よく政治家とかが「対話によって・・・」なんて言っているけど、その意図は「相手を変えたい」であることは見え見えである。本来「対話」とは、相手を変えようとすることより、自分を変えるためにするものである。

 

 

対話とは、辞書では「向かい合って話し合うこと」となっている。

 

もちろん間違いじゃない。

 

でも、舌足らず過ぎるかな。

 

これでは独り言以外、単なる茶飲み話だろうと、会社での議論だろうと、みな向い合って話し合ったら「対話」になってしまう。

 

これとは別に、コーチやカウンセラーなどは、対話の特徴は「傾聴」と「気づき」だと言ったりするけれど、これも少し的を外している。

 

普通の会話や会議だって、傾聴や気づきは無いことはない。

 

つまり、これらは対話の必要条件に過ぎず十分条件では無いということである。

 

じゃあ、対話の十分条件とは何だろう。

 

それは「自分の変化を意図すること」だと思う。

 

皆さんだって「対話」をしようと思う時は、まず自分自身に何か問題があってそれを解決したいと思っているんじゃないかな。

 

このうずきの根底にあるのは、誰しもが本来的に持っている「主体性」だと思う。

 

「主体性」とは、目的自体をつくることである。

 

もうちょっと掘り下げて言えば、生物として外部環境に適応しようとすることである。

 

どうして適応しなきゃならないのかと聞かれたら、それは「生きるため」である。

 

つまり、主体性=生きること、と言ってもよい。

 

どんな動物も自然環境に適応できなければ死んでしまう。

 

人の場合、自然環境以外に、社会環境や経済環境も適応すべき課題になる。

 

そのための手段が「対話」というわけだ。

 

要するに自分が生きていくために対話が必要なのである。

 

そうやって考えると、多くの人が「対話」について主従を取り違えていることが分かる。

 

「向かい合って話し合うこと」や「共感や気づき」は形式的なテクニックに過ぎない。

 

向い合って話し合わなければならないのは、そもそも自分が変わりたいからそうするのである。

 

共感できる相手を選ぶのも、真摯に話も聞こうとするのも、同じだ。

 

こうやって書いちゃうと、対話=自分勝手、って受け止める人もいるかもしれない。

 

でも、対話は必ず双方向に行うものなので、そもそも自分勝手になんかなり得ない。

 

相手だって生きていくための課題を抱えている。

 

もちろんこちらもそうだ。

 

双方が変化を望んだ時に、対話は成り立つものである。