<写真2015年9月>85歳

 

➆ 父と私の秘密

  父の戸籍をみて私が驚いたのは、母が入籍していないことだった。姉達は父の姓を名乗っているのに母は旧姓のままで併記されている。姉達は父の庶子になるのだ。養父の子、義弟が庶子の子であるがゆえに蔑視の目で見られたというのに、同じことが姉達にもあったとは~母は日常生活では父の姓を名乗っていたが、戸籍ではその記載はない。旧姓のままである。だが私達は父と母との子供として父の姓を名乗っていることによりなんの疑問も抱かなかったのである。

 一体、父と母は子供を5人も成して夫婦そのものなのに、なぜ父は母の入籍を認めなかったのか?私は瞬間、養父と母の関係を思い浮かべた。今でも二人は本妻をさしおいて、二人の子供があり夫婦同然の暮らしをしている。しかしすぐ私はその疑惑を打ち消した。母が二号である筈はない。父には本妻はいないのだから、母はいわゆる内縁の妻ということだろう。気が楽になった私だったがそれどころでないことに戸籍の閲覧で気が付いたのだ。

 驚くべきことに私の名前の記載が、父の姓ではあるが、父の母、私の祖母の養子として私が入籍して父と同じ姓を名乗っていることになっているのだ。

 一体これはどういうことなのだ?私は混乱した。そう、重ねて言うが、私は戸籍では祖母の養子として入籍して、父とは義理の兄弟の関係になっているからだ。

 今のようにパソコン、スマホがあって情報が瞬時に手に入る時代ではない。だが役所の窓口に行けば分かることかも知れない。瞬間その思いが頭を横切ったが、いや役所では戸籍にある範囲しか答えてくれるはずはない。思い直した。そう、なにも手間いらず、当事者である母に聞けばすむことは私には分かっている。しかし私にはそれができなかった。母には一番聞かれたくないことだろうと理解していたからである。

 母からすれば二人の夫との正常でない関係~いや、戸籍に正常に載せられない関係というべきか?そのことを私が聞けば聞くほど母を問い詰めることになり、母を責めることになりかねないという危惧もあった。

 私がそう思ったのは母が可哀そうだという気持ちもあるが、私の奥にはひとには絶対言えない母の秘密を知っていたからである。

 それは幼い子供にでも忘れえない強烈な母と養父の本妻との戦いであった。「あき子助けて!」姉に向かって助けを呼ぶ母の叫びが私の記憶の奥底に根付いている。

 母にとっての二人の夫とのいきさつ、私の父とのこと、そして私自身のこと~母に聞けばことの経過は一目両全なのは分かっている。しかしそれを聞けば母の答え次第で私の口から事件のことが出るかもしれない。それを私は恐れた。母にとっては亡くなった姉以外は身内で知る者の居ない筈の母の秘密である。それを暴かれることの母のショックは計り知れない。

 そんな思いでいる私が優しさと思われるかもしれないが、そうではない、私は、父と母との関係~どのようにして接点のない二人がつながることになったのか?私の出生の秘密は?どこにあるのか?それを探るためには母に知られずに調べを進めたかったのである。

 

 いや、姉に聞けば手掛かりは得られるかも知れない?思ったが、それもできなかった。<今更過ぎ去った過去を掘り起こすことはない。嫌な思い出を蒸し返すことはないでしょう。>長女の姉に云われるのを私も承知している。長女の姉にとっては年端もいかないときの過去の思い出は辛さをを確認するだけなのだから。14,5歳で料亭での下働きは辛さ以外何物でもない。父が死んで良かった!姉の言葉は冷たい言葉かもしれないが、姉は自分の苦労の根源は、父と母にあると年少のころから心に刻み込んできたのだろう。そして下の姉たちは年端もいかない頃の話だから知る筈はない。

 そんな身内の複雑な心境を抱えて私が得た結論は、まず父のことから調べてみようと思いたったのだった。

 それで私は父が働いていたという京都の高級料亭を訪れたのだ。今から言うと五〇年近く前のことである。

 この料亭の歴史は古い。明治維新後、政治の中枢を担った元老達を皮切りに大正、昭和と政治家、宮家、経済人、文化人などが訪れた料亭なのである。

 さすがに今より若くて無鉄砲だった私でも思案したものである。果たして私の家の内情のことぐらいで高級料亭の主人か?女将が相手になってくれるか?しかも40年以上の昔のことなのだ、父のことを知っているひとがいるかどうかも不明である。それでも、とにかく行ってみようと私が決断したのは、父と母の原点はこの料亭から始まったと思ったからである。ダメでもともと~そんな気持ちもあった。

 

 その名のある高級料亭の前に立ったとき、私は意外な感じだった。さぞつくりの豪華な建物と想像して構えた気分で行ったのに予想とは違ったからだ。かやぶき屋根のお茶屋~そう300年の歴史を刻んだ建物がそのままの姿でいるのだ。本の写真そのままだと当たり前のことに自分を納得さしたものだった。

玄関と呼ぶべきか?入口の戸を軽やかに引いて声をかけた。「はい」若い声の返事がすぐさま返ってきた。

 しかし奥から出てきたのは中年の紺の前だれを付けた仲居さん風の女性である。

 「おいでやす~」腰を屈めながらきれいな声がかかってくる。

 「お一人さんどすか?」すぐさま問いがきたので、私は反射的に「はい「」と答える。

「どなたはんからのご紹介どすか?」続いての問いにまた反射的に「いいえ」と答える。高級料亭の主人に会いに来たのだ。誰かの紹介でもないかぎり無理か?ふっとそんな思いが横切る。

 「すんまへんな~うちはどなたかのご紹介がないと一元さんはお断りしてますのどす」

 女性の京都弁は柔らかい。うちの店<たな>は飛び込みで入れるような料亭ではない。誇りが言葉の内にあるように聞こえる。

 そこで私は相手が客?と思い違いされていることに気づいた。慌てて<違います>言いかけたが、言葉を飲み込んだ。言葉の前に笑顔を見せる。自分の笑顔は相手の態度を優しくさせる。私の幼い時から生きるすべのなかで学んだ知恵なのだ。

私は思い出す。養父の私への折檻<せっかん>さえも私の笑顔には上げた手が降りるのだから。私は意識して笑顔を相手に向ける

「40年ほど前のことですが、父ががこの料亭で板前頭としてお世話になっていました~」

 私は訪ねてきた理由を要約して説明した。私の笑顔の説明に相手~仲居さんは次第に表情が解けて笑顔に変わってきて、私の話にうなずき返す。

「そうどしたの?わかりました。そんなご用件でしたら旦那はんに聞いてみまひょ。ちょっとだけ待つとくれやす」仲居さんは告げると奥行きの深い通路に足を運んで行った。

 門口の話で私は内に入るのをためらっていたのだが表に出ることにした。客でもないので入ることを遠慮したのだった。外から見ると気が付いたのだが、玄関の横には床几があって、煙草盆、茶壷,水がめ、古びた草鞋<わらじ>が鎮座している。思い出したのは図書館で調べたこの家<や>の歴史であった。

 昔、東海道の長旅から京に入る入口、旅人はこの茶店で旅衣装を着替え、草鞋を新たにする。床几に腰を下して、手の煙管<キセル>で煙草盆をとんとんと打ちつけている。。旅人の横には茶飲み茶碗がある。あたらしい草鞋がある。

 そんな昔の情景が私には浮かんでく る。料亭始まりの歴史的な茶店だった当時の姿を残しておこうというこの屋の主人の心意気が伝わるようだった。

 小説好きの私にとって、文豪、谷崎潤一郎が愛した老舗料亭であり、小説{細雪}にもその記述がある料亭なのだ。

 「お待つとうさんどす」背中の声に振り替えると仲居さんの笑みがあった。

 「おお、おばあ様だったら知っているかも?旦那はんの話どすので案内しますさかい」

 うなずいた仲居の後について外の道を歩いて行った。えんえんと長く続く竹垣を通して、樹木のなかのあちこちに建物が

孤立して散在している広大な風景が広がっているのである。

 やっぱり高級料亭だと認識する。少し歩いたところで勝手口のような戸口を開けると仲居が入ると私にうなずく。

 「どうぞここどすえ」言われて私は頭を下げて勝手口をくぐる。樹木に囲まれた敷石をたどりながら、よく手入れされた庭だと思う。木々の足元を囲むように青々と苔<こけ>の広がりがサテンを敷いたようなのだ。

 一軒のこじんまりした建物にたどり着く。

 仲居は玄関の戸を開けて入り私も後に続く。上がり口がある。

 「おおおばあさま、、お客さん、おいでやしたどすえ」仲居の呼ぶような声が部屋に響く。

 前のふすまの戸が開けられて姿を見せたのは、もう、90にもなろうかと思える、小柄な老婆であった。<続く>