“乳がんかぁ…”
病院を出て、電話に乗りながら考えた。
抗がん剤治療をするなら、休まなければならない日は出てくるだろう。
職場に到着し、ふだん、ろくに話などしない男性デスクを廊下に呼び、病気のことを話した。
落ち着いていたつもりだったが、話してるうちに、涙が流れた。
“やっぱ、ショック受けていたんだ、私。しかし、初涙がよりによってこの男の前とは”
そのデスクは、私を励ますつもりだったのだろう。
「俺の亡くなった親父がさぁ、肺がんだったんだ。いいと思ってバンバン抗がん剤投入していたら肺炎起こしちゃってさー、肺炎が原因で亡くなっちゃったんだよ。だから、抗がん剤、気をつけてな」。
ぶっきらぼうだけど、彼なりの励まし方だった。
「今日は帰っていいよ」と言ってくれたが、泣くとスッキリする。
「メール1本入れてから帰ります」と答えた。
頭がスッキリしたら、情報収集だ。まずは編集長へのメールだ。天下りで来た女性編集長は話しやすい。自分が乳がんであろうことを告白し、いい病院どこかご存知ですか?とメールを送った。
家に帰ってから親友たちにもメール。
「どうも乳がんほぼ確定のよう。でも主治医を変えたいの。いい先生とか知りませんか」と、セカンドオピニオンに向けて本気で情報収集を始めた。
すると早速友人から返事が。
「◉◉先生、いいみたいよ。なえちん、仕事つながりで紹介してもらえそうじゃない?」
その◉◉先生は過去にメディアの取材を受けていた。そこは私も仕事でつながりのあるところだ。
直接ではないが、そのメディアの知り合いを通じて先生のセカンドオピニオンを依頼した。
すると3日後には、セカンドオピニオンの予約が取れたと連絡が来た。仕事が早い。
一方、例の病院では6月17日にMRI検査、6月20日に、秀才風情のベテラン乳腺外科医から右乳房の癌と正式に告知された。腫瘍の大きさは2.3センチ、ステージIIの診断。
「抗がん剤も効くのではないか」と、術前化学療法の説明。手術、放射線の説明。
全てこれ彼のペースにて。
「質問は?」とかないのか
でも、いい。とにかく“彼のやりたい治療”を
聞くだけ聞いて、最後に言った。
「先生、私セカンドオピニオンを受けたいので、診療情報提供お願いできますか」
「どこの先生?」
「●●先生です」
「ああ〜!彼は私の後輩でね。うん。いいよ、いいよ。話もしておくよ」
なんだかわからないが、先生の顔がパッと明るくなる。後輩にセカンドオピニオンお願いするのがそんな嬉しいか
「すみません。念のため聞きたいと思って。ありがとうございますぅ〜」と
こちらもウッシッシ
「アナタの顔は二度と見たくない」と思いながら、病院をあとにした
翌々日。別の病院。
セカンドオピニオンで現れた先生は、物腰が柔らかい。
私が一人暮らしであること。家族関係。子供の有無なども聞いてくれたと思う。
そこでハタと、実は重要な問題がなおざりにされていたことに気が付いた。
出産だ。
44歳の私は「おひとりさま」であったけれども、当時、まだ子ども生みたいという思いがあった。でも、予定はなかったし、がん治療優先で進めるにあたっては、子どもは難しいという話を主治医から聞いた。
「卵子の凍結は?」と聞いたが、
医師は、確か、(当時)とても高額であることと、凍結した卵子による受精の確率がとても低いことを教えてくれた。
“子供、あきらめなきゃならないんだ”
不覚にも涙がポロポロ、ほほを伝った。
だがセンチメンタルに浸る時ではない。ならば、とにかく「可能な限り働き続けたい」という思いを伝え、それを受け止めてもらった。
「で、どうしようか。こっちで治療する?」
「はい。先生のもとで、よろしくお願いいたします」
すると先生は、その場で秀才風情のあの先生に電話して、とっとと話をつけてくれた。そして私に向かって、
「僕の先輩だから、この間も飲んだんだよ。じゃあ29日来週、また予約入れておくね」と言った。
なんと話が早いことか
トントン拍子で事が進むとはこのこと…
私のココロもトントン拍子に明るくなっていく
“この展開の速さ、スゴイ“
こうして、これから長きにわたってお付き合いする主治医が、トントン拍子に決まったのです