8月29日(日曜日)  曇り のち雨 のち晴れ  マドリッド

8時半、起床。ゆっくり休んだのに、元気が無い。9時、2階のカフェで朝食。一応食べたが、活動意欲が湧かない。明後日はマドリッドを去るというのに、これでは困るなと思った。
午前中はベッドに居て、うつらうつらと過ごす。自分には、怠惰を好むところがあるようだ。……

昼近く、起き上がって体操し、入浴する。どうやらハッキリしたので、ロビーに接続するバルで昼食。タラをすり身にして揚げた、薩摩揚げのような一品を食べ、レモンソーダを飲んだ。

午後2時、外出。アトーチャ駅まで、ブラブラと歩く。曇っていたが、駅の構内に着いた頃、驟雨(しゅうう)になる。構内で雨宿りし、久しぶりに雨の音を聴く。……振り返ると、日本から来た旅の若者3人がいたので、挨拶して立ち話する。「マドリッドの雨は、2ヶ月ぶりだそうです」と彼らが言う。当地は乾燥した気候だから、少ない降雨が喜ばれる。多雨多湿の日本人の感覚とは違う。そう彼らに話すと、1人が「でも、どこへ来ても、世界は同じだ。世界は一つだと思いました。日本は別だ、日本人だから、という考え方にはなれない」と言い切る。「言われてしまったな」と、少し堪えた。笑顔で別れたが、このような現代の一種の普遍主義が、僕には苦手なのだ。こういう「何でも見てやろう!」と逞しく海外へ押し出す、とりわけ関西系の合理主義の若者たちが、なぜか僕には苦手なのだ。……

暫くすると、雨が止んだ。忽ち嘘のような晴天になり、濡れた道を歩いて、ホテルへ帰った。
この日、旧市街の北東地域にあるラス・ベンタス闘牛場で、闘牛が開催されると、昨夜マークから耳にしたが、どういうわけか関心が薄く、観に行く気になれなかった。「雨が降って、どうなったかな」と思った。
夕刻まで、下着の洗濯をし、マドリッドを去るべく、荷物の整理などをする。

6時、ホテル「ナショナル」のロビーへ行く。リチャードが、ちょうどトレドの見物から帰って来たところで、ロビーの一隅のビュッフェで休息、コーラを飲んでいた。彼は、僕にもコーラをオーダーし、「昨日、コーラーを貰ったから」と言って笑った。「いや、シネマを観せて貰ったよ」と僕は返した。「トレドは、どうだった?」「日曜日で、見物する人が多くて、大変。人が多いのは、好きではない」そして、僕を指差し「そうだ、雨が降った!」と言った。昨夜の僕の予言を覚えていたのだ。
7時、マークが来た。「闘牛場へ行ったの?」「それが、夏の闘牛は夕方の7時から2時間やる、というので、行かなかったんだ」「では、今日の雨とは関係がない」「そうだ、雨が降った!」と、彼も僕を見た。
リチャードは、このホテルへ8時に訪ねてくるヒトがいるとかで、マークと僕の2人だけが、今夜もまた「スモール・レストラン」へ出かけた。当地では、ローストチキンとりんご酒を、組み合わせるらしく、それを注文。「キューバに行ったことがある?」「無い。近いから、母は以前は、毎年のように帰ったそうだ。アメリカとキューバの仲が悪くなってからは、難しい……」「日本人も今は、中国へは行けない」
「リチャードが、今夜は来ないね。彼は try  al ways  かな?」「さァ、どうかな」と、2人で笑っていると、9時頃、彼がやって来て、夕食に加わった。話題が変わった。マークが僕に、ユキオ・ミシマのハラキリについて、「本当のことだったの?」と問う。「もちろん!」と答えると、彼は「日本人は凄い。ブシドウは凄い」と、溜め息を吐いた。すると、リチャードが「ぼくは、ハイスクールに入った頃、ジュウドウをやったよ」と言ったので、驚いた。どちらかと言えば、ナィーブで内気な、ハニカミヤさんの彼に、意外な一面が
あることを知った。……

昨夜と同様、食後に通りを歩いた。僕は2人に、マドリッドの王宮を観ることを勧めた。そして、明日の午前中、いっしよに3人で行くことに決めた。僕も、もう一度、観たいと思った。……

10時半頃、ホテルへ帰り、また洗濯をして、就寝は12時。



8月30日(月曜日) 晴れ  マドリッド

7時半、起床。8時半、朝食。すぐに外出。晩夏だが、暑い日になりそうだ。歩いてホテル「ナショナル」へ行く。9時半、ホテルのロビーで、リチャードとマークの2人に合う。

3人で、アトーチャ駅から地下鉄に乗り、王宮近くで下車。王宮前のアルマス広場に、日が照りつけて眩しい。10時半頃から午前中、いっしよに王宮の内部を見物。幸い今日も、入場者が少ない。それだけに警備の
衛視の姿が目立つ。数日前にも感じたことだが、この王宮には「暗さ」が澱んでいる。エルミタージュやシェーンブルンが、すでに今日では喪失した暗影が、なお生きていて、それが華麗さを深めている。
数多くの部屋の設備、調度、雰囲気が、昔日の贅沢な実相を、まだリアルに伝えていて、リチャードもマークも「Interestinq!」を連発。シェーンブルンなどは、透明な過去になっているが、ここには実感が残っているのだ。それが面白いのである。……

王宮を出て、サン・アントニオ聖堂の方向へ少し歩いた地点で、2人と別れた。僕はタクシーでホテルに帰り、何時ものバルで昼食。茹でたジャガイモとチョリソを食べ、珈琲を飲む。王宮は再見の価値があった、と思った。食後、ロビー階の地下に理髪店があるのを知り、入店して久しぶりに散髪。月初め、イタリアのデッセンザーノで散髪してから、手入れをせず、少し髪が伸びた。古風なほど丁寧な理髪師だった。……
午後は自室で仮眠したが、冷房が弱く、残暑で汗が出た。目覚めた後、体操して入浴。

夕刻6時半、彼らと夕食の約束をしたので、ホテル「ナショナル」へ行く。
リチャードが降りて来たので、ロビーで話す。「僕は明朝、ここを去って、バルセロナに向かう。いろいろと有り難う」と告げると、彼は「I remember  you.」と返し、「秋にアメリカへ来るなら、ぼくのセントルイスの家に来て欲しい。住所を書いて、駅まで送るとき渡す」と言ってくれた。僕は、嬉しかった。「ありがとう。明日の列車は朝、早く出る。心配しないで。それより今夜、眠れるかな。ホテルの冷房が弱くて、暑いんだ」と笑うと、彼は「それなら、ここは涼しい。ぼくの部屋にベッドが2台あるから、移ってくるといいんだ!」と、彼も笑った。ややシャイな若者だが、こんな茶目っ気がある。……

夜8時から、3人で「スモール・レストラン」で夕食。マークに「最後のディナーだから、テツロウがメニューを」と言われ、マドリッドのお名残にパエリャを選ぶ。マークは、イカ墨を炊き込んだパエリャ。リチャードは、肉と魚と野菜のミックス・パエリャ。僕は、魚介類のパエリャを、それぞれオーダー。そして、当地特産の「ラ・マンチャ」というワインの赤白2本を、僕がご馳走した。ほかの2種のパエリャも小皿に分け、互いに一口ずつ食べたが、どれも美味しかった。ワインも、まろやかな口当たり。……

食後、通りへ出ると、どちらともなく、僕をホテルまで送ると言う。リチャードが「テツロウの書いた本があるなら、見せて欲しい」とも言う。何かの際にと考え、去年出した一冊をスーツケースに収め、持って来ていた。で、彼らは何と、ホテル「グランビア」609号室まで、押し掛けてきた。僕の"メンタル・テスト"だったのだ! 一冊を取り出して見せると、リチャードの目が耀いた。「ぼくは、この本を買いたい!」と言う。何という嬉しいことを言ってくれるのか。「日本へ帰ったら、1冊送る」「ありがとう。本の中に、テツロウの名前を書いて、送って欲しい」……10時半頃、やっと彼らは退散した。

マドリッドの最後の夜が終わった。12時、就寝。


◎写真は   マドリッドの王宮の全景(亡母遺品の絵葉書)

       王宮前のアルマス広場で。左がマーク・ゴンサウレス、右がリチャード・ダンカン(1971年
       8月30日に撮る)