⑥ 姉、母と息子

  先に書いたように、母は養父と最後まで添い遂げ、93歳までの長生きをした。私の長女の姉は100歳、3女は95歳今も健在である。私も含めて私達はは母に似て長命の血筋のようだ。しかし次女は17歳で死んでいる。母と養父の本妻との凄まじい争いのとき居た姉である。

 この姉は私とは七歳しか離れていないが、幼いときの私にとっては母親同然の姉である。

 私の身になにか起きたときは、私の記憶には母親ではなく姉の姿が脳裏に浮かぶのである。今も私の太ももにはやけどの跡が白い皮膚に茶色い染みのように残っているが、火鉢にかけてあった鉄瓶<鉄製の湯沸かしやかん>を私がひっくり返して大やけどをした跡なのである。

 このときの私もまた五、六歳の幼児であったと思う。矢張り私が大泣きしている場面で、姉が母から叱責<しっせき>受けているのが分かるのだが、母の姿も、姉の姿も私の脳裏には出てこない。ただ母の激しい口調<なぜちゃんと見てやっておらないの!>姉にまくしたてる、母の激しい口調が私に向かって言われていると思いこんで私は泣いているようだった。しかし考えてみると私の脚のやけどの跡はすぐに手当てを受けたおかげか皮膚の引きつりの跡は見られないのだ。

 そして母の口ぶりから、私がやけどをしたとき母がいなかったということであり、すると14歳か、15歳ぐらいの姉が私のやけどの応急の手当てをして医者にに連れて行ったということになる。この一時でも私にはこの姉が母と同じ対象となるのである。しかしこのとき姉を叱り飛ばしながら 一体母はどこに行っていたのか?

私には知るすべはない。しかし姉が母代わりになっていたことは他にもあるのである。

 私が六、七歳頃だと思う。家の近所にどぶ川が流れていた。私はこの川に落ちたのである。

 この時はもう母は饅頭屋を辞めて転居して別の家に住んでいたようだ。私はそのどぶ川にかけられていた板を踏み抜いて川に落ちたのである。でも、水の中でもがきながら誰の助けをうることなく這い上がった私は、それでも子供である。泣きながらずぶ濡れになって家に帰ってきたのだ。そのあと私の記憶に残っているのは、姉が私を叱りながらも、タンスの引き出しを開け私の服や下着をだして着替えさしたことである。それはもう、私にとって母親することであった。

 このときも母の姿はない。推測でしかないが私の年代、義弟の年齢から考えると養父との逢う瀬を楽しんでいたのかもしれない。

 しかし私が母を憎むのはこのことではない。この母代わりの姉を母は無知と云えば言い過ぎかもしれないが、一七歳の若さで姉を死なしてしまうことなのだ。死因は肺炎であった。

 高熱であえいでいる姉をこともあろうに、医者を呼ぶのでなく、拝みやを呼んだのだ。老婆の拝み屋が口で祈祷を唱えながら姉の胸を押しまくったのである。肺炎で絶対してはならないことをやってのけたのだ。そのとき私も居た。病気であえぐ姉の傍を離れることなかったのは子供心に不安感が自分の中にあったからだと思う。

 当然のこととして姉は死んだのだ。後で聞いたのだが祈祷師の老婆は<私が拝んだら皆な治っていたのに~>とぼやくように言っていたという。私は母と云えるような姉が結果として殺されたような気分を持って、幼いながらも澱<おり>のように自分の心のなかに沈殿さしていたのである。

 近所の人などが<お姉ちゃんが亡くなって寂しいね~>慰めの言葉を言ってくれるのに、幼い私は胸を張ってこたえるのだ。

「ううん、他<ほかに>お姉ちゃんがまだいるからそんなことはないよ」

 幼い子供の強がりかもしれない。だがこのときから私は耐えることを身に着け生きていくすべを学んだのだと思う。なぜなら姉の死を悼むことを言えば言うほど、、それは姉を死に追いやったといえる母の対応が、周辺に蔑視として広げることにつながることになると大人の理屈ではなく、本能として感じていたからだと思う。

<写真は二〇二〇年二月二七日ロマンで>

 母は女子四人男子三人を産んでいる。そのせいかも知れないが、子供に愛情を注ぐことができなかったのかも?私はそう思うことにしているが、私の一番上の姉は母を味噌くそに言っていた。

「私は十四歳から働きに出されたのよ。お父さんの働いていた料亭で高下駄履いて水仕事させられて、手はあかぎれで真っ赤になって子供心にこんな苦労は絶対したくない。お母ちゃんを恨んだり。お父さんが死んで良かったと思った。だってお父さんが生きていたら絶対この料亭で働かされて、板前の嫁にやられていたに決まっているもの」言いたい放題の姉は平気でそんなことを言う。そして母をこき下ろすのだ。

「このあいだも棚もし、私が掛けていたのを、お母ちゃんたら勝手に下して使ってるのよ」腹ただし気に云うのを聞いたことがある。

 二つの話は年代のかけ離れた話だが、多分父が亡くなって祖母に三女と末娘と預けられていた長女は、母に父の居た料亭の下働きに出されたのだと思う。さすがに母もしゅうとめに子供三人養わせて気が引けて長女を働きに出したのだろう。姉の言う<棚もし>というのは<頼母子講>といい<金銭の融通を目的とした民間の互助組織>近所のものが寄って毎月掛け金をして、必要なものが先に利子に相当するものの出しかたが高いものが落札できる、後に受け取るものほど受け取る金額が多くなる。

 これを掛けていた姉の<棚もし>を母が勝手に落札して受け取った云うのである。

 養父と暮らすようになってからもこの調子だっから、まして父が死んで寡婦として子供を抱えた母は、いくら父の遺産があったとはいえ、子供を働かすほかなかったのだと思うのだが~。

 しかしそれだけではなさそうに思うのは~私は戸籍を見て現地にも行きわかったのだが、母は和歌山の奥、山村にある村一番の大地主の娘で育っている。母親が早く亡くなって祖母の手で育てられていることから、母は私の妻以上のお嬢さんだったと思う。しかし父親は言うところの小原庄助さん、会津磐梯山の囃子言葉でいう朝寝、朝酒、朝湯が大好きでそれで身代<しんしょう>つぶした~

 この唄を地でゆく父親であったという。酒浸りで田畑を次々売り払う始末に親戚が寄ってたかって家を守るという習わしを振りかざし、母の父を廃嫡して弟に家を継がしたのである。私は母の姿に父親~~私の祖父の血を母が引き継いでいるような気がする。

 そう云えばNHKの大河ドラマ<キリンが行くで>明智光秀描いたドラマを見て、戦国時代から家を守る大義名分のために、親子、兄弟お命をかけて争う姿に、個人より家を守ることが唯一という思想が昭和の時代まで引き継がれていることに、思想というものは社会構造の大変動がないかぎりそう簡単に変わるものではないと思ってしまう。

 それにしても本来なら母の父~祖父が小原庄助でなかったなら母が一人娘として後を継ぎ、大地主になって婿を取り穏やかな人生を送っていたであろう。人の人生というものは親のあり様によって子の人生もまた左右されるものだと~このことは母だけでなく子の私にも言えるものだと今も思えるのである。

 私は妻のことを書いていたのに、いつの間にか脇道にそれて母の生きざまを書いている。それというのは私は妻と母を常に対比して見ているからである。母と妻は正反対でいてどこか共通点があるのだ。私が母に求めて得られないものを妻に求めているのだろうか?そんな想いを持ちながら私はトンガリ帽子の妻の居る建物を見飽きず朝、夕に見続けているのかもしれない。

 

 話を戻そう~

 私が興味を持ったのは、私の母と父との接点だった。和歌山の奥に住む一人娘の母~そして京都で多分高級料亭の駆け出し板前の父?二人の間には距離がありすぎるのだ。私は母の里にも行ったが、JR橋本からひと山越えて行くところである。交通の便もない歩きでないと行けないとこなのだ。そこを私が訪ねて行ったのは、母の父~祖父が廃嫡になってその後のあり様であった、。父娘がその後の人生をどう送ったのか?私が訪ねて行ったとき、祖父に代わって家を継いだ祖父の弟はすでに亡くなっていて、子供が跡を継いでいたが、それだけに詳しいことは聞くことはできなかった。ただいつの間にか挨拶もなしに父娘が居なくなった~それだけしか聞くことはなかった。

 幼い娘の手を引いた父親が村を追われるように山道を降りていく~親子の姿を私は映像のように思い浮かべる。

 不思議に思われるかも知れないが、母と長年一諸に住んでいたのにこの親子が村を出てどう生きていったのか?私が知らないことである。実は母は幼い母が父親に連れられて村を出た記憶がまるでないというのである。多分幼い母にとって余程辛い記憶であったため忘れたい~その想いがあったに違いないのだろう。それだけではない母は父とのなれそめも含めて、娘自分のことは頑として私や姉たちにも話さなかったのだ。

 なにがあったのか、村を出た母の人生は?父と娘はどんな生き方をしたのかはまるで不明だった。

 しかしその疑問は私の父のことを調べていくうちにある程度分かってきたのである。

 それは母と父の関係については戸籍を調べ私は愕然としたことであった。、<続く>