オリンピックを見ながら「やっと日本もキャッチアップ文化から脱したか」と思った。
キャッチアップとは「追いつけ追い越せ」の意味である。
つまり、戦後日本は社会全体が西洋を模範にキャッチアップを目指していたってことだ。
もちろん新興国はみなそうかもしれない。
まず工業化を図り、裕福になると衣食住が西洋化し、音楽やアートなども西洋の影響を受けだし、いつしか生活全般、西洋と変わらなくなっていく。
これがパターンだろう。
でも、日本の場合それ以上のキャッチアップ文化があったようだ。
生態学者梅棹忠夫は次のように書いている。
日本人にも自尊心はあるが、その半面ある種の文化的劣等感が常につきまとっている。それは、現に保有している文化水準の実観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している、一種のかげのようなもの。本当の文化は、どこかほかのところで作られるものであって、自分のところのはなんとなく劣っているという意識である。
『文明の生態史観』
これと似たような話は思想家内田樹もしている。
外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」があることに基づき思考する「辺境人」
『日本辺境論』
うーん、この感覚、最近の若い人に伝わるのだろうか?
20年以上前だけど、『ここがヘンだよ日本人(1998/10-2001/3)』 という番組があった。
何でこんな番組があったのか?
当時の日本人は「外国から日本はどのように見られているのか」をすごく気にしていたんだよね。
日本は1960年代にはすでに世界第2位の経済大国になり、バブル期にはGDPでアメリカを超すんじゃないかと思うくらいの大国である。
にも関わらず、何故かひとりひとりの日本人の中には、意味不明な西洋コンプレックスがあったってことだ。
このコンプレックスのせいだろう。
スポーツの国際試合になると悲壮感すら漂ようことがあった。
選手たちは国の期待を一身に背負ってしまうというか。
いや、選手だけでなく観ている我々まで、もし負けたら日本全体が負けたような気分になったものである。
何を大げさな…
って今の人達に笑われそうだけど、けっして私だけの話だったとは思えない。
テレビのアナウンサーも、新聞の見出しも、国の威信を掛かっているかのように発信していた。
それはオリンピックだけじゃない。
野球でもそんな感じだった。
野茂英雄がメジャーに挑戦した時、多くの評論家は「通用しない」と言っていた。
もしくは「まだ早い」なんて言っていた。
要するに「キャッチアップするにはまだ早い、西洋人や西洋文化との差は縮まっていない」って言いたかったのかな。
ところが野茂が予想以上に活躍してしまうと、今度は手のひらを返したように「日本人すげえ!」に話が変わった。
そして「次にメジャーに行くのは誰か?」みたいな話になった。
居酒屋辺りではそんな話題で盛り上がったよね。
確かに、私もあの時はワクワクしていたし、同じ日本人として誇らしかった。
でも、すごいのは野茂であって、我々じゃない。
日本人の悪い癖は、日本人の活躍を見るだけで自分まで偉くなったような気分になるところがある。
反対に活躍できないと意気消沈するところもある。
これが戦後日本をずっと呪縛し続けた「キャッチアップ文化」の特徴だと思う。
それが端的に現れるのがオリンピックだった。
ところが今回の東京オリンピックを見ていたら、そういう雰囲気はあまり感じられない。
おそらく64年の東京オリンピック辺りから始まったと思われる国を挙げての一喜一憂があまりない。
なぜだろうか。
コロナ禍の中、国民の半数がオリンピック反対派だからだろうか。
それとも混血の選手が増えたからだろうか。
いずれにしてもかつてのような「外国人から日本はどう見える?」を気にする雰囲気は少ない。
それを見て「やっとあの変なキャッチアップ文化も終わったんだなあ」という感慨が湧いてきた。
と同時に、これが新しい時代の始まりであるとも感じてきた。
変なキャッチアップ文化の終焉とともに、自由な文化が始まるのである。