。
キリストの復活については、聖書の中にあらわれる奇跡の中で、最も証明が容易なものだ、といわれるほどに、明白なものです。その証明のあれこれについては、今年は論じることはいたしませんが、機会があったらまたいずれ。大変面白いですよ。
とにかく、イエス・キリストの復活祭であるイースターは、クリスマスにも増して、大切な記念のときです。
イースターバニーだったり、エッグハントだったり、本質からずれているのはクリスマスと同じでありますけれど、日本でもだんだん知られるようになってきたことはうれしい限りです。
この日、心から、イエス・キリストの復活をお祝いしたいと思います。
ちっとも更新しませんが…。
今年もよろしくお願い申し上げます。
初日の出など撮りに行くのは早々にあきらめ、できるだけ睡眠時間を確保する元朝。
みなさまの上に、神さまの豊かな祝福と平安とがありますように。
今年もよろしくお願い申し上げます。
初日の出など撮りに行くのは早々にあきらめ、できるだけ睡眠時間を確保する元朝。
みなさまの上に、神さまの豊かな祝福と平安とがありますように。
