8章

 マンションの扉を開けたとたんに母親が部屋から飛び出てきた。

 「只今、母さん」康夫が言ったのに<お帰りなさい>とも言わずに母親は亮子が頭下げたのに、慌てて釣られたように頭を下げる。

 母親は亮子をまじまじ詮索する視線で見つめてから大きくうなずいた。

 「初めまして、康夫さんにお世話になりました亮子です。困っているところを助けて頂きました」

 「それはそれは康夫の母です。でも亮子さんですか?こんな美人お方と康夫がご一諸して頂いているなんて~」

 警戒の気持ちでいたに違いないと危惧していた康夫だったが、母親の変貌ぶりに驚いた。

「そうだろう母さん。化粧品を買っていなくて、メイクなしの素顔でこんな美人なのだから、メイクしたら女優だよ」

「康夫さんいいすぎです」

 慌てて打ち消す亮子に、にこやかな笑み浮かべて康夫に頷いて見せる。

 「ほんと康夫の言う通りです。康夫には過ぎています。でも康夫から聞きました。亮子さん記憶喪失だそうで、まあ、親としては亮子さんが記憶を取り戻して元の生活に戻るようなことがあると、康夫はどうなるのだろうと?それが心配です」

 「母さんそれは今言わなくても」

康夫が慌てて打ち消すのに亮子は首を振る。

 「良いのです。私もできたら厚かましいと思いながらもこのまま康夫さんのもとに置いて頂けたらと願っていますの。でもお母さんの言われる通り、元の生活を取り戻したらどうなるのか?分からないだけに私にはどうすることもできないと、康夫さんには言っていますの」

 「そうでしょうね。いくら康夫が望んでも、ご家族があると分かったらどうしょうもありませんもの」

 「母さんそれは言わなくても、僕もそれは覚悟していることだから心配することはないから」

 康夫が母親に口止めしたのは、咄嗟に亮子を守ろうとする気持ちが働いたのかもしれない。だがこれで母には亮子との関係を知られたと康夫は思った。

 「それもそうだね。それは康夫が判断することだね。ごめんなさい亮子さん玄関で上がってもらうのも忘れて、立ち話して。ああ、違った~」

 母親は頓狂な声上げた。

 「そうでした。今はここは貴女の家でもあったのでした。ごめんなさい」

 「いいえお母さん昨日来たものがそんな厚かましいこと考えていませんから、今は康夫さんにすがるだけの立場なのです」

 <亮子さんにいらぬことを言う>康夫はむくれたが、だがすぐに思い直した。

 <そうか、母は亮子さんに僕たちの関係を認めたと、亮子さんにそれとなく告げているんだ>

 そう判断して康夫は母に亮子さんとの関係を、あれこれ言わなくて良いと気が楽にはなった。

 しかし母親の指摘に確かに不安は感じる。

 <亮子さんに子供がいるとは思えないが、夫がいるとしたらどうなのか?これだけの美人なのだから、独り身とは到底思えない。すると俺との関係は?亮子さんと俺は不倫をしていることになる。それだけではない、おれは略奪結婚しようとしていることになるのだ>

 

 二人の後に続いて部屋に入りながら、康夫は亮子の後姿を見て<確かに母の言う通り>だと気が付いて、亮子を得たことを喜んでばかりおれないと気が重くなるのだ。

<やはり亮子さんの記憶喪失が続いてくれることを祈るしかない>自分勝手な祈りかも知れないが、それが今の安穏を保つ唯一だと康夫は思ってしまうのだ。

 

 「亮子さん外歩いて暑かったでしょう?冷たい缶ビール買ってきたから飲みましょう。飲めるでしょう?」

 「母さん昼から女性にビール飲ますのか?」

 <ほんとに何考えているのか?>康夫は止めにかかったのを、亮子は首を振る。

 「大丈夫です。コップ一杯ぐらいなら頂きますお母さん」

 「それみなさい、亮子さんいけるのだから。お前もいきなさい」

 母親は缶ビールを開けると、テーブルのコップにつぎつぎとビールを注いだ。

 「美味しい~」

 一気飲みに三人揃って声が上がった。

 

 「それで亮子さんさっきの話だけど~」

 母親はコップを置くと、改まったように亮子に問うのだ。

 「康夫から聞いていますけど、以前のことはぜんぜん思い出せないのですか?なにか思い出せそうなことはないのですか?」

 「それがお母さん、自分では気が付かないのですが、康夫さんに服のサイズを聞かれることを予想して紙に書いていたのです。そういえばインナーの買い物でも自分に合うものを選んでいました。それなのに自分の住んでいるところが分からない。肝心な自分の名前が思えだせないのです。」

 「それで亮子さんと言う仮の名前で呼ぶことにしたのだよ母さん。そういえばA駅の待合室で亮子さんが居たということは、亮子さんの家はその近辺かも知れない」

 「それなら亮子さんの持ち物で身元の知れるなにか持ち物はないのかい?」

 「それがお母さん私、康夫さんに声を掛けれて気が付いたら駅の待合室に居たのです。なぜそこに居たのかも分からずに、持ち物はポーチだけでした」

 「それが不思議なんだ。普通ならこんな美人が失踪したのだから、尋ね人探しの新聞の広告とか、ネットで知らされる筈なんだ。ところがそれが出ていないのだ。警察に失踪届けが出ていないか?それも問い合わせたが、無いと言う回答だった。

これってどういうことだろう?」

 康夫の疑問に母親も首をかしげる。しばらく考えた後母親は答えた。

 「それなら多分亮子さんの身に突然、なにか記憶喪失になるような事件が起きたのじやない?でも、それは表に出せないようなことで隠されているのではないかしら?」

 「そうだね母さん。それならわかる」

 康夫が母に同調すると、亮子もうなずいた。

 「多分そうではないかと私もそう思いますお母さん。でもその肝心なそのことが私には思い出せないのです。本当なら忘れられないような事件としたら、記憶があると思うのにね」

 亮子は自分に頷くようにして指でテーブルにxを書く。

 「なにかあまりにも辛いことで思い出したくないと記憶が無くなったのではないかしら?それなら私、思い出さずに今のままのほうがいいような気がします」

 つけ加えて言った亮子に康夫は大きくうなずいたのだ。

 「本当だ、辛いことを掘り返すぐらいなら、今の暮しで居たほうがいいかも知れないよ亮子さん」

 勢い込んで康夫が叫ぶように言ったのは、思わず自分の本音が出たのかもしれない。

 「馬鹿なことを言うものじゃないよ康夫。なにかことがあって亮子さんが身を隠すようなことがあったなら、事件か騒動があったのかもね。それなら身元調べを表ざたにしないで家族が亮子さんを探すことになるだろう?それならいずれ家族が亮子さんがここに居ることを突き止めると考えれば、お前どう説明するつもりだい?ここに居てもらいますと言えるとでも思っているのかい?」

 母親に叱責されて、康夫はそれもそうだと思うほかないのだった。

 だがそれなら、亮子がここに居てまずいと言われるのなら、康夫ははっきりしている。

 <絶対おれは、そんな亮子さんを追い出すようなことなどしない。亮子さんは俺しか守るものは居ないのだから。>

 それは康夫の誓いだった。

 <8章続く>