9日9日(木曜日)  晴れ  パリ

8時、起床。今朝は、横尾さんを迎えに行くので、昨夜遅く朝食はキャンセル。と、若槻君から電話があった。「横尾さんに連絡したら、荷物は多くないから、手伝いに来てくれるのは、1人でいいよ、と言われました。僕だけ、先に行っています」と。それならと階下へ降り、キャンセルした朝食を頼んだ。
朝食後、軽く体操。シャワーを浴びてから、母あてに絵葉書3通を書いた。……

10時半頃、竹本さんから電話があり、数十分後、モンマルトル坂下の、氏のアパルトマンに行く。
11時半、そこを出て、氏とタクシーに同乗。セーヌ川の中州のシテ島まで走り、ノートルダム大聖堂の前で下車。横尾さんが仮寓する"外国人のための芸術家村"は、その近辺にあった。……

元気な横尾忠則さんと、ほぼ7ヶ月ぶりに再会。竹本さんと若槻君、横尾さんと僕の4名が揃ったので、近くのカフェに入って昼食を摂る。ガルソンから人気メニューだと告げられ、揃ってオムレットを注文。ハムやチーズ、キノコやジャガイモなど具沢山。僕は、フランス式のカフェ・クレームを飲んだ。すべての会計を竹本さんが持って下さり、恐縮……。食後、4人でタクシーに同乗、モンマルトルのペンション「パラディエ」近くまで行つて下車。横尾さんは、僕の部屋の向かい側の1つ奥の28号室へ、旅の荷を降ろした。

その後の昼下がり、4名で、モンマルトルの坂道や、テルトル広場の一帯をぶらぶらと散策。丘の頂きのサクレ・クール寺院を見物してから、寺院の前方に広がる、白い石の階段に腰を降ろした。遥か眼下にパリ全市が遠望され、頬に吹く風が心地よく、爽快な気分になった。……そのうち竹本さんと横尾さんは、神秘的な宇宙論に夢中になり、流行するマリファナの害を力説したり、僕と若槻君も、ちかくに座っていたフランスの少年たちと会話しているうちに、いつか時が流れ、何かノスタルジックな気分に浸された。平和な時間だった。

夕刻、モンマルトルの坂下で、竹本さん師弟と別れ、僕と横尾さんは、例のセルフサービスのレストラン「ウィンピ」に寄って、早めの夕食。というのも、この夜、坂下の通りにある有名なキャバレー「ムーラン・ルージュ」のショーを、若槻君たちと観に行く約束をしたからだ。僕は、フライドポテトと小さなステーキ。
7時、横尾さんと、ペンション「パラディエ」の各自の部屋へ戻り、暫く休む。

夜8時半頃、若槻さん夫妻が迎えに来る。4人で坂道を下って「ロシュシュアール大通り」へ出て、西へ10分ほど歩くと、パリでも名高い"赤い風車"が目を引く、花やかな賑々しいキャバレーがあった。
揃って入場、9時10分に開演。アメリカからの輸入版のショー『オー・カルカッタ!』を観る。フランス色のオブラートを掛けた艶笑譚で、たわいが無い。「週刊新潮」のコントに等しいが、場がキャバレーだから、これで良いのだろう。……11時に終演し、夜道をペンションまで帰った。

12時、ベッドに就く。


9月10日(金曜日)  晴れ  パリ

8時に目覚めたが、空腹を覚え、待ちきれず、階下の食堂へ行って朝食する。
体操し、シャワーを浴び、洗濯を済ませ、絵葉書を何枚か書く。

10時半頃、横尾さんが姿を見せたが、ペンションの朝食の時間は終わっていた。
11時、一緒に外出。若槻さん夫妻の住居への道すがら、横尾さんが言う。「ぼくは朝寝坊でね、昼近くまで寝ている時もある。済まないけど、適当な時刻になったらドアをノックして、起こしてくれませんか……」 横尾さんは若く見える人だが、僕より6歳も年上の先輩である。依頼を快諾。

若槻さんの住居で、夫妻と合流。皆で坂下の大通りへ出て、夫妻が知る中華料理店へ行く。幾皿かオーダーし、それぞれを分け合って、賑やかに昼食。パリの中華料理も、まんざら悪くない。
食後、付近のスーパーストアに入って、暫く買い物をする。僕は、下着の長袖のシャツ2枚を購入。東京だとL サイズだが、こちらでは普通サイズになる。
午後の2時頃、スーパーの前で、皆さんと別れる。横尾さんは「じゃァ…明日の朝、頼むね」と一言添えて、いずこかへ飄然(ひょうぜん)と去った。……背が高く細身だから、格好がいい!

僕はタクシーを拾い、右岸の中心部へ出た。10月にはアメリカで、グレイハウンドのバスを使って各地を旅する予定だから、発着のタイムテーブルが必要。同社のパリ支店に出向いて、分厚な1冊を貰う。デスクの男性が、「早くアメリカに来なさい」と笑った。久しぶりに英語で話した。

夕刻、モンマルトルに戻る。入りやすいので、いつもの「ウィンピ」で、1人で夕食。ここはセルフサービスながら、ガラスケースのメニューが毎回違うのが、滞在者にはいい。パンにハムやチーズを挟み、上に別のチーズをのせて焼いた「クロック・ムッシュー」が、口に合う。パリのパンは、美味しい。
6時に帰宿、1時間ほど仮眠。目覚めて、グレイハウンド社のタイムテーブルを検討。ニューヨークからサンフランシスコまで、各地に立ち寄り、バスで大陸を横断する場合、どうしても最短1ヶ月はかかる。宿泊先を考えたりすると、「これは大事業だな」と溜め息が出た。……

8時半頃、外へ出る。テルトル広場辺りまで、夜道を散策。……滞在1週間になるが、パリというところは、旅行者にも"居やすい"ところだ。竹本さんが「暮らしやすいところです。ヨーロッパの"座布団"とも呼ばれている」と言われたが、日本からの旅行者にとって、ここはジャパニーズ・パリジャンが多く住むので、思案に窮するようなこ とは何一つ無い。その代わり、パリという"人間の住む街"では、もしかしたら、旅人としての孤独や緊張が弛(ゆる)むだろう。スイスのルツェルンのような湖畔の小さな町、欧州の涯(はて)のリスボンのような海の街にあった、透明な深い「孤独」は、必然ここには無い。恐らくロンドンにも、ニューヨークにも、それは無いだろう。……

ここは、要するに"言葉の街"である。言葉こそが、文化を生み、文化を作り、それを護っている。市民の多くが英語を知っているが、同時に英語を拒む。スーパーの買い物でも、こうした彼らの、厳しいまでの英語へのノンに面食らい、困惑するアメリカ人を見かけた。
タクシー2台が擦れ違い、危ないショート状態になるや、スペインの運転手は、相手と火のついた如く罵り合う。ところが、当地の運転手たちは、相手を睨み付け、冷笑し合って去っていく。……パリで暮らす人びとは、1枚の大きな「ソフィスティケーション」のベールに包まれて、生活しているらしい。それが自然なのだ。
竹本さんは、僕について「中村さんはムスッとして、照れるときがあるから、パリの人たちとは合う」と言って下さったが、僕には地方生まれの、山国育ちのストレートさがある。長年のジャパニーズ・パリジャンのお世辞だと思い、竹本さんの言葉を聴いた。それにパリの人びとは、日本人のような島国びとではないので、外国人に対しての関心が薄い。横尾さんは今や、当代有数の若い人気絵師だから、東京の街中では振り返らない者とてないが、ここでは当然、パリ市民たちは彼を見向きもしない。横尾さんには、それも良いのだろう。……

11時、早めに休んだ。



◎写真は   ヴェルサイユ宮殿の庭園内にある「夕暮れのダイアナ像」(亡母遺品の絵葉書)