純粋経済学全体の鍵 | 毎日が給料日~FXでサクセス!~

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こんにちはKeeです。本日も少しマニアックな?話をしたいと思います。


社会的な富を組成する物のうちに一回以上役立つ物すなわち資本または持続財と、一回しか役立たない物すなわち収入または消耗財とを区別しないといけない。


資本は土地、人的能力及び狭義の資本を含む。

収入は第一に消費の目的物及び原料を含む。これらは多くの場合有形の物です。

次に収入はいわゆる用役すなわち資本の継続的使用を含む。

これらの用役は多くの場合無形のものである。

資本の用役で直接的利用を有するものは、消費的用役と称せられ、消費目的物に結合する。

間接的利用しかもたない資本の用役は、生産的用役と称せられ、原料と結合する。

私は、ここにこそ純粋経済学全体の鍵があると思っています。


もし資本と収入との区別を看過し、あるいはことに、社会的富のうちに有形の収入と併んで無形の資本用役が存在することを認めないとすれば、科学的な価格決定理論を建設することは出来ない。


反対にもし、右の区別と分類とを承認すれば、交換の理論によって消費目的物及び消費的用役の価格決定を、次に資本化の理論によって固定資本の価格の決定を、流通の理論によって流動資本の価格の決定を、することが出来る。その理由は次の如くである。


 まず消費目的物と消費的用役とのみが売買せられる市場、換言すればそれらのもののみが交換せられる市場を想像し、かつそこでは用役の販売が資本の賃貸によって行われると想像する。

これらのもののうちから価値尺度財として採択せられた物で表わしたこれらの物または用役の価格すなわち交換比率が偶然に叫ばれると、各交換者は、自らある一定期間の消費に比較的に過剰に所有していると信ずる物または用役を、これらの価格で供給し、自ら不充分であると信ずる物または用役を需要する。


かくの如くにして各商品の有効に需要せられる量と供給せられる量は決定されるのであるが、需要が供給を超える物の価格は騰貴せしめられ、供給が需要を超える物の価格は下落せしめられる。


このようにして叫ばれた新しい価格に対して、各交換者は新な量を需要し、供給する。そして人々はなおも価格の騰貴または下落を生ぜしめ、それぞれの物または用役の需要と供給とが相等しくなったとき、これを停止する。そのとき価格は均衡市場価格となり、交換が現実に行われる。


 次に交換の問題の中に、消費の目的物が生産的用役の相互の結合によって生ずる所のまたは生産的用役を原料に適用することによって生ずる所の生産物であるという事情を導き入れて、我々は生産の問題を提出する。

この事情を考慮に入れるには、用役の売手であると同時に消費的用役及び消費の目的物の買手である地主、労働者、資本家の面前に、生産物の売手としてのまた生産的用役及び原料の買手としての企業者を置かねばならない。

この企業者の目的は、生産的用役を生産物に変化して利益を得るにある。

生産物は、彼ら企業者が相互に売買し合う原料であることもあれば、彼ら企業者に生産的用役を売った地主、労働者、資本家に販売せられる消費の目的物であることもある。だがこれらの現象をよく了解するためには、一つの市場の代りに、用役の市場と生産物の市場(〔marche' des produits〕)とを想像するがよい。


用役の市場ではこれらの用役は地主、労働者、資本家のみによって供給せられ、消費的用役は地主、労働者、資本家によって需要せられ、生産的用役は企業者によって需要せられる。


生産物の市場では生産物は企業者のみによって供給せられ、原料はこの同じ企業者によって需要せられ、消費の目的物は地主、労働者、資本家によって需要せられる。

これら二つの市場においては、偶然に叫ばれた価格で、地主、労働者、資本家であって同時に消費者である者が用役を供給し、消費的用役と消費の目的物とを需要し、それにより、考えられた期間中に出来るだけ多くの利用を得ようとし、生産者である企業者は生産物を供給し、また生産的用役で表わした製造係数の割合に従って同じ期間中に処分すべき生産的用役または原料を需要する。


そしてこれらの生産者である企業者は、生産物の販売価格が生産的用役から成る生産費に超過する場合には生産を拡張し、反対に生産的用役から成る生産費が生産物の販売価格を超えるときは生産を縮小する。各市場では人々は、需要が供給を超えるときは、価格を騰貴せしめ、供給が需要を超過するときは、これを下落せしめる。均衡市場価格は、各用役または生産物の需要と供給とを等しからしめる価格であり、また各生産物の販売価格を生産的用役から成る生産費に等しからしめる価格である。


 資本化の問題を解くには、貯蓄をする地主、労働者、資本家すなわち自ら供給する用役の価値の全部をあげて消費的用役及び消費目的物を需要することなく、この価値の一部をもって新資本を需要する換言すれば貯蓄する地主、労働者、資本家の存在を仮定せねばならない。


そしてこれら貯蓄創造者に相対して、原料または消費の目的物を製造することなく新資本を製造する企業者の存在を仮定せねばならぬ。

一方においてはある額の貯蓄と他方においてはある額の新資本とを与えられたとすれば、これらの貯蓄と新資本とは新資本の市場において、せり上げせり下げの機構に従い、交換理論と生産理論とによって決定せられた、新資本の消費的用役または生産的用役の価格に応じて互に交換せられる。


そこで収入のある一定の率が成立し、各新資本の販売価格はその用役の価格と収入の率の比に等しくなる。新資本の企業者は、生産物の企業者と同じく、販売価格が生産費を超えるかまたは生産費が販売価格を超えるかに従い、その生産をあるいは拡張し、あるいは縮小する。


 一度収入の率が得られると、ただに新固定資本の価格のみでなく、また旧固定資本すなわち既に存在する土地、人的能力、狭義の資本の価格が得られる。これは旧資本の用役の価格である地代、賃銀、利子をこの率で除すことによって得られる。残るのは流動資本の価格を見出すことと、価値尺度財が貨幣である場合にこれらすべての価格がいかなるものとなるかを知ることとだけである。これらは流通及び貨幣の問題である。
この第四版において私が「所望の現金」の考察により、いかにして静学的観点を離れることなく、

先の問題を取扱ったと同じ条件と方法とをもって、右の問題を提出し、解決することが出来たかを見ることが出来よう。

この問題の提出と解決のためには、流動資本を物または貨幣の形態をとる所の予備(approvisionnement)の用役を果すものと考え、かつこれらの用役を、資本家によってのみ供給せられ、地主、労働者、資本家によっては消費的用役として需要せられ、企業者によっては、予備の用役で表わした製造係数の割合に従って、生産的用役として需要せられると考えれば足る。


かくてこれら予備の用役の市場価格は狭義の用役の市場価格の如くにして決定せられる。そして流動資本及び貨幣の価格もまた予備の用役の価格の純収入率に対する比として生ずるのであって、貨幣の価格は、貨幣が貨幣である限り、その量の反比例函数として成立する。


 ところでこの全理論は数学的理論である。語を換えていえばその説明が通常の語でなされ得るとしても、その証明は数学的になされねばならない。


それは全く交換理論の基礎の上に立つのであり、交換理論はすべて市場の均衡状態における二つの事実に約言される。まず交換者が利用の最大を得る事実、次にすべての交換者が需要する各商品の量と供給する量とは相等しいとの事実に要約される。


ところでひとり数学によってのみ我々は利用の最大の条件を知ることが出来るのである。我々は数学によって、各交換者につき、各消費の目的物または消費的用役に対し、それらの充《みた》された最後の欲望の強度または稀少性をそれらの消費量の減少函数として表わす方程式または曲線を作ることが出来、また数学によって各交換者がその欲望の最大満足を得られるのは、ある叫ばれた価格において、交換後における各商品の稀少性がそれらの価格に比例するように、これらの商品の量を需要し供給するときであることを知ることが出来る。


ただに交換においてのみでなくまた生産、資本化、流通においても、何故にかついかにして我々は需要が供給に超過する用役、生産物、新資本の価格を騰貴せしめ、供給が需要に超過するそれらの価格を下落せしめて、均衡の市場価格を得るのであるか。ひとり数学のみがこれを教え得るのである。これを教えるに数学は、まず稀少性の函数、欲望の最大満足を目的とする用役の供給を表わす函数、用役、生産物、新資本の需要と供給との均等を表わす方程式を導き出す。


次にこれらの方程式を、生産費及び新資本の販売価格と生産費との均等を表わし、またすべての新資本の収入率の均等を表わす所の他の方程式に結び付ける。最後に数学は、(一)かようにして提出された交換、生産、資本化、流通の問題は不能の問題でないことすなわち未知数にまさに等しい数の方程式を与える問題であること、(二)市場における価格の騰貴下落の機構は、企業者が損失のある企業から利益のある企業へ転向するという事実と相結合して、これらの問題の方程式を摸索によって解く方法に他ならないことを教える。
 右のようなシステムについて、本書において出来る限り入念で詳細な説明を与えようと思う。しかし私はこれを既に一八七三年から一八七六年に亙って「社会的富の数学的理論」(〔The'orie mathe'matique de la richesse sociale〕)の初めの四章に解説し、また一八七四年と一八七七年とに純粋経済学理論の第一版に解説し、証明した。私はこの全理論の原理を得るや否や、これをパリーの精神科学及び政治学学士院に報告するのを私の義務と感じた。


そこで右に挙げた四論文の第一を草し、二商品相互の交換の場合につき、各交換者の欲望の最大満足の問題の解法を、充された最後の欲望の強度が交換価値に比例せねばならぬことによって示し、かつまた二商品のそれぞれの市場価格の決定の問題の解法を、需要が供給に超過する場合には騰貴により、供給が需要に超過する場合には下落によって与えた。だが学士院がこの報告を受けるに当って示した態度は私に快いものでもなければ、私の勇気を増すようなものでもなかった。むしろ私はこの学者の団体に対しては憤慨を禁じ得ないのである。


あえていうが、学士院は既にカナール(Canard)に賞を与えながら、クールノー(Cournot)の価値を認めないで、二重の誤をなしているのであるが、この学士院は自らの名誉のために、機会を捕えて経済学上のその力量をもう少し華々しく確立しておくがよかろうと思う。しかし私の場合には学士院の冷遇はむしろ幸《さいわい》となった。なぜなら私が二十七年前に主張した学説は、それ以来、その内容の点でもその形式の点でも、著しい進歩をなしたから。


 事情に通暁したすべての人々がよく知るように、価格は充された最後の欲望の強度すなわち Final Degree of Utility あるいは Grenznutzen に比例するとの学説、ジェヴォンスとメンガー氏と私とがほとんど時を同じゅうして考え出した理論、全経済学の基礎を作ったこの理論は、イギリス、オーストリア、アメリカ、そのほか純粋経済学が研究せられ教授せられる諸国において、経済学上の定説となった


 ところで交換理論の原理が経済学に入ってから、生産理論の原理もまたまもなく経済学に入ってこざるを得なかったが、事実において入ってきた。ジェヴォンスは「経済学の理論」の第二版において、第一版に認めなかったものを認めた。


それは、利用の最終度が生産物の価格を決定する瞬間から、これがまた生産的用役の価格すなわち地代、賃銀、利子を決定するというにある。なぜなら自由競争の制度の下においては、生産物の販売価格は生産的用役から成る生産費に等しくなるからである。


ジェヴォンスは、彼の著書の第二版の序文の終りのはなはだ興味深い十頁(Pp. XLIII-LVII)において、イギリス派の方式または少くともリカルド・ミル派の方式を全く変えて、生産的用役の価格により生産物の価格を決定する代りに、生産物の価格により生産的用役の価格を決定せねばならぬと明言している。この大きな発展の可能である指示はイギリスでは直ちに追随はされなかった。


かえってジェヴォンスの思想に対する反動が起って、リカルドの生産費理論が有力となった。しかるに自ら限界利用の概念を把握したオーストリアの経済学もまた、この結果を論理的に生産理論のうちに押しつめて、生産物の価値と生産手段の価値との間に、私が生産物の価値と原料及び生産的用役の価値との間に導き入れた関係と全く同じ関係を導き入れたのである。



 けれども我々の一致は、資本化の理論に関してはそれほど完全ではない。この問題についてメンガー氏は中に彼の研究「資本理論について」(Zur Theorie des Kapitals)を公にし、またインスブルック(Innsbruck)の教授ベェーム=バウェルク氏はその著書「資本と利子」(Kapital und Kapitalzins)(一八八四年、一八八九年)を完成した。ベェーム=バウェルク氏はこの書物の中で、資本利子の事実を現在財の価値と将来財の価値との差から引き出した(九)。私は、ここではベェーム=バウェルク氏と意見を同じゅうしないことを言明せねばならぬし、かつ何故に私が氏の理論に賛成し得ないかを、簡単に説明せねばならぬ。だがこれは、この理論または少くともこの理論が含む所の利子率決定の理論を数学的に築き上げた上でなくては、なされ得ない