52章 生放送中
それがとんでもない話を私のメイクの先生兼マネージャの通称<女将>さんから持ち込まれたんのです。
「とくみさん今度は生(なま)で撮りますから~。当然、日も時間も変更できないからね」
「生で?撮影?」
「放送するの」
「生で放送?それは無理~私、なにしゃベるかわからないのに、生では編集できないでしょう。ダメ~絶対ダメ」
抵抗する私だけど、女将さんはまるで聞く耳もたないのです。
なにをしゃべるのか?
何時もと同じ~そもそも生放送をどこで?どの会社?まさかテレビじゃある筈ないし~
「大丈夫、生放送と言ってもここのスタジオでするのだから安心して。何時も撮る要領でいいのよ」
「ここのスタジオで~」なぜちっぽけなここのスタジオで生放送ができるの?メカオンチの私にはまるで理解できないのです。
「それでなにしべったらよろしいの?」
「それは何時もと同じ、貴女考えて~」
「そんな~生放送ですよ。考えてなんて~」
「とくみさんは大丈夫だから~何時もの調子でやればいいの」
ホントこんなマネージャています?何時もそうなのです。<こんなのやってみて~>注文つける位で後は私がアドブリ~カメラの前に立って、注文に答えた言葉が自然と頭に浮かぶのをしゃべるのです。台本なんてありません。あるとしたら私の頭の中にあるみたい?
まあ、自分でも不思議なのです。私の特技と言えそうなのだけど、90歳越えてですからね?
なにかやはり不思議なのです。
でもせいぜいユーチューブで見てもらうには3分が限度ですから、短いおしゃべりですむのです。ところが生放送はそうはいきません。女将さんの追い打ちで気が付いたのです。
「ただ時間は長いし質問もあると思うから、それは考えておいてね」
「それって~しゃべること考えて、質問にも答えること考えてということ?そんな~なにしゃべるか分かりませんからね」
このやり取りがスタジオで、もうグリンーの背景に向かってカメラマンの男性がカメラの設定をしているときなのです。
生放送の実感を感じたのは、矢張女将さんのカメラや撮影兼編集のフレンドさんの撮影器具とは違うのに物々しさ思うのです。
当然後には引けません。いつものように出たとこ勝負でいくしかないと~思っても別に緊張したわけではありません。
でも物足りないのです。生放送で質問もあるというなら、前に観客が居なければならないのにその画面もないのですから~
じつは私、人前でしゃべるのに慣れているのです。千人ほどの舞台でしゃべつたり仕事でしゃべったりしていたので、前に人が多いほど調子がでるお調子者なのですよ。
だからしやベル相手が見えないのに質問のやり取りなんて~手ごたえないし相手の方の反応もつかめないでしょう。
「じゃ~ドボンでもしましょうか?」
「貴女のやりやすいようにやって~」
女将さんとのやり取りしたものの、50,51章で書いている私の作品、読んでくれているの?
思いながら、書いたものをしゃべれば間違いないという判断です。
テーブルに2脚の椅子。座ると、女将さんも隣に座るのです。
また珍しい~顔見たら~
「私が初め話すからね。そして合いの手適当に入れるから。ああ、質問があったとき貴女に通訳するから安心して」
そうでした。私、障碍者で難聴なのです。質問があるのでした。
「じゃ始めますが私が指をいち、にい、さんと三本指出したら始めてください」
カメラマンさんが声かけてきて、私達がうなずくとカメラの操作始めます。
しばらく沈黙が流れると、向かいのカメラマンさんの手が上がり、指が出ます。
<いちにいさん~>
「こんにちは~とくみチャネルの司会の女将です。きょうは91歳の女装のとくみさんが皆さんからの質問に答える放送です。どんどん質問お願いします」
<もうなにがどんどん~答えるのは私なんだのよ>
思う間もなく私に向いた女将さん問いかけてきたのです。
「とくみさんコロナでお出かけもできなくてどうしていました?」
「それがマスクに密でしょう。と言って家に閉じこもっていたら90歳ですもの脚がだめになりますでしょう。それで、家の近くに広い公園があるの。一周したら4キロもあるような公園なんです。そこを散歩したあと、公園のはずれの海岸で遊んでいました」
「90歳で、お元気ですね~それで海岸で遊ぶて、なにしていたのですか?」
「ドボンしていました」
「ドボン?なにそれ?」
「ウインドサーフイン相手に遊んでました。」
「ああ、一人で船操るヨットですね」
「海岸の堤防の上に立ってね~メイクはしないけど女装姿で両手広げるのです。そしたらウインドサーフイン~もう長たらしいヨットにしますね。そのヨットが沖の方に居たのが何艘かが近づいてくるのです。勿論堤防の上に立っている私目指してね。
嬉しくなって思わず手振りました。そしたら一艘の船の人が手振ってくれたのです。それで私が手振ってあげたら~とたんにドボン~」
「ドボンですか?」
「はい、帆が倒れて操作していた男性水の中に沈んだのです。もうびっくり~どうしょうかと思いました。私、散歩には笛を持っているのです。用心のためにね。その笛吹いて助け呼ぼうと思った位。そしたら心配していたのに、頭が浮いてきて男性の方、ヨットによじ登って水に浸かっている帆を引き上げるとそのまま何事もなくすい~と行ってしまったのです。
なにか拍子抜け~ウエットスーツ着ているから水に落ちても大丈夫なのですって~」
「なにかはらはらスリルあるみたいですね」
「そうなのですよ。だからすっかりそれに病みつきになって散歩がてら、毎日海岸に行ってはドボンやるようになったの」
「あはは~それで何艘ドボンしました?」
「3日間でドボンドボン~5艘でしょうか。4日目から近づかなくなりましたけど」
「近づいたらドボンになる~人魚ですね」
「そういえばそうかも~」
まあ、こんな調子で始まった放送ですが、しやべる私に聞こえてきたのが~
「とくみさん質問来てます~」
カメラマンの声。
「ホントに90歳ですか?」やはりね~よく言われる質問です。
「はい、昭和5年10月22日生まれです~」
「肌の手入れはどうしています?」
「はい、朝起きたとき、夜寝る前に洗顔して泥みたいなクリーム塗ってます」
「とくみさんそれに豆乳とコラーゲン」横から女将さんが応援です。
「はい豆乳とコラーゲン飲んで女性のふくよかさを目指しています。これが効いているのでしょうか?目じりのしわがなくなりました」
「スタイルが良いですが、男性とは思えない細い体をどうして作ったのですか?」
「一口で言えば栄養失調です。いえ、戦争中のことです。とにかく食べるものがありませんでした。満州大豆を練炭火鉢でことこと炊いても柔らかくなりません。それをすり鉢でつぶして塩味をつけ、電車の土手に生えているよもぎを摘むんできてまぜて食べるのが主食なのです。
それで栄養失調になって17歳で30キロ、中学性の時は小学生並みの体格でした。ですから終戦後、食料が出回るようになってから食べて運動して<とにかく大きくなりたい>それがすべてでした。おかげで背は伸びて170センチ当時としては大きい背丈になったのです。でもね~栄養失調で骨組みができないためもやしのように細く背が伸びただけだということなのです。
スタイルのいいのは私の戦争の名残というわけなのです。」
ここまでしゃべって一息ついて~あれ?怪訝に思ったのです。
<今日は何時もと違って机を前にして座っての撮影なのに、どうしてスタイルいいと分かるの?>
<この人誰?~>でもその疑問は瞬間でした。もう次の質問です。
「戦争体験されてますね。それ話して下さい」
「戦争中、戦争が終わったらなにしたいと思いました?」
10代の頃のことです。あのころなにを考えていたのだろうか?今になっては思い出せる筈がないのです。1日1日が生きていることを確認するような日の連続でした。ただ必死に毎日を過ごすのが精一杯の日びだったのです。
でも問いに答えなければなりません。咄嗟に出た言葉でした。
「戦争が終わったらケーキお腹いっぱい食べてやると思っていましたね」
隣で女将さんが笑っていたけど~でもね~あの頃の少年はすべてが食い気に集約されていたのです。すべてが焼野原になった都会ではすべてが失われ~食べ物探しに追われる毎日だったのですから~。
質問はその後戦争体験の質問が次々続きました。考えたら質問する人々は戦争体験はない方ばかりです。90歳まで生きている私は戦争を体験した数少ない一人なのです。
戦争体験の話を聞いておきたい~そんな思いを持っての質問なのでしょう。私はそれに答えて生き残った一人として、戦争というものを伝える責任があるとおもうのです。
長い時間しゃべっていたようでした。終わって聞いたら、1時間しゃべっていたのです。これだけ長い時間しゃべれるのは生放送だからと思いました。
そんなことができるシステムがどうなっているのか?メカオンチの私にはわかりません。
でもね~質問される相手の方の顔も見れない~撮影の画像も見ることできないのが悔しいのです。
聞いてみたら200人の人が見ていただいていたというじゃありませんか~
道理で質問が多い筈です。
それにええ!思ったのは、外国でも放送伝わっているのです。
まあ、私の日本語わかる筈ないけど^でもタイ国から質問来ているて~びっくりです。
ホント?信じられません。
その後お店の宣伝の写真撮ったり、行きつけのカラオケスナックの動画の予約もあって、ボランティアみたいな<駆け出しモデル?>
90歳?いえ91歳の~ <オワリ>