8月24日(火曜日) 晴れ トレド
8時半、1階のレストランで朝食。9時、直ちに近くのペンション「アラヨ」へ移る。昨日遇った、日本人の画学生の女性3人、外語大の学生の男性1人が、それぞれ朝食中で、各自と互いに笑顔で挨拶。……
9時半、トレドの旧市街の見物に出発。トレドは、湾曲して流れるタホ川に囲まれた、花崗岩質の岩山の台地なので、市街としての面積は広くない。観るべきものが凝縮して散在するが、1日あれば見物は可能だ。
先ず、ソコドベール広場から最も近い、現在では軍事博物館になっている「アルカサル」へ行く。市内では
標高が最も高い場所で、古代から格好の城塞となり、今日の建物は16世紀に築かれた。1936年に始まったスペイン内戦では、フランコ軍が72日間も籠城し、共和国軍と死闘を交えた。建物の内部には、その際の戦死者の多数の遺影や、内戦時代の記念品の数々が展示され、僅か35年前の過去が、生々しく甦ってくる。
そこから南西へ少し下ると、「カテドラル」即ち大聖堂がある。このトレドの大聖堂は、キリスト教スペインの大司教座、つまり首座、日本流に言えば大本山である。キリスト教勢力がトレドを奪還し、イスラム教の大モスク跡に13世紀初めに着工、約270年を費やして15世紀末に完成させた、天に聳えるゴシック建築の大伽藍である。内部の装飾の豪華絢爛、金銀財宝を傾けた優雅美麗、そして、掲げられた著名画家たちの歴史的な作品群は、まさに訪問客を圧倒する。……だが、僕には何故か、このような壮麗で荘厳な、威圧的な境界に対しては無感覚であり、無反応な分子がある。キリスト教には、大聖堂・教会・祈祷所という、建物のランクがあるようだが、これまでに観た教会や祈祷所では覚えなかった、いわば無感動な零(ゼロ)状態に化した。……
カテドラルから西へ10分ほど歩いた所に、「サント・トメ教会」がある。14世紀にオルガス伯爵が復興した教会で、ムデハル様式の塔の美しさでも知られる。が、この教会を著名にしたのは、エル・グレコの一代
の傑作『オルガス伯の埋葬』を所有し、それを公開しているからだ。大聖堂にも、グレコの『聖衣剥奪』『十字架のキリスト』が飾られていたが、この終生の名作は、さすがに一見の旅行者を釘付けにしてしまう。
何故なら、そこにはオルガス伯1人への哀しみを超えた、永遠の「祈り」のような、大いなる鎮魂が籠っているためだろう。画家グレコは、スペイン人ではなかった。16世紀の前半、ヴェネチアの影響下にあったクレタ島に生まれ、若き日にヴェネチアに渡って美術修行した彼は、30歳台の中頃からトレドに移住。以後の40年間、その死に至るまでスペインで生きた。スペインは、ギリシア人の彼が選んだ「第二の国」だった。
16世紀から17世紀の前半まで、スペインは新大陸開拓をリードし、世界の覇権を握っていた。グレコにとっては、希望の国であったろう。然るに、この代表作『オルガス伯の埋葬』が完成した1588年、スペインの無敵艦隊はイギリス海軍に大敗北を喫し、スペインは海上権を失う。"日が没しない世界帝国"に影が射し、衰退への一歩が始まるのだ。……このグレコの傑作には、彼がギリシア人であっただけに、スペインという第二の国の絶頂期における落日の終末観、その忍び寄る運命的なものが、オルガス伯の過去の埋葬を、当時の衆人たちが見守るという図式のなかで、自ずと投影されたのではないだろうか。個人の死が蒸留化し、或る巨いなるものとの別れが鋭くも予感され、祈りをこめて歌われているのではないか。……
この教会の近くの南方に、美術館を兼ねた「エル・グレコの家」がある。グレコが当時、貴族から借りてユダヤ人地区に住んでいたという家を、20世紀になって修復し、アトリエ・書斎・寝室・台所を再現したもの。天井が吹き抜けの部分もあり、相当に広い家で、僕が訪れた時間には、日本の学生グループが来ていて、かなり騒がしかった。館内には、著名な『トレドの景観』など20点の絵画が展示されている。
それらを観ながら考えたのは、どうして彼グレコが、このトレドに長く住んだのか、ということだった。
それは多分、次のようなことだったのかも知れない。スペインは現在でも、ヨーロッパでは最も興味深い国だろう。そこに東西の文明の交雑が残存するからだ。グレコが生きた時代、アルプス以北の西欧諸国には、イベリア半島におけるような、混血・混和した"国際的な"文化と社会の状況は、ほとんど未だ見られなかった。イタリアにもイスラム教の侵入は無く、ギリシアは近世初頭まで、東ローマ帝国というキリスト教下にあった。
イベリア半島という地域のみ、ヨーロッパとアラブの攻防1000年の歴史を有し、キリスト教徒とイスラム教徒、アラブ化されたキリスト教徒とヨーロッパ化されたイスラム教徒、さらにはユダヤ教徒が雑居して、対立し交流し和合する、言わば一種の"国際社会"を形成した。ギリシア人のグレコにとって当時、このスペインの国際的な社会は住みやすく、かつ極めて興味深いものであったろう。それが、僕の解答になる。……そして、こうしたスペインやポルトガルの"国際性"こそが、新大陸への雄飛を生んだ。
◎写真は トレドのサント・トメ教会のムデハル様式の塔(亡母遺品の絵葉書)
