9月6日(月曜日)  晴れ  パリ

8時半、起床して体操の後、朝食。10時、若槻さん夫妻が、ペンションの階下に来訪。日本から荷物が届いているオルリー空港まで、勝手の分からない僕に、この日は同行して下さるためだ。

3人で、だらだら坂を降りて大通りへ出て、タクシーを拾う。パリのタクシー料金は時間制のよしだが、空港まで小一時間かかり、係官との仏語での応対など、すべて若槻君がやってくれたので、大いに助かる。
冬物のセーターとジャンバーを納めた、故国からのダンボールの箱を抱え、再びタクシー使用で、昼過ぎにモンマルトルへと戻る。若槻夫人が「いっしょにお昼をどうぞ……」と誘って下さり、連日のことで黙っていると、若槻君に「2人でも3人でも同じ。中村さんと居ると、楽しいんですよ。自由な気持ちになるから」と言われ、いささか照れたが、またもや彼らの"愛の巣"に潜入してしまった。
 
出国以来のうどんを満喫。こうして見ると、若槻夫妻にしても竹本夫妻にしても、今日のジャパニーズ・パリジャンは、日頃も和食の暮らしが可能なのだ。「今夜9時から、ブローニュの森の近くに住む、或る裕福な
日本人の家で夕食会があります。いまパリに居る日本人が集まるので、行って見ませんか」と誘われ、喜んで承諾。午後2時過ぎ、中心部で用事のある夫妻とタクシーに同乗、僕だけオペラ座前で下車して、別れた。

この日は、セーヌ川の左岸を見物する。
その前に、オペラ座通りを歩いてパレ・ロワイヤルまで行き、コメディ・フランセーズの数日後のチケットを3枚購入した。演目は、ラシーヌの『ブリタニキュス』で、これなら概要は掴んでいる。……
そこから東南方向へ移動すると、右岸に沿って市庁舎、サン・ジャックの塔、サラ・ベルナール座、シャトレ座などが林立する地帯がある。小公園を挟んで向かい合う2劇場は中規模だが、市内では有数の舞台らしい。

ボン・ヌフを通って、シテ島へ渡る。この中州の島はパリ発祥の地で、ここに紀元前3世紀頃、バリシー人が住み初め、この都市の歴史が始まった。左岸のソルボンヌ大学付近には、ローマ浴場や闘技場の跡も小規模ながら遺るというから、パリは2千年以上の生命を有している。
シテ島には現在、最高裁判所や警視庁があり、とりわけ12世紀着工・14世紀落成という、かのノートルダム大聖堂が鎮座ましましている。落成後は栄枯盛衰を重ね、大革命時には荒廃して、司教もギロチンの刑に消えた。が、ナポレオンの皇帝戴冠式やヴィクトル・ユゴーの小説などによって復興し、この中世ゴシック建築の傑作は、現在まで国家的な大伽藍として輝いている。僕は、中央に聳える尖塔を、黙って見上げた。……

大聖堂から左岸へ渡ると、南西にカルチェ・ラタン、北西にサン・ジェルマン・デ・プレ、この2つの区域の南方にモンパルナスがある。カルチェ・ラタンには学生街、サン・ジェルマン・デ・プレには文化人や芸術家が集まる大通りがあり、いずれも文教地区としての、知的で洗練された雰囲気が濃い。物の本によると、晩秋の枯れ葉の舞う季節は、街角が一段と風趣に富み、人懐かしいものになるという。……また、モンパルナスにも今世紀初頭、無頼の詩人や画家たちの群れたアジトが多く、この左岸が総じて、パリの近世以降の文化の母胎の地になっていたわけだろう。

現在のパリ大学は、13の総合大学として分かれる。そのなかの3校が「ソルボンヌ」の名を残すが、その発祥は古く13世紀だから、宰相リシュリーが眠る礼拝堂、天井画で知られる大講堂など、由緒ある建物もあるらしいが、残念ながら大学の敷地内に、一般人は立ち入ることが出来ない。
ソルボンヌの近くにバンテオンが建っている。丘の上にあった古い教会が18世紀に再建され、フランスの偉人や英雄たちの霊廟が生まれた。高さ110m 、奥行き83mという、堂々たる神殿造りのモニュメント。ルソーやヴォルテール、ユゴーやゾラ、キュリー夫人などの棺が置かれている。……建物を眺めながら、或ることが気になった。これまで日本には、この種の集約された施設が、1つも存在しなかった。各地に神社が存在し、すべてが神社に祀られる。乃木神社も東郷神社もあり、英霊は靖国神社におわしますから、あえてパンテオンを必要としないのである。けだし日本こそ"神国"で、今さら追悼施設などは用がなかったのである。

パンテオンの近くに、詩人の「ヴェルレーヌの家」がある。少し離れた場所には、相棒だったランボーのアジトも残る。モンパルナスにもバルザック像があり、こうした文学史的痕跡が、この地域にゴロゴロしている。さらに右岸のユゴー記念館、ギメ美術館その他、各種の歴史・文化関係の「館」また「館」も溢れていて、パリという都市全体が、今日では半ばモニュメントと化している。……
パンテオンから西の、サン・ミッシェル大通りの向こうに、リュクサンブール公園が広がる。面積は25ha 。
元来は、ルイ13世の母の居住する宮殿の庭園だったが、現在では、市民が四季の変化を楽しむ憩いの場だ。
園内の樹木の合間には、多くの著名人の彫像が置かれている。中心部にある、大泉水が美しい。……

この公園の北側に、国立オデオン座とオデオン広場がある。ここは18世紀末、コメディ・フランセーズの劇場として開場した。それだけに重厚で、どっしりとした建物である。1965年秋、パリでの最初の歌舞伎公演も行われ、監督ジャン・ルイ・バローの歓迎の辞が記録されている。……正面から劇場の姿を眺めているうちに、当時の僕が「オデオン座の花子」という文章を、雑誌に書いたことを思い出した。それにしては今、歌舞伎からも劇場の世界からも、自分が、ずいぶん遠いところに来ている感じがした。……

この地域には、2つの著名な教会が、いずれもオデオン座の北西にある。1つは、サン・シュルピス教会で、規模ではパリ屈指の大教会。17世紀半ばに着工、幾多の変遷を経て、現在ではネオ・クラシックの外観を呈している。1799年11月、革命曆ブリュメール18日のクーデターが起こる3日前、ボナパルト将軍の武勲を称える700名の宴会が、この教会で行われた。内部には、ドラクロアの名画も掲げられている。
もう1つは、サン・ジェルマン・デ・プレ教会。その起源は6世紀と古く、数少ないロマネスク様式を残す。
空に伸びる高塔の姿の美しさが、左岸に住むパリジャンたちの心の糧になっているという。……

左岸の2つの地域を漫歩すること3時間余り、やや疲労して、サン・ジェルマン大通りからタクシーを拾う。6時半頃、モンマルトルのペンションに帰着。さすがに草臥れて、一息つく。

夜8時少し前、若槻さん夫妻が迎えに来て、約束したブローニュの森の近くでの夕食会に出発。その裕福な日本人一家は、戦前からパリに住んでいるという。地下鉄で、森の公園入り口まで行く。
ブローニュの森は、パリの西方にある約850ha の広大な森林。王朝時代の貴族たちの格好の狩猟場だったが、ナポレオン3世の統治期、パリを大改造したオスマン男爵によって、この森が公園化された。現在では湖や池や滝、庭園、バラ園、スポーツ施設、競馬場、テニス競技場など、すべてを完備する保養地である。

その欧風の家は、森の木々が鳴る風音の聴こえる場所にあった。古風な日本語を話す品のいい老夫婦と、人の良さそうな息子夫婦とが、愛想よく迎えて下さり、現在パリで活動している日本人たちが十数人、立食のテーブルを囲んでいた。握り寿司を盛った数枚の大皿、サンドイッチを並べた数枚の銀製の盆、それに麦酒とツマミと果汁という、いたってサッパリとしたもてなしだった。皆さんと2時間ほど談笑の後、ひとりの日本人の青年が、僕たち3人を彼の車で送ってくれることになり、一家の皆さんに挨拶して辞去した。
この青年は、京都ホテルの料理部に勤務していたが、1年ほど前に渡仏して現在、日本大使館で働いているとか。車中、海外での和食づくりの難しさを語ってくれた。車窓の向こうに、戦前のパリ万国博の会場だったシャイヨー宮の建物や、天を突くエッフェル塔の夜景が遠望された。……

モンマルトルのペンションに遅く帰った。就寝が、午前2時になってしまった。


 

◎写真は  エッフェル塔とシャン・ド・マルス公園(亡母遺品の絵葉書)