90回
お昼も食べずにささやかな新居の荷物整理に追われました。
メイクの先生のスタジオに行って預けていた荷物を取りに行ったら、さすがの先生も呆れたようでした。
「ええ社宅出て、もう新居に移ったというの、昨日女装辞めると泣いていた人が、女装続けるの?一体どうなったの」
「いえ昨日先生に言われたとおりにしただけです。社宅を出て正人さんに迷惑かからないようにしました。これで正人さんの帰りを待ちます」
「まあ、それがまともな順序でしょうね。若いと言うことは決断も早いんだ」
「でも正人さんが帰ってきても、私との連絡はお母様との約束で切ってしまっているので、先生ところに正人さんは訪ねてくると思うので、その節はよろしくお願いします」
「それはいいけどね。でも正人さんとは連絡切れていて、どうして私のところに来られるの」
不思議そうに先生は尋ねます。
「それは正人さんが本当に私を愛しているなら、探しまわってでも先生のところに行き着くはずだと思います」
「わかりました。私もあきさんにアドバイスした手前です。協力しますよ」
首傾げながらも笑顔で答えてくれる先生です。
荷物を抱えて一階におりて、昨日のように台所でお喋りする気はありません。
荷物をキャリーに載せて新居に向かいました。
こんな時先生のスタジオの近くに、住むところを構えた?のは助かったと思います。
明日の夜はルージュにお礼言いに行かなくてはと思いました。
そのあくる日です。
いち早くハローワークに行きました。
さすがに大都市です。ハローワークもビルの一階全部を占めているのです。
入口から人の出入りが多く、並んだ長椅子には就職探しの若いひと、年配の人が隙間なく座っています。
通路の右側に総合案内の掲示板がかかっています。左にはカウンターを挟んで衝立に仕切られた囲いで、職員と面接相談している人の背中が長く並んでいます。
私は<総合案内>で聞いてから<職業相談>のベースに行き番号札をもらいます。
天井からぶら下げられた電光板に番号が出たら、面接の囲いに行くのです。
待ち時間が長そうなので、空いた長椅子に座って文庫本読んで待ちました。
ここでも壁に就職募集の掲示板がありましたが、目走らして見ただけでも私の探す就職募集は見つからなかったのです。
それにしても本当に長い待ち時間でした。文庫本読んでいても電光板に目走らせながらですから、頭に入りません。
番号呼ばれて、掲示板を確認してカウンターに行きます。
担当職員は白髪頭の年配の職員でした。多分定年後の再雇用の職員みたい。
私が出した経歴アンケートを見て怪訝な表情です。
「まだお若いのに病院退職されて、理由お聞きしてよろしいですか?」
聞かれても、結婚して奥さんになったなんて~言えるはずありません。
「田舎の一人暮らしの母が病気がちで、同居するしかなくて、でも母が亡くなってまたこちらに出てきました」
「なるほど~経歴としてはよろしいのですが、う~ん、正雇用はないですね。」
分厚い資料をめくりながらの返事です。
「病院や医院にとっては必要な職種ですからね、欠員が出にくいのです。休まれたときの穴埋めは、パートかアルバイトになるのです。仕事の性質上パートでも人は代えません。同じ人が継続しますから安定しています。現在、医院で一件パートの募集ならありますから、パートで続けながら気長に正規の欠員出るのを待つというようにされてはどうですか?」
問われて、返事をするのに頭の中が素早く回転します。
そうか<正人さんが帰国すれば、また私と一諸になって奥さんになったら前の生活に戻れることになる。一時のパートでいいのだ>と、我ながら都合の良い判断と思わぬでもないけど、<それでよろしくお願いします>と答えたのです。
「次回に手続きして頂きますが、そのとき前の病院の紹介状もらってきてください。」
最後に言われて、やっぱりと思ったけど、もう覚悟しないと自分にいいつけたのです。結婚して退職したと言うのにどうして?問われてどう答えるか、前の病院に紹介状お願いするときの恥ずかしさを辛抱するしかないと、思いながらも、行きたくないと思う私です。
だって、行くとこ行くとこ嘘の言い訳する自分が嫌になってくるからです。
アパートに戻ると一夜を過ごしたここが、もう我が家になって気分が落ち着くのです。ほんとに狭いけど、部屋の真ん中に近所のサイクリングのお店で買ってきた小さなテーブルと椅子に座って、サイホンで淹れたコーヒーの香りを楽しみながら飲んでいると、小さな幸せ感じるのです。
社宅のときとは正反対、椅子から立って二歩進むとキッチン、反対に二歩進むと押入れとクローゼット、一歩横がトイレ、玄関も二歩進めばいいのです。
狭いなりにすごく便利です。
「狭いながらも我が家」歌を口ずさみます。
そして二歩進んでクローゼットの扉開けたときです。
<大変、忘れ物~>気が付いたのです。
正人さんとの結婚生活のなかで、まだ伸びきれていない髪に私はウイッグかぶっていたのです。
その私に正人は人毛の高いウイッグをプレゼントしてくれたのです。だから私は正人さんと外出する時しかそのウイッグかぶることをしませんでした。
寝室の鏡台の引き出しに大事にしまっていたのです。その大事に思う気持ちが裏目になったのでしょうか?持ち出すのを忘れたのです。
唯一の正人さんとの絆になっているウイッグです。手放すことなどできません。
もう二度と帰ることのない、そう決心して社宅を出てきた私なのに~思いながらも社宅に行く気になったのです。
それなら行くのは今しかないと思いました。もう社宅の住んでいた家の鍵持っていないのです。お母様の居る今の間に~。
折角私が居なくなったと言うのに姿見せて、お母様を落胆させて申し訳ないのだけど、それでも私には正人さんと私をつなぐ、ただ一つだけになったウイッグを諦めることはできません。
そう決心したとき私はアパート飛び出していました。
社宅のエレベーターで最上階に上がって、でも片足だけ出してフロアーをそっと覗いたのです。
奥さん方がたむろしていないか確認です。
私の姿を見られたら折角のお母さまの目的が水の泡になるのですから。
でも、幸いでした。フロアーには人の姿は見えませんでした。
住んでいた住宅に駆け寄ってベルを押します。
「はい、どちらさまですか?」
お母様の声です。
「あきですお母様、すみません開けて下さい」
「あきさんどうして~来ない筈では?」
「すみません大事な忘れ物しました。お願い開けて下さい」
「ちょっと待って、すぐ開けますから」
なにか慌てたようなお母様の応答です。
<続く>