9月19日(日曜日)  晴れ  ダブリンーレンスター地方ーダブリン 


 8時に目覚め、9時に朝食。ホテルの2階の食堂は、珍しく天窓があって、どっしりとした明るい部屋だ。しかも清潔。アイリッシュ・ブレックファーストは、量がある。卵も、オートミールも出された。
気が付くと、少し前方の席で、東洋人とおぼしき旅行者たちが食事中。中年の男性3人に若い女性1人。「何処から来たのかな?」と思っていると、話し声が耳に入った。それは、韓国語だった。…… 


 今日1日は、ダブリン近郊の見物に宛てる。中央郵便局の近くにバスターミナルがあり、11時に観光バスが発車。……アイルランドは、北海道を少し大きくしたくらいの島だが、4つの地方に分かれている。そのなかで今日は、ダブリンのあるレンスター地方を周遊するコース。この地方は、ブリテン島のイギリスや欧州大陸に近かったので、他の地方とは異なり、その影響を早くから受けたという。島の開発は、ここから始まった。 


 ダブリンの街区を出ると、すぐに車窓一杯に、濃い緑の森が飛び込んできた。その森が続く、続く。アイルランドは、ひっそりと寂しい緑の島である。しばらく北進すると、こんもりと重い緑に包まれたボイン川の畔に着き、20分ほど下車。川幅は狭いが、黒い底石の上を流れる水が清く澄み、手を触れると氷のように冷たい。…… 

ボイン川の北側に、紀元前3000年頃の新石器時代の墳墓「ニューグレンジ古墳」がある。埋葬室まで1本の通路を備えた巨石の構造は、ヨーロッパ本土のミケーネその他をも、ふと思い起こさせる。
川の南側ののどかな丘陵地帯には、約3世紀前の「ボイン川の古戦場跡」がある。ここで1690年、アイルランド・フランス連合のカトリック軍と、イギリスのプロテスタント軍とが激突し、イギリス軍が勝利。以後、アイルランドでプロテスタントが優勢となり、支配されるカトリックの苦難の年月が始まった。 


 ボイン川から南下すると、広々とした草原に「タラの丘」がある。紀元前200年頃から紀元後500年頃まで、先住のケルト人たちがアイルランド島の王を選び、王が居住して、祝祭や裁判や市場などを主催した場所。氏族たちの大規模な宴会場跡もあり、ここは当時の都であった。……
キリスト教の浸透後は衰退したが、現在でも象徴的な"聖地"とされ、イギリスの圧迫下に生じた新大陸への大量の移民たちにも、「タラに帰る!」という言葉は、望郷と愛国の想いを集約していたらしい。つまりタラは、日本列島では「ヤマト」なのだ。だから今日も、この丘への各地からの巡礼者が絶えない。
バスを降りて、しばらく散策。丘には現在、幾つかの円状の土塁、数本の石碑、キリスト教を広めた聖パトリックの像くらいしか遺されていない。ほかは青空の下、見渡す限り草原が拡がっている。……と、丘に降り立った乗客20人ほどの中に、2人ほど東洋人の男性客の姿があった。一瞬、やはり何故か韓国人だと思った。 


 この丘から、さらに南方へ移動すると、2つの湖がある渓谷の地帯に出る。そこには、アイルランドの初期キリスト教会の遺跡群があり、わけても「グレンダーロッホ修道院」が名高い。下車して、6世紀から9世紀にかけて繁栄したという地に残る、天を突くばかりの円塔、石積み建築の鐘楼や礼拝堂などを観る。ひっそりとした山間の地だが、半ば観光地化されていて、近くにホテルや駐車場の設備もあり、その小さなレストランで遅い昼食が出た。たっぷりとしたローストビーフ。寒冷地域は、食事の量が多いようだ。


 そこからまた、さらに南西部へバスが走り、草原のなかに静まり返る「ブラウンズヒル・ドルメン」を観る。重さ100トンもあるという、アイルランド最大の冠石を持つドルメン。この島の原始時代は、牛馬と牧草地と巨石であった。……わが飛鳥地方に残る、蘇我馬子の墓と伝えられる巨石が浮かんで来た。


 帰路のウィックローからダブリンまでの、山々と湖水、森林と海岸線の美しさは、人々に"アイルランドの庭"
とまで称えられる。車窓から堪能したが、しかしアイルランドという島は、何かわびしい……。デビッド・リーン監督の映画『ライアンの娘』は、この島の海辺の寒村の物語だが、心がわびしくなるような作品だった。眼前の海にも山にも、澄みきった荒涼感がある。このわびしさには、どんな精神的風土が隠されているのか? 


 午後6時、ダブリンのバスターミナルに帰着。日曜日のため、午前中は市街に人影が無かったが、この時間になると賑やかだ。三つ揃いの背広を着て、お洒落をした若者が通る。この国の厚手の毛織物の上着は立派だ。
中央郵便局の周辺にある、中華飯店に入って夕食。食後、ホテルの自室に戻り、1時間ほど仮眠。
夜9時頃、目覚めると珈琲が欲しくなり、夜の街に出て、小さなカフェで喫茶。再び自室へ戻り、シャワーを浴びて、早めに休んだ。もう明朝は、ダブリンを離れなけばならない。……


 就寝後、この日に触れたアイルランドのわびしい孤独な風景が、あれこれと浮かんできた。この島は、欧州大陸からも大ブリテン島からも、ひとつだけ離れて孤立している! たとえばリスボンは、欧州大陸の西のはずれにあるが、イベリア半島の連帯感の中にもあって、リスボンを訪れて"田舎"と思う人は無いだろう。ところが、ダブリンには、それが有るのだ。辺境であり、僻地としての何かがある。恐らくアイルランドが離島であり、周囲からの孤立によって生じた何かなのであろう。が、アイルランドが歴史的に考えて、この孤立を好んで受け入れて来たとは思えない。正確に言えば、やむを得ず、受け入れざるを得なかったのである!


 大ブリテン島と、あたかもシャム双生児のごとく近接して位置する、地政学上の宿命的な悲喜劇は、決してアイルランドを幸福な島とはしなかった。イギリス連邦から脱退し、アイルランド共和国が誕生するまでの、民族の長い烈々たる独立苦闘の歴史は、何とも哀しい。この島には今もって、その哀しさが残っているのだ。……
そう考えた時、今日見たばかりの韓国の人々の姿が、よみがえって来た。ひとしく独立苦闘の歴史をもつ人々にとって、アイルランドへの旅は、いわば「聖地」への巡礼なのではなかろうか?……
僕の、ニューギニアで戦死した父は、日中戦争にも津田部隊の連帯騎手として従軍、凱旋して数年間、東京での勤務生活に戻った折り、僕の母に言ったそうである。「日本人は向こうで、ひどいことをしているよ」と。さすれば、日本列島もブリテン島と同様、やはり罪業の歴史を背負っているのだろう。……
そんなことを考えていると、目が冴えて、眠れなくなって困った。


◎写真は   ダブリンの市街(1971年9月18日に撮る) 


          ダブリンの街角の若者たち(同上)