| 認知的共感 | 他者の視点に立ち、その他者の気持ちを考えられる程度(視点取得) |
| 感情的共感 | 同情など、他者指向的な感情の現れやすさの程度(共感的配慮) 物語などのフィクションの登場人物に自分を置きかえられる程度(想像性) 誰かの苦痛を見ると、自分ごとのように不安や恐怖にとらわれてしまう程度(個人的苦悩) |
共感は2種類あるってことだけど、一般的には「感情的共感」の意味で使う人のほうが多いんじゃないかな。
自分の感情を相手に投射(これを感情移入と言う)しちゃう人を指して、「あの人、共感力高いね」なんて、評価しちゃうのは、その現れだと思う。
でも、感情移入って共感と言えるんだろうか。
あるワークショップでの話だけど、参加者のひとりが恋愛絡みの失敗談を披露したとき、「え~、かわいそ~」って言った女性参加者がいた。
私にとって不思議な反応だったので、「どのへんがかわいそうだと思ったんですか?」と聞いたら、「だって、この人かわいそう」と理由になっていない理由が返ってきた。
失敗談を披露した人は、「いやいや、今はすっかり立ち直っていますよ」と言っても、なお、その女性参加者は、眉間にしわをよせ、首を横に振りながら「・・・」って反応をしていた。
いったい何が、この女性参加者にとって「かわいそう」だったのか分からないけど、おそらく自分の嫌な体験でも思い出して、それを他者に投射したのではないか。
たしかに、この女性参加者は、感情移入力のある人だとは思う。
上の表で言うところの、同情なのか、個人的苦悩のか分からないけれど、感情的共感の状態にあるのは間違いない。
でも、相手の感じ方を無視して、自分の感じ方だけで、相手を決めつけてしまうのはいかがなものか。
自分勝手な押しつけでしかないと思う。
認知的共感は、生まれつきの能力というよりも、人の発達段階と関係しているようだ。
つぎのように発達するらしい。
簡単に解説すれば、人はまず空間的視点取得(2~3)ができるようになった後、社会的視点取得(4~5)ができるようになる。
その意味において、共感は大人になれば、誰でも自然に発揮できる能力とも言える。
でも実際は、さっきのワークショップの例のように空間的視点取得の段階でストップした人がいるのも事実だ。
べつに精神疾患がなくても、何らかの認知の歪みがあると、認知的共感は十分に発揮できない。
言い換えれば、冷静な心理状態じゃないと、相手の視点に立ち、その人の気持ちを考えることはできないのである。
じゃあ、どうすればいいのかだけど、さきほどの例の続きを想定してみよう。
こんなやり取りができれば、相手はともかく、こちら側は認知的共感の状態に入れる。
(私)どのへんがかわいそうだと思ったんですか?
(A)だって、この人かわいそう
(私)だって・・・だってとは?
(A)異性からひどい言葉を言われるのはかわいそうでしょ!
(私)ああ、異性からひどい言葉を言われたら・・・
(A)私はねえ、許せないんですよ、言葉の暴力っていうのか・・・
(私)ああ、言葉の暴力ですか・・・
(A)とにかく、かわいそうですよ!
まあ、だいたいこのあたりまで会話が進めば、相手の視点に立っているよね。
つまり、彼女はかつてある男性から言葉の暴力を受けてしまい、言葉の暴力を受けている自分がかわいそうだと感じた。
だから、ワークショップ参加者が、彼女の体験と似たような話をしたときに反応してしまった、ってことが理解できる。
こういう風に認知的共感をした上で、相手の心情を察することができる状態を「共感的理解」と言う。
注意点は、この状態にあるとき、さほど感情的共感(感情移入)はしていない、ってところだ。
ぜんぜんしていないわけじゃないけれど、認知的共感を維持するために、あえて感情的共感を抑えていると言ったほうがよいかな。
じゃないと相手のことを正しく理解できないんだよね。