戦争体験談、聞いたことある?
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フォローさせていただいている
Orionさんの記事に
胸を打たれたので、
リブログさせていただきます。
この写真、フォトACですが、
喜界島の特攻花(テニンギク)だそうです。
若く優秀なたくさんの命が
愚策により失われたと思うと、苛立ちを覚えます。
そして自分の死期が決まっているのに、
悲しみや恐怖を公にできず、
表面上は「お国のため。陛下のため」と
言わなければいけない。
逃げ出すこともできない。
家族や愛する人のことを思って
なんとか自分を納得させて
飛び立っていったのでしょうね。
胸が苦しくなります。
自分がそうだったら。
自分の親がそうだったら。
自分の夫がそうだったら。
自分の子どもがそうだったら。
辛すぎます。
私の地元は広島のお隣県なので、
広島と長崎の原爆投下時間と、
終戦記念日には必ずサイレンが鳴っていました。
夏休み中なので家でサイレンを聞くと
家族と黙祷。
中学、高校になると部活で登校していましたが、
サイレンが鳴ると
一旦練習を止めて、みんなで黙祷していました。
父方の祖父母は
よく戦争時代の話をしていました。
どちらも親世代(私の曽祖父母時代)に
台湾へ移住していたので、祖父も祖母も
それぞれ台湾生まれです。
台湾は戦争末期でも
比較的食べ物は豊富だったそうです。
ただそれでも、
祖父は艦隊の爆撃を受けて
何日も海の上を漂い、死の恐怖を味わいました。
生き残った仲間と
海の上で軍歌を歌いながら
励まし合ったそうです。
また、
祖父の言葉で印象に残っているものがあります。
「鉄砲の音は、シュンッ、ヒュッっという
空気を切る音だと大丈夫。
弾が横を通り過ぎているから
当たらない。
でもピュッって硬い音だとダメ。
当たったってこと。
その瞬間に近くにいた人が倒れる」
銃を構えた格好をしながら語る祖父の姿を
今も覚えています。
祖母は、
台湾の大学病院で看護師をしていました。
女性は結婚し家の手伝いをしていた時代に、
とても珍しかったと思います。
(実際祖母は、看護師への道を
父親から大反対されたそうです)
日本と比べると穏やかだった台湾でも、
爆撃はありました。
祖母は看護師なので避難もできず、
最前線で負傷者の看護に当たりました。
兵士の手当もしていたので、内心、
「この戦争は勝てるわけがない」
と思っていたそうです。
「飛行場にね、壊れて動かん小さな
飛行機が置いてあるんよ。
兵隊さん達がね、訓練もせずに
座ってボーっとしとってね。
この光景を見た時に、
『アメリカに勝てるわけがない』って
心の中で思ったよ」
終戦後、
祖父と祖母はそれぞれ引き揚げ、
日本で出会います。
台湾からの引き揚げは大変だったそうですが、
台湾の方々がとても親切にしてくれたそうです。
(戦後、祖母はよく台湾の友人のもとに
遊びに行っていました)。
略奪などされることなく、
無事に日本に辿り着きました。
当時、台湾に豊富にあった食べ物や
着る服も日本に持ち帰れなくて、
日本では「引揚者」と差別されて
とても悔しくひもじい思いをしたそうですが。
帰国してすぐ広島まで行くと、
何もない焼け野原だったそうです。
今思うと、
もっともっと戦争時代の話を
聞いておけばよかったな。
祖父と祖母が戦時中に亡くなっていたら
父や私・弟、娘たちもいなかった。
空から爆弾が落ちてくる。
食べ物がない。
いつ死ぬかわからない。
今の日本ではそんな世の中考えられないけど、
76年前まではそれが普通だった。
激動な中、
生き延びてくれた祖父母に感謝です。
そして、たくさんの失われた命に
祈りを捧げます。