(写真・2016年11月 87歳)
⑨親探し
私が出生にまつわる私の謎に気が付いたのは十七歳の就職のとき、戸籍謄本を見たときである。
<なぜ私が母の叔母の子供になっていて、父の母、私の祖母の養子になって父の姓を名乗り、父とは義理の兄弟になっているのか?>
私は物心つくころから母とは暮らしている。その点ではく自分の母であることに間違いない。しかしそれならどうして祖母と養子縁組なのか?いや、母の叔母に当たる人の子供として私が戸籍上なっているのか?本来なら姉達と同じように父の子として認知されなければならないのだ?
この謎を解くには矢張り母に聞くべきことになる。いくら父が亡くなっていたとはいえ、母親が自分の産んだ子を叔母の子供として戸籍に入れるものだろうか?
それに母の叔母とはいえ年齢<とし>は母とそう違わない。、母と同じように子沢山の叔母には三人の男と娘一人がいる。末の男子は私より2歳上、娘は私より二歳年下だから、私を子供として戸籍に入れることには表向き矛盾はない。
ひょっとしたら?私の脳裏に走るのは実際は、私の家族は女ばかりで家を継ぐ男子がいないので、子沢山の母の叔母に生まれた子供を養子としてもらったのか?
でも、私の記憶には母とするには叔母の姿は全くない。いや、赤子のとき生まれてすぐ母に引き取られていれば記憶はないだろう?
当事者の母に聞けば真相は明らかだが、しかし母はたとえ私が叔母の子供であっても私を自分の子だと、言い張るに違いない。それならなぜ叔母の子供として戸籍に入れたのか?疑問を問いただすほかない。
私はそのことを遠回しに母に聞いてみた。しかし母の答えはあいまいではっきりした答えを得ることができなかった。
「家の総領にするために仕方なくそうするより仕方なかったの」
そんな答えしか返ってこないのだ。だが付け足した言葉があった。
「間違いなくあなたはお父さんの子供だから、それは信じておくれ。だから、お願いだから今のお父さんの手前があるから、あなたのお父さんのことは詮索しないでちようだい」
念押すように言うともう口を閉ざして答えなかったのである。
と言われても、それで私が納得できる筈なかった。
<間違いなく私が父と母の子供というなら、なぜ、たとい世間体がどうあろうと、姉達と同じように庶子として私を入籍しなかったのか?>その疑問は依然解けなかった。
しかしそれ以上母を問い詰めることは、養父の手前確かに母には辛いことだということが私には理解できたので、母の言葉に納得した態度を見せて引き下がったのだった。
それに母の生きざまを私が詮索していることを母に知られたくなかったこともある。
<確かに私の出生には何かがある?>なんとなく脳裏に響くのを感じたのだった。
日を経ずして私は再び京都に出かけた。私の出生地であり、幼いときしばしば祖母に預けられていたところでもあり、近くには叔母の住んでいた家もあるのだ。
しかし聞くべき相手の祖母も、叔母も今は亡き人である。しかし叔母の息子は健在で私の母宛に年賀状がくる程度の間柄だが訪ねて行けば何か答えを貰えるかも?と思ったのだ。
高瀬川沿いにあるその家は幼い時私がいたときと変わりない、家のつくりはそのままだった。京都の家の特徴として間口は狭く奥行きが深い家が多いのに、この家は今も間口が広く
引き戸の広い玄関に横に長く格子の戸が長く伸びている。
鍵も掛かっていない玄関に入ると敷石の広い土間で、上がり口には磨りガラス戸がある。
訪なう声をかけると返事があって、ガラス戸を開けたのは白いひげをたくわえた年配だが背筋はまっすぐだから、老人の入口位の年齢かな?と思った。
だが、叔母の長男だということはすぐに分かった。
「おいでやす」私を見下ろすと先に声かけられた。自己紹介するとええ~と声上げた。
「そうどすかあんたはんが、オタカさんの子供さんどすか~そうどすか~」
同じ言葉を続けてで感嘆するその言葉使いに私は言葉に詰まる。
出生地の京都生れとはいえ私は京都弁は苦手である。女性の京都弁は優しく響きがいいのだが、男性が使うと違和感を覚えるのである。
男が女性言葉を使っているようなのだ。まあ、今となっては女装した私が女性言葉で話すのだから、そんなこと言えた義理ではないのだが。
<とにかく上がっておぶでも~>勧められたが私は遠慮して上がり口の縁に腰を下した。
予告もなく不意の訪問である。私の聞きたいことにすべて答えてくれるとは限らないのである。上がりこんで座敷で向かい合っての話になっても、答えをこのひとが持っていなかったら
ばつの悪い思いをさせることになると思ったのだ。
戸籍上では私の兄になり兄弟では長男になるこのひとなら私の出生について、なにか知っている筈と、私は期待を持って疑問をぶっつけた。
「そうどうしたか?あんたはんおタカさんに聞けばわかることなのに、聞けなかったのどすか?それでわざわざうちとこまでな~」
納得したようにうなずくと話してくれた言葉はがっかりする返事だった。
「じつはあんたはんが生まれたとき、わては京都におりませんでしたのや。東京の大学に行って下宿してまして~」
「では私が叔母さんの子供になっていることは?」
「知りまへんでした。私があんさんが私の弟として籍が入っているのに気が付いたのは就職のとき戸籍を取り寄せて分かりましたのや。」
「それで叔父さん~いや、あなたのお母さんはどんな説明されましたのです?」
「それですがな~これはもう他人事や思えませんものな~わての知らん間に弟ができて戸籍に入っている。ところがその本人が居りまへんのどすから~おかしいですものな。それで父に問い詰めましたんや。ところが父はおれは知らん。お母はんに聞けの一点張りで答えてくれまへん。知らんですむ話ではありませんのにな。でも父は強情どすさかいもう押し問答どす。
私も諦めて母を問い詰めましたのや。そしたら,お母はんは<おタカに頼まれたんや。産んだ子供が<父>ててなしごになると泣きつかれて、それでうちの子供にしてから、おばあさんの養子として入籍して、おとうはんの姓と家をを継いだのどす。ただしおばあはんの養子どすさかいな、おとうはんと兄弟になるのは仕方おまへん。>まあ、こんな話どした。」
「それでは私は誰の子供になるのでしょうか?母が自分の産んだ子供なら、なぜ姉達と同じように父の庶子にせずに、叔母さんが産んだことにしてから、養子に迎えて父の跡継ぎにしたのか?わかりません」
私は問い返しながら胸の鼓動が高まるのを感じた。
「じつは私の姉弟は私の上はみな女なのです。父は男の子が欲しいと、母にお前は女腹だと当たったということです。それで言いにくいことですが男さんばかり三人もの子供がいるのに四人目の子供が男の私だったので、叔母さんが姪の嫁ぎ先の家が絶えるのを惜しんで養子に出したのではないかと~?」
恐る恐るの思いで私は内心気づいたことを口に出したのだ。
しかしその私の思いに反して、帰ってきた言葉はあっけらかんとしたものだった。
「それはありまへん。あんたはんは何月生まれどす?」
「九月ですが?」なぜそんな問いが帰ってくるのか?疑問感じながら私は答える。
「そうですやろう。じつは八月には大学は夏休みでわて帰省してますねん。なんぼ男やからと言っても母親が臨月の大きい腹してたら分かりますがな~」
笑い声あげられて、私もつられて笑ってしまう。
「でも叔父さんが良く承知しましたね?いくら叔母さんの姪の頼みだといっても入籍した限りは養育の責任がついて廻りますし。働き手のいない五人もの子供を抱える未亡人の子供ですからなおさらです。」
「確かにそれは言えますな。わてもそのへんのいきさつを父に聞いてはみたのどすえ、でもすごく嫌な顔してこた答えてくれまへんからわても聞くの止めましたんや」
<何か隠しているような気がするのですけどな~>つぶやくように言われるのを聞いて、私はもうこれ以上聞くことはないと悟った。
なにか拍子抜けした気分だった。結局分かったのは、籍には入れたけど叔母夫婦は私の親ではなかったということだけなのだ。
立ち上がり礼を言って戸口に向かった私の背に声が追いかけてきたのである。
「あんたはんも、そなにお母はんのこと気になるのやったら、なにも身内に聞かんでも産婆さんに聞いたらすむことと違いますやろか?」
その言葉に私は言われる意味が分からず振り返り答えを求めて相手の顔を見つめた。
「あんたさんはおばあさんの家で生まれたのだったら、産婆さんがあんた取り上げているでしょう?あの頃は子供産むのは今のように病院ではなくて、産婆の手借りて妊婦は家で子供産んでますねん。誰があんたがお母はんか産婆さんが一番知っていますがな~」
あっと思った。そうだったのか?気づいて私は次に訪ねる先を知ったのだった。
「でも、どこの産婆さんか、それに四〇年以上もの昔です。健在かどうかも?」
「それは大丈夫どす。産気ついたら夜中でも飛んできてもらわなければいけまへんやろ。家の近くの産婆の世話になますねん。今はお歳やから産婆はしていてないけど、お元気どすから訪ねて行ったらなにか分かると思いますけどな」
一気に高揚感に私は包まれる。訪ねる家の場所を聞いて私は玄関の戸を開ける。
「わても、その産婆に取り上げられましたんや~」その言葉を私は背中で聞いた。<続く>