8月18日(水曜日)  晴れ  リスボン

7時半、車内の寝台で目覚める。昨夜は、肌寒かった。8時、係員がコンパートメントのドアを叩き、パスポートの提示を求め、ポルトガルへの入国検査。8時半、別車両のビュッフェに行き、トーストと珈琲の朝食。

9時半、リスボンのサンタ・アポローニア駅に到着。マドリッドから、11時間半を要した。
ホームに降り立つと、空気清爽、空澄み渡り、はや秋の気配である。リスボンは、欧州大陸の最西端の首都で、テージョ川の右岸に位置する人口40万台の中都市。12km 下ると河口になり、大西洋の波濤とまじわる。ホームを今、颯颯(さつさつ)と吹き抜けるのは、川風か、または海風か。……素晴らしい朝風である。

構内の案内所で、適当なペンサオン(ペンションのこと。当地では、こう言う)を紹介して貰う。
サンタ・アポロ―ニア駅は、国際列車も入線するが、さまで大きな建物ではない。建物を出ると右脇に、小さな井泉が零れている。馬でやって来た父と子が、下馬して、その馬に水を飲ませている! 日本の地方都市では今や全く見かけない、何という懐かしい心に浸みる景色かと思い、しばらく佇(たたず)んだ。……
駅前の通りの向こうには、テージョ川の流れが見渡せる。この辺りは川幅が広く、対岸が霞むほどの大河だ。

小さなタクシーに乗った。駅から北西へ20分ほどすると、旧市街の「レスタウラドーレス広場」を通過。その中央には、17世紀半ば、スペイン支配60年間から独立した記念の、高さ30m のオべリスクが立つ。
広場から西側へ進むと、小高い台地の「バイロ・アルトの丘」があり、その一隅にペンサオン「ジョア」405号室が待っていた。……驚いた、部屋が広い上に、雪のようなダブルベッド! バスタブもあり、ペンサオンというより小ホテルだ。窓を開けると、リスボン特有の紅色の屋根、白い壁の家々が斜面に並び、空が青く、大気が爽やかだ。この好条件で、安いスペインより、さらに宿泊料が安い。嬉しくなって、荷物を置いた。

階下のフロントで、昼食について訊いた。ここで朝夕は用意できるが、昼は、坂を少し降りた所にある小さなレストランがいいでしょう、と教えてくれた。で、そこへ行き、イワシの炭火焼き「サルディーニャス・アサーダス」を食べたが、これが美味しかった。さすがに、ポルトガルは海の国だ!
この周辺は台地だから、坂道が多いが、すこぶる眺望はいい。気に入ったので、ペンサオンに戻って4泊の滞在を申し込むと、フロントのオバサンの笑顔が返ってきた。ポルトガル人って温良だなァ、と思った。
久しぶりに、ゆっくりと入浴し、夜汽車の旅を癒やした。それから、雪のような広いベッドで昼寝。何という幸福だろう! ここに何時までも居たい……

ペンサオン「ジョア」の2階は、小食堂になっている。その階段から客席の壁面まで、10数枚の絵皿が架けられ、それぞれに各国の港町が描かれている。新大陸へと雄飛したリスボンのペンサオンらしいが、それらを眺めていたら、何か"遥かなるもの"が込み上げて来た。日本で選ばれたのは、長崎だった。戦国末期、この国から日本へ、実に多くのものが渡って行ったのだ。……
夕食に、ミックスサラダとタコのリゾットを注文した。淡泊なワインが、料理に合った。

食後、夕暮れの坂道を降りて、独立記念塔の立つ広場へと出た。そこから北に向かって、リスボンのシャンゼリゼと呼ばれる「リベルダーデ通り」が延びている。行き当たった終点には「ポンバル侯爵広場」があり、18世紀半ばの大地震後、近代ポルトガルの基礎を築いた侯爵の、高々とした円柱の像を見上げた。
この近辺には、銀行や一流ホテルが蝟集している。その中に、名高いホテル「リッツ」があった。かつて三島由紀夫先生が、確か「世界一優雅なホテル」と書かれたのは、このホテルか!と思い出し、勇を奮って入場してみた。が、すでに新規改築後で、ピカピカと便利な現代ホテルと化し、もはや古風な趣きは消えていた……

夜の9時頃、ペンサオン「ジョア」へ帰る。と、隣室の406号室に日本人の学生2人がいて、着いたばかり。挨拶を交わすと、どちらも早大生で、夏休みでポルトガルを一周する予定。数日前のニクソン声明のドル・ショックで、小切手の換金が滞る状況を、彼らから知った。「こんなに良い部屋は、初めてです」と、2人が口を揃える。同感!僕も彼らも、東京では、これほどの部屋に住んでいない。一頻り、話がはずんだ。

12時過ぎ、就寝……


8月19日(木曜日)  晴れ 夜に小雨ぱらつく  リスボン

8時、起床。2階の食堂で、朝食。昨夜、遅く着いた早大生2人は、いまだ目覚めず。
9時、外出。ペンサオンを一歩離れると、外気が新鮮。リスボンは、気候がいい。夏でも、暑からず寒からず
で、風が頬に優しい。柔らかな風だ。秋から春に雨天もあるそうだが、年間を通して温暖、とりわけ6月から9月までの乾期は、海洋性気候に恵まれ、快適な気温の晴天が続く。その時が今で、ずっとここに居たくなるほど至妙な天候が、旅人をも幸福にするのだろう。起伏に富んだ坂道を、名物の市電やケーブルカーが動いているが、狭苦しい車内でギクシャクするよりも、ずっと徒歩が楽しいのは、この気候のせいかもしれない。リスボンの気候は芸術だ、と思った。……

午前中の3時間余り、市内の主要な各所を、歩いて巡った。独立記念塔からリベルダーデ通り、ポンバル侯爵広場までは、昨夕も観ているが、さらに北上して「エドゥアルド7世公園」まで行った。ここはイギリス国王の訪問を記念して造られた、幾何学模様のフランス式庭園だが、高地だけに展望台でもあって、リスボンの街並みや、デージョ川が見渡せた。と言うことは、ここからテージョ川まで、歩くと下り坂の道なのだ。

独立記念塔の立つ広場まで下ると、その近くの南方には、リスボンで最も賑やかな「ロシオ広場」がある。中央には、初代のブラジル国王となったドン・ペドロ4世のブロンズ像が、高々とした円柱の上から広場を見下ろす。立派な噴水が音を立て、また広場に接して建っている、ドナ・マリア2世国立劇場の姿が美しい。
広場の周囲には、幾つか老舗のカフェや菓子店もあって、その1つのテラス席で喫茶し、菓子を食べてみた。「マミーニャス」という名の、卵の味のエッセンスのような砂糖菓子だが、柔らかな舌触りが和菓子に似ている。鶴屋八幡の「らんけい素麺」を、ふと思い出した。……
この広場の、さらに南側の広い面積の一帯に、「バイシャ」と呼ばれる繁華街が続き、様々な業種の店舗が
軒を連ねる。繁華街の南端には、見上げるほど高い「勝利のアーチ」が聳え、展望台もある。
このアーチを抜けると、視界が一気に拡大し、前方に広大な「コメルシオ広場」と、悠然としたテージョ川
のパノラマが待っていた! この広場は、18世紀半ばの大地震まで宮殿が在ったので、現在も宮殿広場と別称され、中央にドン・ジョゼ1世の騎馬像が立つだけの、きわめて開放的な空間である。広場に接して海軍省など官庁関係の建物もあるが、それらが視界の意識に入らないほど、この大空間は、美しい"川と広場"なのである。テージョ川の岸壁に佇むと、ポルトガル人の新世界へ挑戦した雄心(ゆうしん)が偲ばれる。……

リスボンは、英雄オデュッセウスが築いた町という伝説を有するほど、その歴史は古い。フェニキア、ギリシア、ローマ、イスラムと、各時代を制した勢力の洗礼を浴びた後、キリスト教とイスラム教との相剋、レコンキスタの成就、スペインとの抗争を経て、大航海時代の繁栄期を迎え、この都市には新大陸の財貨が溢れた。その後、ポルトガルの国力が退潮、リスボン大地震による打撃、ナポレオン軍の侵入、植民地の独立などを乗り越え、近代には共和制に転換。2次大戦後、右翼独裁政権が続くが、数年前に崩壊し、現在は民主化への模索が続いている。と言うわけで、旧大陸の最西端の国も都市も、のんびりと過ごして来たわけではなかった。

バイシャ地区やコメルシオ広場の東側には、小高い丘が拡がっており、その一帯を「アルファマ」と呼ぶ。リスボンの下町として知られ、大地震を免れた地域のため、古くイスラム時代からの庶民の生活臭まで残る、とさえ言われる。実際に足を運んで見ると、上り下りの多い狭い坂道、ギッシリと建て込んだ住居、干した洗濯物の波、食べ物を料理する雑音、子供の泣き声など、個人よりも集団の、かつての或る貧しい社会の様相が、色濃く感じられる。僕が、とある坂道を降りている時、背後から来た男が突然、僕の小さな手提げカバンを、スッと奪おうとした! 一瞬、身を反らすと、彼は足早に先方へ去って行った。……僕は、この土地の暗さを理解した。横浜出港後、これまでに無かった出来事である。何処にも、のんびりとした楽園などは無いのだ。

アルファマから、その北側の「サン・ジュルジェ城」へと移動する。ジュリアス・シーザーの時代、ローマ人によって建造された要塞の跡だが、以後の幾世紀にもわたり今日まで、その堅固さを持ちこたえて来た。城からのリスボン市街、遠くテージョ川の眺望は、えも言われない。……この城から東へ更に歩むと、昨日のサンタ・アポローニア駅へ出た。12時半過ぎ、駅近くのカフェで休憩。甘辛いソースで焼いた厚い豚肉を、パンに挟んだポルトガル式のサンドイッチを食べた。店員が「Bifana?」と訊くから、「Yes !」と答えると、すぐに持って来てくれた。ビファナは、1個でも満腹!
午後1時過ぎ、駅の窓口に並び、マドリッドまで帰る、日曜日の夜行列車の予約をする。ところが、係員の処理がスローで進まず、1時間以上も立って待った。その間、並んでいた現地ポルトガルの学生1人と、互いに不充分な英語で会話。コインブラ大学へ帰るところだった。「図書館が有名だね」と言うと、彼は喜んだ。
やっとチケットの取得が済み、駅前からタクシーに乗ってリベルダーデ通りまで行き、アメリカンエキスプレスの事務所で、小切手を現金に換えた。それから徒歩で、ペンサオンに帰着。午後4時になっていた。

少し歩き疲れ、自室で仮眠。7時過ぎ、坂の下の昨日の小レストランへ行き、夕食。リスボンの夏の日没は午後8時半頃なので、まだ店内は空いている。野菜のスープを飲み、あっさりした鮪のステーキを食べた。顔を覚えたボーイの1人が、空手や柔道に関心があるらしく、頻りに話しかけてきた。……

帰宿して、405号室の机で、手紙1通を書いた。お世話になった郷党の先達、日夏耿之介門下の有賀肇氏に宛てた数枚である。「クレタ島やサントリーニ島に遺された、古代の多くの壁画は、現代絵画にも勝るモダンアートですが、それを描いた画家の名前は分からない。作品は残るが、人間は消える。それで良いのではないでしょうか」と。……夜になって、雨がぱらついたせいか、かなり冷え込む。リスボンの陽気は、すでに秋の彼岸頃の気配だ。隣室の早大生2人は宿を去って、もう今夜はいない。アルファマでの危ない出来事が思い浮かび、「やはり独り旅も心細いなァ……」と感じた。……


◎写真は  リスボンのサン・ヴィンセンテ・デ・フォーラ教会(亡母遺品の絵葉書)