丁度今日で2年。
まだまだ復興は遅れています。
2年前、私は丁度持病の椎間板ヘルニアで自宅で療養中でした。
動く事もできずに。
気がつくと家がグラグラと揺れ動き、海も近い事もあって
津波・・・っとひらめ来ました。
しかし、警報は聞こえるが、防災無線の声が山で反射し何を言っているのかもわからない。
停電で、TVも見れない。
携帯で妻に連絡したが繋がらず。
Twitterで『三浦郡、葉山町・・・津波の情報と地震の震源地を教えてください』と
書いてみた。
『葉山は津波2mです』『葉山は大丈夫、慌てずに』色々な情報が入ってきた。
余震も続いていた。
『お前たちだけでもいざとなれば逃げないとな』その思いから犬を小屋から出した。
リビングの窓もあけ、いつでも犬が外に逃げられる様にした。
妻から電話があり、怪我も無く大丈夫だとわかった。
まだ寒く、暖房もなく、なす術も無し。
携帯のユーストリームでTVの実況中継が放送されていた。
『違反かもしれないが、停電でTVが見れない人もいるだろうから』との事。
本当に助かった。
映像には福島の様が映っていた。
大きな津波が町を飲み込み、家や車、船が流されていた。
『とんでもない事が日本に起こっている』しかし、身動きを取る事もできず
なにもできない自分。
携帯のメールもやっと繋がる様になり妻に帰宅をどうするか連絡した。
電車も止まり歩くほか無い、今後の地震の影響も考えるとどうして良いかわからない、とりあえず家には帰りたい。しかし、私の体を考え実家が近いのでそこに止まるとの判断。
実家なら大丈夫だろうと安心した。
まだまだ余震は続く。
体は窓を開けていた事もあり冷えきり毛布をかぶっても震える程だった。
『そうだ、車まで行ければTVもナビについている。エンジンをかければ
暖房もつく』。腰にコルセットをキツく締めて犬を車の所まで連れて行き、
暖をとった。
ナビのTVからは悲惨な映像と帰宅難民の映像が流れていた。
『福島の人たちは大丈夫なのだろうか?。海に近い人は津波には敏感だから大丈夫かな~』等と思っていたが、被害は大きかった。
TVを見ているだけで不安になり、妻を迎えに行く事にした。
『おれが守らねば・・・』
腰の痛み止めを1錠多めに飲み、コルセットとベルトで腰を固定し、
車を走らせたが、ものの10分で腰に激痛と股から足にかけて痺れが出てきた。
『東京まで1時間もあればつくから、行ける行ける』これが大きな間違いだった。
自宅を出て、数分走ると国道の上り線が大渋滞になり始めた。
裏道に逃げたが、やはり渋滞している。
自宅から、横浜まで普通なら1時間もあれば行けるが、4時間もかかった。
それよりも腰が悲鳴を上げていた。
『傷みだけ我慢すれば・・・』右足も感覚が無くなりアクセルやブレーキを
踏んでいる感触も無い。殆ど感だけが頼り。
しかし、渋滞中にもかかわらず、ドライバーは皆、親切に譲り合い動いていた。
まだまだ日本も捨てたもんじゃない、そう思った。
夕方18時に家を出て、横浜から川崎に抜けた時、時計は2時をさしていた。
『国道は全滅か~』
諦めかけたとき、ナビに映った細い路地。
まさかと思い行ってみると道路はガラガラ。
妻の実家のある東京まで止まる事も無く行ける事ができた。
妻の実家についた時は、腰の痛みも激痛から麻痺に変わっており、根性で乗り切れる
状態。妻を車に乗せてさっききた裏道を進む。
道路の脇から見える国道は相変わらず渋滞だった。
車の時計を見ると5時になっていた。
自宅に着いたのは朝の7時だったと思う。
自宅に到着し、停電の中何ができるか考えてみた。
地震で家屋を失った人もいる。
家族を亡くした人もいる。
洋服も、日用品も、明かりも無いんだろう。
妻と思いつく物を段ボウルに詰め込んだ。
テント、電池、衣類、腕時計、歯ブラシ、ロウソク、ランタン、手袋、
フライパン、お菓子、生理用品。うちで余っている物を全て入れてみた。
近所で救援の為に車で被災地に行く人があらわれその方に荷物を預けた。
本当なら、自ら行ってお手伝いしたいがこの体じゃ逆に迷惑になる。
TVで『歯ブラシが無くて困っていたんです』と言っている女性がいた。
『うちが送った物じゃないだろうけど、送って良かったね』と
少しでも役にたった事を妻と喜んだ。
あれから2年。
『絆』という一文字で日本が頑張ってきた。
皆で力をあわせ協力し合い、助け合ってきました。
しかし、現地の人にしてみれば『まだ2年』であり苦しみや悲しみ、
復興は終わっていないのですね。
あの時の日本の底力を忘れずに頑張らなくちゃいけないのです。
今日、改めてあの時の気持ちをまた感じました。
頑張れ日本!!。
まだまだ復興は遅れています。
2年前、私は丁度持病の椎間板ヘルニアで自宅で療養中でした。
動く事もできずに。
気がつくと家がグラグラと揺れ動き、海も近い事もあって
津波・・・っとひらめ来ました。
しかし、警報は聞こえるが、防災無線の声が山で反射し何を言っているのかもわからない。
停電で、TVも見れない。
携帯で妻に連絡したが繋がらず。
Twitterで『三浦郡、葉山町・・・津波の情報と地震の震源地を教えてください』と
書いてみた。
『葉山は津波2mです』『葉山は大丈夫、慌てずに』色々な情報が入ってきた。
余震も続いていた。
『お前たちだけでもいざとなれば逃げないとな』その思いから犬を小屋から出した。
リビングの窓もあけ、いつでも犬が外に逃げられる様にした。
妻から電話があり、怪我も無く大丈夫だとわかった。
まだ寒く、暖房もなく、なす術も無し。
携帯のユーストリームでTVの実況中継が放送されていた。
『違反かもしれないが、停電でTVが見れない人もいるだろうから』との事。
本当に助かった。
映像には福島の様が映っていた。
大きな津波が町を飲み込み、家や車、船が流されていた。
『とんでもない事が日本に起こっている』しかし、身動きを取る事もできず
なにもできない自分。
携帯のメールもやっと繋がる様になり妻に帰宅をどうするか連絡した。
電車も止まり歩くほか無い、今後の地震の影響も考えるとどうして良いかわからない、とりあえず家には帰りたい。しかし、私の体を考え実家が近いのでそこに止まるとの判断。
実家なら大丈夫だろうと安心した。
まだまだ余震は続く。
体は窓を開けていた事もあり冷えきり毛布をかぶっても震える程だった。
『そうだ、車まで行ければTVもナビについている。エンジンをかければ
暖房もつく』。腰にコルセットをキツく締めて犬を車の所まで連れて行き、
暖をとった。
ナビのTVからは悲惨な映像と帰宅難民の映像が流れていた。
『福島の人たちは大丈夫なのだろうか?。海に近い人は津波には敏感だから大丈夫かな~』等と思っていたが、被害は大きかった。
TVを見ているだけで不安になり、妻を迎えに行く事にした。
『おれが守らねば・・・』
腰の痛み止めを1錠多めに飲み、コルセットとベルトで腰を固定し、
車を走らせたが、ものの10分で腰に激痛と股から足にかけて痺れが出てきた。
『東京まで1時間もあればつくから、行ける行ける』これが大きな間違いだった。
自宅を出て、数分走ると国道の上り線が大渋滞になり始めた。
裏道に逃げたが、やはり渋滞している。
自宅から、横浜まで普通なら1時間もあれば行けるが、4時間もかかった。
それよりも腰が悲鳴を上げていた。
『傷みだけ我慢すれば・・・』右足も感覚が無くなりアクセルやブレーキを
踏んでいる感触も無い。殆ど感だけが頼り。
しかし、渋滞中にもかかわらず、ドライバーは皆、親切に譲り合い動いていた。
まだまだ日本も捨てたもんじゃない、そう思った。
夕方18時に家を出て、横浜から川崎に抜けた時、時計は2時をさしていた。
『国道は全滅か~』
諦めかけたとき、ナビに映った細い路地。
まさかと思い行ってみると道路はガラガラ。
妻の実家のある東京まで止まる事も無く行ける事ができた。
妻の実家についた時は、腰の痛みも激痛から麻痺に変わっており、根性で乗り切れる
状態。妻を車に乗せてさっききた裏道を進む。
道路の脇から見える国道は相変わらず渋滞だった。
車の時計を見ると5時になっていた。
自宅に着いたのは朝の7時だったと思う。
自宅に到着し、停電の中何ができるか考えてみた。
地震で家屋を失った人もいる。
家族を亡くした人もいる。
洋服も、日用品も、明かりも無いんだろう。
妻と思いつく物を段ボウルに詰め込んだ。
テント、電池、衣類、腕時計、歯ブラシ、ロウソク、ランタン、手袋、
フライパン、お菓子、生理用品。うちで余っている物を全て入れてみた。
近所で救援の為に車で被災地に行く人があらわれその方に荷物を預けた。
本当なら、自ら行ってお手伝いしたいがこの体じゃ逆に迷惑になる。
TVで『歯ブラシが無くて困っていたんです』と言っている女性がいた。
『うちが送った物じゃないだろうけど、送って良かったね』と
少しでも役にたった事を妻と喜んだ。
あれから2年。
『絆』という一文字で日本が頑張ってきた。
皆で力をあわせ協力し合い、助け合ってきました。
しかし、現地の人にしてみれば『まだ2年』であり苦しみや悲しみ、
復興は終わっていないのですね。
あの時の日本の底力を忘れずに頑張らなくちゃいけないのです。
今日、改めてあの時の気持ちをまた感じました。
頑張れ日本!!。