8月25日(水曜日) 晴れ  トレド

昨夜は、ベッドの蚤や蚊に悩まされ、未明3時頃まで眠れず。朝7時半、起床して朝食後、直ちにペンション「アラヨ」を去り、ホテル「マラビーリャ」へと移動する。途中、ソコドベール広場の一隅で、水原画伯のジュニアに遇う。「明日、ここを去ります。お世話になりました」と言われ、「僕もです」と返して、別れた。

午前中、昨日も行った「大陽の門」の辺りまで歩き、その周辺をしばらく散策する。石畳の坂道や狭い路地が多く、要塞として護りには強いが、都市としての拡がりに適さない地形が、近代への変化を拒み、トレドが古都として今に残った理由だろう。坂を上り下りするたびに。タホ川が見え隠れした。……

広場にあるレストランで、昼食を摂る。これまで僕は、スペインの"国民食"とも言われるパエリャを、何故か口にする機会がなかった。そこで、バレンシアが発祥の地と聴いたので、オリーブ油で貝やイカや魚を炒め、米を炊き込んだ『パエリャ・バレンシアーナ』を、この本場で食べてみた。実に、美味しかった。満喫した。このように米が、調理されるバリエーションにも感心し、すっかりパエリャ・ファンになってしまった。

午後は、「マラビーリャ」の401号室で仮眠の後、体操をして身体をほぐし、やっとシャワーを浴びることが出来た。洗濯もして、心身爽快になった。
夕刻、広場の大木の木陰の下にあるカフェへ行き、冷えたレモン・ソーダを飲んだ。夏も終わりで、広場には人影が少ない。風も無いしじまのなかで、旅先には珍しく、しばし瞑想の時間を持った。……

水原画伯が先夜、「俳句なんて、溜め息を漏らすようなもの」と言われた。それは一つには、言葉が短いためだろう。井伏鱒二先生は、「俳句にはまだ、現代のリズムがある。だが、短歌はどうかな」と仰有ったことがある。「自分は、言葉を短くするほうだ」とも呟かれた。……
先生は日頃から、「孔子は、東洋最大の詩人だよ」と断じて、よく論語を引用される。その中に「子の曰わく、辞(じ)は達するのみ」があって、これには様々な解釈がなされてきた。が、言語への無力感を示唆する、という説もある。千万言を費やしても表現できないもの、言葉の限りを尽くしても伝わらないことが、現世には存在する。井伏先生は、「原爆を体験した人は、原爆について語らない」と言われた。……
論語にも「子、怪力乱心を語らず」とあり、孔子には、言語への畏怖があった。この畏怖は、言葉を謙虚にし、少なく短いものにする。けれども、そこにもまた、"詩"が生まれる。「知者(ちしゃ)は惑(まど)わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず」という、凝縮された人間分析の詩が。「言葉を短くする」井伏先生のそれは、東洋の「仁」の文学と考えてもいいかも知れない。……

これに対して、西洋は言葉を増やし、言語を徹底的に拡大する。ホメロスにしてもシェイクスピアにしても、言語への畏怖や無力感があったとは、とても思えない。言語を飽くまでも信じ、言葉を極限まで貫いて開花させる、人間の精力こそが、新大陸発見や帝国主義という帰結を生んだのだろうか。西洋という「知者」は、まさに惑わない。井伏先生は「三島君は、言葉を増やすほうだ。だから、限界があった」とも言われた。それこそ、限界まで惑わずに突入して散った三島先生のそれは、やはり西洋の「知」の文学だった。……

いつか辺りが、薄い闇に包まれていた。気を取り直して、ホテルに帰った。
夕食すべく、1階のレストランへ降りたが、今夜は客が誰も居ない。水原さん父子も、スケッチのためか遠出したようだ。トレドの最後の晩なので、思い切って贅沢をしょう! と、鉄板で焼いたサーロイン・ステーキを、久しぶりに食べた。ガランとした周囲の中で、ただ1人で黙々と、厚切りのステーキを堪能した。それほど好むわけでないが、やはり肉食には醍醐味がある。

荷物の整理をして、早めに休んだ。ほとんど人に遭わない、珍しい日だった。……



◎写真は   トレドのペンション『アラヨ』の宿泊した部屋(1971年8月に撮る)

       トレドのソコドベール広場近くの工芸品店(同上)

       井伏先生と僕(1973年7月、先生の信州の山荘で)