⑪
ふんわかとした焼きたてパンのような幸せムードが、私達三人を包み込んでいました。
その幸せムードが正人さんの辛い気持ちをほぐして、口を軽くしたのでしょうか?
奥さんが亡くなったいきさつを、ぽつりぽつりと語ってくれたのです。
事件は、正人さんが会社の出張で東南アジアに行っている間に起きたのです。
それはちょうど一年前のことでした。
日曜日で<子供のためのアトラクション>が遊園地であって、お母さんとミカちゃんは同じ社宅の子供連れの奥さん達と連れたっての遊園地の帰りのことでした。
お母さんと手をつないだ子供たちは、手に手に遊園地で貰った風船を持って歩いていました。ミカちゃんも今日と同じ赤い風船をもって、お母さんと手をつないで歩いていたのです。
遊園地のアトラクションが終わって、車道に沿った歩道は子供連れの親たちで埋められていました。
そのなかでミカちやんは人込みにもまれて、手から赤い風船が離れたのです。
「ママ風船が~」
叫んだミカちゃんの頭の上を、白いボール紙を糸でつるしている赤い風船が離れていくのです。お母さんたちが手を伸ばすのだけど掴みそこないます。
風船はボール紙の重りのせいで真っすぐ上に上がらず、人々の頭の上をゆるやかに横に流れます。ミカちゃんのお母さんはミカちゃんの叫びに、人の群れかきわけ風船を追いかけて行きます。
でも伸ばした手の指先がわずかに届かず、逃げていく風船。
そしてやっとお母さんの手が糸の先のボール紙をつかんだ時、体いっぱい手が伸びて脚は車道に入っていました。
がん!すごい音が人々の頭上を襲います。
同時にお母さんの体は宙に高く舞い上がったのです。
人々の口から一斉に悲鳴が上がります。
なにが起きたのか?ミカちやんには理解できません。風船の行方探した視線は車道に止まっているトラックの前の車道に、うつ伏せに寝てピクリとも動かないママの姿を見つけたのです。
その手には白いボール紙が~伸びた糸の先に赤い風船がお母さんの体の上をゆらゆらと揺れていたのです。
「ママ~ママ~」駆け寄ろうとしたミカちゃんの体は、社宅のお母さんたちに引き止められ抱えられます。
「すぐに救急車が来て病院運ばれましたが、意識不明のまま妻は亡くなりました。僕が外国から帰ったときはすでに妻は荼毘にふされ、僕は死に目にも会うことはできませんでした。それでいまだに僕は妻が死んだという実感がわかないのです。どこかへ出かけて帰ってくる気がしてならないのです~
だから貴女を見たとき瞬間妻に会ったと錯覚したのです。ミカが貴女をママと言ったのは当然かもしれません」
正人さんは潤んだ眼差しで私を見て頷きます。
胸が詰まる思いとはこのことでしょうか?私は正人さんに頷き返すと、無意識に正人さんの手を取り、その手に手を重ねていました。
「辛かったでしょう~ね。ミカちゃんに思い付きみたいに姉ちゃんママになると言った自分が、恥ずかしくなりました」
「いいや、そんなことありませんよあきさん。ミカも、それに僕も貴女に会えたことがすごく嬉しいのです。妻の代わりなんて~失礼は分かっています。独身の貴女をママになんてお願いすることではないのはわかります。でもミカも僕も貴女を妻と重ねて見てしまう気持ちを察して頂けたらと~思うばかりです」
言いながら正人さんは私の両手を取ると重ねて、自分の手で包んで握りしめるのです。大きなごつごつした正人さんの手に包まれると暖かい手の温みが伝わってくるのでした。
「そうだったのですね 。それで分かりました。さっき陸橋でミカちゃんが離した風船を私が掴んでいるのを見て、お母さんが亡くなる間際まで風船を持っていたことから、私をママと思ったのですね」
話しながら私はそっと掴まれた正人さんの手を外します。
<いつまでも握っていてほしい>でもそれは叶わぬことなのです。
「そうだと思います。ぼくも赤い風船見ると妻を連想して辛くなります。ミカは事故の瞬間まで母親と風船を一つに見ていたでしょうから、風船を持ったあきさんを見てママと思ったのは当然でしょうね」
言葉を切ると、正人さんは桟橋の下のJRの電車が出入りするのを、ペンチの上に上がって見下ろしているミカちゃんに声掛けます。
「ミカ~帰るよ~」手を振ると~
ペンチから飛び降りたミカちやんは、木の床を踏み鳴らして走ってくると私の懐にいきなり飛び込んでくるのです。
「ママ一諸に帰ろうね」
抱き止めた私のなかで見上げて言われて、ええ?と返事に困りました。
すげない返事はできません。
「ミカちゃんはどの電車に乗るの?」
すかさず、上から正人さんの声が降ってきます。
「JRです。それであきさんはどちらに帰るのです?」
「私は阪急です。じゃ、エレベーターに乗って下まで一諸に帰ろうね」
「いや!」とたんにミカちやんの激しい叫びです。
「下までではダメ~ママは私やパパと一諸に私のお家まで帰るの」
「ミカ、それはダメだよ。お姉ちゃんママはお家があるのだから、そこへ帰らないとダメなんだよ」
「嫌だ~ママはミカと帰るの~」
「無理言ったらお姉ちゃんママにママは止めると言われるよ。それでもいいのか?」
「ママだったらそんなこと言わない、ミカの言うこと聞いてくれる」
「無理なこと言うのじやない。お姉ちやん困っているじやないか?」
「でもママと一緒にいたい~」
父親の叱責にミカちゃんは目から涙がぽろぽろこぼれるのです。
ママになるとはこういうことだったのか?
私はママになる大変さを思い知らされた気持ちです。
でも後悔する気はありません。ミカちゃんのひたむきなママを慕う気持ちを受け止めてあげたい。その気持ちに変わりはないのです。
私は正人さんに目で頷いて見せると、ミカちゃんの両肩に手を差し伸べます。
「ミカちゃん泣かないでね~お姉ちゃんママミカちやんの言うこと分かっているからね。ミカちゃんママとさっき約束したでしょう?ミカちゃんがママの言うことを聞いてくれたら、ミカちゃんのママになってあげるて~」
「うん、知っている」
「じや、今日はパパと二人でおうちに帰ってね。お姉ちやんママお仕事があるから家に帰らなければいけないの。その代わり日曜日にミカちやんと遊園地に行きましよう。それでどう?」
「やったーママ~お友達がね、みんな遊園地に行ったというのにミカはパパは忙しい~おばあちゃんは危ない~言って連れてくれないんだからね。それならミカはママがお家に帰るのを辛抱する。ママ送ってあげるからね」
矢張りミカちやんもしっかりしていても子供なのです。聞き分けの良いミカちやんの態度に、これなら私もママ役やれそう~そう思ったりするのです。
<続く>