井上靖の『猟銃』を読んだ。

 

ひとりの男の十三年間にわたる不倫の恋を、妻・愛人・愛人の娘の三通の手紙によって浮彫りにした恋愛心理小説

 

テレビドラマや映画のエンドロールにはよく、

「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません」

という但し書きを見ることがあると思う。

本作冒頭、語り手(アマチュア詩人である)の語りに触れながら、

第一に僕の脳裏に浮かんだのはあの映像(字幕、テロップ)だった。

つまりフィクション(虚構)とは何か、ということなのだが、

これは実は結構厄介な問題だと思う。

というのも、得てして人は何が「真実」かを語るのは容易いが、

何が「虚構」かを証し立てるのは容易ではないからである。

科学でさえ、そうした仕組みから完全に逃れることは恐らくできないだろう。

 

本作では主に四人の登場人物が主軸になっている。

「蛇」という表現が使われているが、これは結局そういうことではないか。

「蛇」はある時には突然現れ、またある時には蛇穴の中に籠る。

人間とは、恐らくそういうものであろう。

蛇なのか人なのか、どちらが真実なのか虚構なのか、

どちらが本当の自分で、どちらが虚構(つまり建前)なのか。

 

本作中で答えらしいものはない。

しかしそれを考えるヒントは、もしかしたら、

冒頭、語り手の示している散文詩の中にあるのかもしれない。

 その人は大きなマドロスパイプを銜え、セッターを先に立て、長靴で霜柱を踏みしだき乍ら、初冬の天城の間道の叢をゆっくり分け登って行った。二十五発の銃弾の腰帯(バンド)、黒褐色の革の上衣、その上に置かれたチャアチル二連銃、生きものの命絶つ白く光れる鋼鉄の器具で、かくも冷たく武装しなければならぬものはなんであろうか。行きずりのその猟人の背後(うしろ)姿に、私はなぜか強く心惹かれた。

 

 その後、都会の駅や盛り場の夜更けなどで、私はふと、ああ、あの猟人(ひと)のように歩きたいと思うことがある。ゆっくりと、静かに、冷たく――。そんな時きまって私の瞼の中で、猟人の背景をなすものは、初冬の天城の冷たい背景ではなく、どこか落莫(らくばく)とした白い河床であった。そして一個の磨き光れる猟銃は、中年の孤独なる精神と肉体の双方に、同時にしみ入るような重量感を捺印(スタンプ)しながら、生きものに照準された時は決して見せない、ふしぎな血ぬられた美しさを放射しているのであった。