㉕ 妻と母
辛い時期です。コロナは終結どころか広がるばかりです。妻とももう四ヵ月も面会することができません。
去年の秋、木々の枯れ葉の散るころ天気が良かったので、妻を車椅子に乗せて施設から外に連れ出し近くの桜並木を歩いたことを思い出します。その時はまだ妻は脚は動かせないけど手は動かせ、小声だけどしゃべることができたのです。
「お母さんこの通りの木はみんな桜なんだよ。三月から四月に入るころ桜が満開でそれは綺麗なんだよ。来年はここを歩こうね」「ウン、私も桜見たい」聞き取りにくい低い声で妻は答えたのです。
「お母さんが元気になって歩けるようになって、この桜の通りを腕組んで歩けたらな~」
私は妻に言うのでもなく独り言をつぶやく~でも、奇跡でもおきないかぎりそれは叶わぬことと私は知っている。妻の病状は進む一方なのだ。
ここの入所の時は歩けなくても手は動いてスプーンを握って食事できた妻が、私が面会から帰るときエレベータの前で手を振ると手を挙げて答えていたのに、それもつかの間、手首だけ挙げて答える仕草しかできなくなったのはコロナの一波が治まって、一回だけだったが面会できたときだった。
その時は娘二人も一緒だった。ビニールの仕切りを隔てて、車椅子の妻に向かって娘は問いかえる。
「ママ、私、誰?娘よ」下の娘が問うと妻は低い声で下の娘の名前を答える。
「偉いえらい~じや、これは誰?」
次女は長女を指さし問う。妻は長女をにぶい目で見つめる。そして長女の名前を答える。ほっとした思いが私のなかを広がっていく。
「じゃ、この人は誰?」次女は私を指さす。私はビニールの仕切りに顔を寄せて妻を見つめる。
「パパ~」即座に声が私に向けて返ってきた。
「じゃ、パパの名前は?」次女は再度尋ねる。首傾げる?そんな感じの表情が妻を見つめると見えてくる。
「パパは何という名前?」次女の問いかけに答えることのできないでいる。
「パパの名前忘れたの?」無言でいる妻は必死に思い出そうとする表情でいるが思い出せない。
<娘の名前は言えるのに、なぜ旦那の名前思い出せないのか?>不満が私の内を広がる。しかしはっと気づいて私はその思いを打ち消した。
そういえば私と妻は名前で呼び合った記憶がまるでないのだ。結婚して子供ができるまでは妻が私を呼んでいたのは、母が易者から買った呼び名だったのである。私には理解できないことだが、多分私より7歳上の二女の姉を肺炎になったとき拝み屋を呼んで死なしてしまった母の無知さは、私にも当てはまると思う。
母が易者から金で名前を買うことをした動機は、死なした姉と私名前が一字が同じで、易者に<その名を使っていると息子さんは早死にする>言われたからである。
成人になってから私は呆れていたものだが、子供の時につけられた呼び名はいまだに本名と違う呼び名で家族、親戚まで私を呼ぶのだ。
話はそれたが、妻は結婚した当座は私を呼ぶのに<貴方>と呼んでいたが、すぐ家族と同じように私を呼び名で呼ぶようになったのである。でもそれはつかの間、子供が生まれるとすぐに私はパパと呼ばれるようになった。
だから私は妻に取ってパパが名前になっているのだ。
妻が次女の問いに答えられないのは、それが所以と私は気づいたのだった。
なんとなく私の内に安堵感がひろがる。まだ妻は私を覚えてくれている~その思いからである。
「ママ大分進行してきている」娘たちのささやきが聞こえたが、私は無視した。妻の状態は私だけの胸の内にしまっていた。
だから時間が来てスタップの人が来て妻の車椅子を押すのに、娘たちが「また来るからね」声かけてもなんの反応も見せない妻だったが、私の呼び掛けに妻の手首だけがかすかに上にあげられるのを私は見逃すことなかった。
車の中で娘たちがおしゃべりに興じているのを聞く耳もたず、私は気がかりなことにとらわれていた。それは私の母を家に引きとって介護しているなかで母が亡くなるころのことである。母はもうしゃべる言葉も失せていた。目も焦点合わなくなっていた。当然妻との会話を交わすことはなく、妻が一方的に母に話しかけるだけだった。
その情景を思い出して、私は妻がその時の母のように無反応になってゆくのでは?それが不安だった。ある日突然施設から家に電話がかかってきて<奥さんが亡くなられました>その言葉を聞くことになるのでは?
想像の不安が湧いて胸の鼓動が激しくなってゆくのだ。
母が亡くなったとき、看取っていたのは当然だが妻だった。
その日私の経営する会社に妻から電話がかかってきたのである。<また珍しいこともあるものだ>思いながら職員から電話を受け取った。妻は私の仕事にはまるで無関心で当然電話を掛けてくることも今までなかった。
「パパ、お母さんが亡くなったよ。帰ってきて~」
電話から妻の普段と変わらない声が流れてきて、私が<えっ!>と聞き返す間もなく電話が切られた。
93歳という歳だし、寝たきりでいる母である。予想していたこともあって、私は折り返し電話することもしないで、多分一人亡くなった母の傍にいる妻は心細いだろう~気がかりもあって急いで家に帰った。
玄関の戸を開けると上がり待ちで妻が待ち構えていた。
「パパ、お母さんの顔見て~安らかな表情<かお>だよ」
普段と変わらない声音だったが、ポロリ~妻の目じりから涙のしずくが落ちたのを私は見て取った。
言葉もなくうなずいただけで、私は母の部屋に入った。
本当に妻の言う通り母の死顔は安らかだった。寝ているのか?思われる顔でゆっすったら起きてくるのか?と思うほどだった。
「枕がずれていたので直してあげたら、とたんにコトンと息が止まったの~」
妻がそのことに、なにか気にするように言ったが私は気にとめなかった。
<本当に気まま人生送って~嫁に看取られて安らかに死んで~自分の欲求をすべてに優先する勝手な生き方したというのに、こんな幸せな死にかたするなんて~>
なにか妬ましさえ感じたのだ。
「お母さん良かったね。嫁さんがいてくれてい安心して亡くなったのだね」
私は死んでいる母に生きているように言葉をかけた。
涙も流さず悲しさもなかった。
93歳という高齢まで生きて、息子夫婦のもとで亡くなって安らかに死んだのだ。うらやましい死に方というべきだった。
それより寝たきりの母の下の世話までして、寝るまも付き添って介護した妻に任せきりにしていた自分に私は後ろめたさを感じていた。
妻に<世話になった。ありがとう~>そう、ねぎらいの言葉をかけるべきなのは分かっている。でも私は、他人にいうような感謝の言葉を言えば、なにか妻との他人行儀というか?妻との距離が離れるような気がしたのだった。
だから死んだ母への言葉のなかに、妻への感謝の気持ちをこめた言葉をいれて、それとなく告げたのである。
その妻が、今、母と同じ症状になってきつつあるのだ~なのに私は妻のそばにはいない。コロナのせいとは言え会うこともなく、妻に言葉もかけられず、なにしてあげることもなく、ただ一人自分だけの気ままな暮らしをしている。その申し訳なさが私を女装に走らせ、女になることで別人になって後ろめたさを忘れようとしているようだった。