9月5日(日曜日)  晴れ  パリ

やや遅く、8時半に起床。このペンション「パラディエ」では、朝食一式を銀色の盆に載せ、部屋の外まで運んで来てくれ、扉をノックして立ち去る。パリ式というのだろうか。廊下に珈琲の香が漂う。
朝食後、しばし微睡(まどろ)み、体操してシャワーを浴び、時間をかけて洗濯をし、昼近く外へ出る。
胡児(こじ)の泉●1971年・西方旅行日記
パリ滞在の初めの数日間を、徒歩で市内を一巡して見物することにした。
モンマルトルの丘のだらだら坂を降りて、麓の大通りにある地下鉄ロム駅から乗車し、南西方面のエトワールで下車。先ず皮切りに、かの「凱旋門」を観る。周囲が広場になっていて、地下からエレベーターで頂上へ。

この巨大な建物は、19世紀劈頭にナポレオンの命で着工し、約30年を要して1836年に完成。4年後、流刑の地セント・ヘレナ島から帰還した皇帝の遺骸が、哀悼の大セレモニーによって、この門をくぐった。現在では、無名戦士のみならず、国のために殉じた多くのフランス人のための、一大記念碑となっている。
幅45m 、高さ50m の凱旋門の頂きに立つと、東西南北、広大な風景が展開する。前方にシャンゼリゼ大通りとコンコルド広場、後方にエッフェル塔、左手に遠くサクレ・クール寺院が見渡せる。まさに「絶景かな」で、僕のような諸国からの"お上りさん"が、パリ全市を最初に一望できる場所として、この頂きに勝るところはないだろう。……

この日の午後は、セーヌ川右岸のパリの中心部を歩く。
シャンゼリゼ大通りは、お上りさんには、これこそ"世界の都大路"だ。日本は勿論、古今の東西両洋にわたって、これほど立派で広々とした、快適な美しい、しかもシックな華やかな大通りは、他に一つも無いのではあるまいか。凱旋門から、ロン・ポワン・シャンゼリゼ広場を経て、コンコルド広場までの約2Km 。マロニエとプラタナスの並木が風に揺れ、ゆったりとした両側の舗道に並ぶ、カフェやブティック、映画館や銀行が醸(かも)し出す、豪華で優雅で上品な雰囲気は類を見ず、ただ歩いているだけでも、楽しい幸福感に包まれる。
ここが16世紀には、沼地の多い野原であったことなど、誰が想像できよう。17世紀の中頃から"エリゼの野"として開発され、18世紀には数軒の館が並び、19世紀のナポレオン3世の時代には、今日の原形となる世界一の都大路が出現したという。そして、凱旋門とエッフェル塔と、このシャンゼリゼ大通りなる"楽園"の三つが、現在でもパリのシンボルなのである!

シャンゼリゼ大通りの周辺には、幾つもの名高い建物や名所が散在する。
ロン・ポワン・シャンゼリゼ広場から南西方向に歩くと、シャンゼリゼ劇場がある。20世紀初めに開場したパリ有数の近代劇場だが、ここで1920年代、すなわち昭和初頭に名優ジャミエが、岡本綺堂の戯曲『修禅寺物語』を上演している。瀟洒(しょうしゃ)な外観だが、内部を観られないのが残念だった。……
広場の北東方面に、重厚な建物のエリゼ宮がある。現在は大統領官邸だが、ナポレオンが2度目の退位宣言に署名した歴史的旧跡でもある。その更に北東方面に、さながらアテネのパルテノン神殿のような、カトリックのマドレーヌ教会の姿が望まれる。堂々たるギリシア式円柱が並ぶが、内部は厳かなキリスト教空間である。

この教会から南下すると、シャンゼリゼ大通りの終点であるコンコルド広場へ出る。
その中央には、エジプトから贈られたオベリスクが建ち、遥か西に凱旋門、東にチュイルリー公園とルーヴル宮、北にマドレーヌ教会、南に国民議会のブルボン宮が視野に収まる、パリの要(かなめ)とも言うべき地点に位置する広大な広場。元来は「ルイ15世広場」として造られ、その騎馬像が中心部にあったが、大革命が勃発するや撤去されて「革命広場」となり、断頭台が置かれ、ルイ16世と王妃マリー・アントワネット、ダントン、ロベスピエールを初め1119名が、次々と処刑された。その後、"調和"を意味する現在の名称の広場になったというが、僕のようなお上りさんには、何と言っても、大革命に関する知見の記憶が鮮烈なのだ。この広場に立っていると、奇妙な既視感に襲われる。歴史の風景が、一つ一つ甦るからだろう。……
既視感と言えば、パリという街の多くのものが、お上りさんにも必ずしも「未知の都会」ではないのである。

広場からコンコルド橋へ出て、初めてセーヌ川を眺め、橋の上から左岸のブルボン宮を遠望。
右岸に引き返し、セーヌ川沿いのチュイルリー公園を歩く。整備された環境と設備を有し、ベンチには憩う市民や、足休めの観光客の姿が見られる。公園の東端と、ルーヴル宮の西端の地点には、カルーゼル凱旋門がある。ナポレオン時代に造られたが、エトワールの凱旋門より小ぢんまりとしていて、その規模に皇帝は不満だったという。大理石の優美な門を潜り、ルーヴル美術館へと移動する。

幸い日曜日で、ルーヴルの入館は無料。ところが館内到るところ、各国からのお上りさんでごった返し、名画・名作・名品の周囲には観覧者が蝟集して、それこそ足の踏み場とて無い。名に負う「ミロのヴィーナス」も、幾重にも人垣に包囲され、その全身が定かに見えない。15代目市村羽左衛門は、フランス人との混血児の噂があったが、その生前に花の都のルーヴルを訪れ、ヴィーナス像を眺めて「腕の無い女に、用は無いぜ」と、洒落のめしたという"伝説"が残っている。それが今、人だかり人いきれの渦に巻き込まれ、その片腕すら見えないのは、何とも遣りきれない。立ち尽くしていても、人垣が解消しないのである。……
遅めの昼食を、館内のレストランで摂る。羊肉を挟んだサンドイッチ。フランスは穀物の豊かな国だから、パリのパンは美味しい。13世紀の要塞が、王朝時代に宮殿に変わり、大革命後は美術館へと転生したルーヴルには、あらゆるものが収められている。が、あの見物客が溢れる大混雑を考えると、足が遠退くだろう。

昼食後、ルーヴル宮の北にある、パレ・ロワイヤルの静かな回廊を散策。ここは現在、市民が憩う落ち着いた"パリの中庭"だが、元来はルイ13世の枢機卿リシュリーの館があり、没後にルーヴル宮殿に寄進され、やがて大革命時代以降には、カフェやレストランが並ぶ商店街へと姿を変え、三転して今日の小公園のような、味のある場所になったらしい。ルイ14世の命で、モリエールが創設した劇団コメディ・フランセーズは、革命期からパレ・ロワイヤルに本拠を置いている。僕はパリ滞在中、ここだけは観たいと考えていたので、回廊の内部にある劇場やチケット売場、そして演目を確認した。……

パレ・ロワイヤルからオペラ座大通りへ出て、北方に向かって歩くと、やがて正面にパレ・ガルニエ、すなわちオペラ座の大建築が観えてくる。19世紀半ばナポレオン3世時代の「新しいパリ」計画により、公募されて建設され、今日では世界のオペラ・ファンの殿堂になっている。が、その大仰で華美な、入り組んで重苦しい、こけ脅かしの"見てくれ"の勝つ威圧的な建物は、必ずしも名建築とは言えないだろう。……僕は、傍らに立ってオペラ座を見上げたが、この超豪華な大歌劇場に、何故か好意と関心が持てなかった。と言うよりも、こうした虚飾のシンボルが、目前に生きている現実に、耐えられないような何かがあるのだ。……

オペラ座に反発し、鼻白んだ寸刻の後、その近くの南西にある、ヴァンドーム広場を観る。パリでも指折りの美しい広場とされ、中央には青銅の高い塔が聳え、遥か頂きからナポレオン像が、眼下を見つめる。
ここで、今日のパリ見物を打ち切り、地下鉄オペラ駅からモンマルトルへと帰る。

ペンション「パラディエ」30号室に落ち着いたのは、夕刻6時。しばらくベッドに横たわる。
7時半頃、竹本氏が来訪され、今夜もまた若槻さん宅の夕食に誘って下さる。
8時、近隣の若槻さん達の住居に行き、夫人お手作りのチキンライス、卵焼きなどのご馳走に預かる。歩き疲れたせいか、これが大変に美味しかった。10時頃、スイスから帰られた竹本夫人と同伴の女性が見え、併せて6名、賑やかに喫茶して談笑。アルプスの山中は、すでに震えるくらい寒かったよし。……

深夜12時、ペンションの自室へ戻る。



◎写真は  エトワールの凱旋門(亡母遺品の絵葉書)