89回
なにか遠慮したような口ぶりのお母さまに気になったけど、つとめて明るく返事しました。
「明日周旋屋に行って、気に入ったらすぐに契約して入居しょうと思います。荷物は契約したら明日にでも運び込むつもりです。ああ、それとお母様キッチンの炊飯器やお鍋や食器類厚かましいけど、お言葉に甘えて頂いて行きます。代わりの新品がキッチンの戸棚にありますので」
「ああどうぞ、どうぞ新居に入ると一から揃えなければいけませんからね。遠慮せづに入用なもの他にもあるようなら持っていきなさい。それと新居の移転はは明日にと言うことですか?」
「はい、正人さんのこと考えると早くここを出る方がいいと思いますので。契約すればそのまま入居します」
「ごめんなさいね、追い立てるようで。私も辛いのよ」
ほっとしたような口ぶりのお母さまに、なにか気になるものがあります。それが次の言葉にますます気がかりになったのです。
「じや明日の夜にでも私行くことにします」
「ミカちゃんは一緒ですか?」
「いいえ、連れてきません」
「そうですか~」
説明の言葉がありません。
聞き返したかったけど、言えませんでした。出ていくものには聞き返してもせんないことです。
「ではお暇するとき鍵はポストに落としておきます。私の転居先はお知らせしませんので。お世話になりました。お母様もお元気で居てください。ミカちゃんをよろしくお願いします」
「私のほうこそ、ミカのお姉さんママになって頂いて助かりました。あきさんも幸せになってくださいネ」
なにかお母様の言葉が変わっているように思えるのですけど、さようなら言って私のほうから電話を切ったのです。
さあ大変です。
明日お母様が来るのです。多分私の出た後のチェックなのでしょう。そして私のいないことを社宅の奥さん方に触れ回るのでしょう。
あまりいい気はしないけど、正人さんを守るためにお母様は必死だと思うことにします。そのお母様の気持ちを察すると、正人さんと会って話し合うこと考えている私のほうが、お母様を裏切ることですから引け目を覚えます。
とにかく明日の夜にはお母様が社宅に来ると言うのですから、大急ぎで今夜中に運び出す荷物をまとめて、 明日には紹介して頂いた不動産の店に行って、あまり贅沢考えないで住むところを決めて荷物を運びこむのです。
もう寝る間もなく夜半過ぎまで荷物整理に追われたのです。
あくる日不動産業者に連れられて、賃貸し住宅を見に行きました。
ルージュで会ったおじさんは親切でした。ちゃんと業者さんに電話入れてくれていたのです。
ですから紹介された不動産のお店に行ったら待ちかねたように、物件の資料見せてくれたのです。
それが一間のアパートだけど、家賃が2万円だと言うのです。今時、大阪の市内でそんな安い賃貸住宅があると思っていなかったので、すぐに契約する気になって物件案内に連れてもらったのです。
アパートは木造二階建て四軒の住宅でした。
場所がいいのです。電車の駅前から歩いて3分のところ、先生のスタジオまで行くのは5分の距離です。
大通りから入った裏口にひしめき並んでいる小さな飲食店のお店に挟まれて、路地の細い通路を入ったところにアパートが建っていました。
梯子のような木の階段が二階へと取り付けられています。階段の横の扉を業者さんがカギ開けているので、物件は一階のようです。
見ただけでも古びた建物は築30年と説明文通りです。
「上がって見てくれていいよ」
業者さんに促されて、下駄箱の取り付けられた狭いたたきから、畳の部屋に上がりました。
8畳ほどの畳部屋です。
窓際に流し台、ガスコンロもあります。狭い部屋なのに押入れがあって、クローゼットまであるのです。これなら山のような衣装が入れられます。
これで私はこのアパートの部屋借りること決めました。
でもトイレ~座ったら多分膝が扉に触れるような狭さなのです。
つくずく思います。あの広い社宅、まるで御殿だったと気がつくのです。
でも狭いなりに生活できると確認したので、その場で入居契約交わしました。
「古い建物だから、建て替えてマンションにしたら、いいのにね」
私がつぶやくと、業者さん手振るのです。
「できないのですよ。建築基準法で建物に通ずる通路が、道路の幅でないと建て替えできないのです」
「ええ、じゃこのアパートこのままですか?」
「そうですよ。朽ちるままです」
「それで家賃が?」
「安いのですよ」答えて業者さんは笑うのです。
社宅に戻って荷物を持てるだけ持って、電車に乗って運んで、また電車に乗って
社宅に戻り最後の荷物かき集め玄関の戸を閉めて、鍵をポストに落としました。
短い間だったけれど、正人さんに愛され、ミカちやんに懐かれ若い私には本来ならあり得ない家庭生活を過ごすことのできた、幸福な社宅での暮しだったと感慨深いものがあります。
両親を早く亡くし、一人暮らしで働くことと楽しみは女装することだけの生活してきた私には、本当の女性のようになって~主婦として経験したことは、まだ10年先でないと味わえない経験の筈です。いえ、女装子の私では本来あり得ないこと、一人暮らしのまま、ひっそりとマンションの一室でわびしい想いで暮らしているかも知れないのです。
だからやっぱり私はこの幸せを手放したくないのです。
正人さんに愛され、ミカちやんにママ、ママと言われて過ごした想いを捨てきれないのです。
たといお母様を裏切ることになっても、私は正人さんの帰りを待ちたいのです。
<続く>