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2017年生まれのコティ8歳、2021年生まれのリティ3歳

姉妹を育てるコティマムです。

41歳、

元テレビ局芸能記者の

アラフォー

ワーママライター鉛筆

◎BFC公式アンバサダー1期生

(23年3月卒業)

◎wicot公式アンバサダー1・2期(卒業)。

◎サラダクラブ2期生パートナ活動中。

 

ワンオペ育児のあれこれや滝汗

大好きな洋楽、歌舞伎、アニメ、

おいしいもの(外食)など、

カオスな日常と

たまの贅沢を綴ります乙女のトキメキ

 

カメラ夫婦のお仕事ブログはこちらカメラ 

 

 

  

 

昨日14日に

ニュースになっているのですが、

わたくしの推しである

中村勘九郎・七之助兄弟の

事務所を立ち上げた

田中亨さんが亡くなりました。

 

 

 

 

田中さんは中村屋の事務所

ファーンウッドの社長さんで、

最近は社長を退き

特別顧問になっていました。

 

コティマムはテレ朝時代、

中村屋の取材に行きまくっていて、

一時期は後援会にも入っていました。

 

当時、取材に行っていたものの、

歌舞伎取材というのはちょっと特殊で、

新聞や専門誌の記者が代々

それぞれの事務所やお家と

深い付き合いがあり、

私のようなテレビのウェブ記者は、

取材に行っていても

なかなかその”和”に

入りきれない部分がありました。

(それは今も現場にいて感じます。

ただ、私はスポーツ紙の

敏腕記者さんたちのおかげで、

いろいろと情報をいただいたり

助けていただいています)

 

テレ朝にいた頃、

私が中村屋ファンだと知った

とあるスポーツ紙の記者の先輩が、

 

「ファーンウッドの田中社長に

挨拶できたらいいよね。

コティマムさん、

こんなに中村屋が好きなんだから

喜んでくれるよ。

田中さんは、

顔が俳優の國村隼にそっくりだから、

見たら一発で分かるから、

後援会のイベントの時にでも

話かけてみたら?」

 

と教えてくださったんです。

 

それから後援会の新年会に参加することに。

これは取材ではなく、

完全にファンとして参加費を払い、

プライベートで参加したものです。

 

 

※当時の写真。

 

 

そして普通に会場で新年会を楽しみ、

帰り際にふと、

スポーツ紙記者さんの言葉を思い出した私。

 

会場を見渡し、

國村隼にそっくりな人を

探しました。

 

そしたら、

本当にそっくりな方がいたんです。

 

この日の私は

着物も着てましたし、

完全に中村贔屓のファンとして

出席していたのですが、

名刺だけは持参していました。

 

國村隼似の田中さんに近づき、

緊張しながら声をかけました。

 

最初はもちろんファンだと思われたけど、

私がテレ朝の記者で

中村屋を取材していることを知ると

名刺を渡してくださり、

 

「これからも

どんどん取材してくださいね。

これからもっともっとやっていきますから。

海外公演も行くし

いろんなことを仕掛けているので、

楽しみにしていてください」

 

と言ってくださいました。

 

その後、田中さんと取材現場で

お会いすることはなかったし、

私が言葉を交わしたのは

これ1回きり。

その数年後には私は

夫の仕事の都合で名古屋へ行って

芸能取材や歌舞伎からも離れました。

 

今はまた

歌舞伎取材もできるようになったけど、

田中さんが社長職を退いて

特別顧問になられていたのも

今回の報道で知りました。

 

当時まだ20代だった私。

歌舞伎の世界に魅了され

中村屋にドはまりしていた私にとって、

田中社長とご挨拶できたのは

すごく特別な時間でした。

 

特別に

お付き合いがあったわけではないけれど、

訃報にショックを受けました。

 

中村屋の方々も、

勘三郎さんの十三回忌を経て

これから、という時に

悲しみでいっぱいだと思います。

 

私はこれからも

推しの中村屋を応援します。

取材して魅力を届けます。

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

写真は後援会のビンゴゲームで

当たった扇子。

(七之助さまから手渡しでいただいた!)

 

ちなみに冒頭のニュース記事は

サンスポさまから引用。

私が尊敬する敏腕記者の先輩が

執筆されています。

田中さんの略歴も分かります。