8月16日(月曜日) 晴れ セビーリャ
9時、遅めに起床。すぐに朝食。南欧の夏の街は、なかなか寝静まらず、暁(あかつき)近くまで、ざわめきが残る。朝から、ひどく暑い。シェラ・ネバダの山脈を背にしたグラナダと違い、セビーリャが海に近いからだろう。ホテルの冷房も、ほとんど効かない。日本は冷房フル回転で、真夏でも果敢に8時間労働。こちらは実働4時間くらいのシエスタの国だから、冷房の有無も気にならないのだろう。生活感覚がのんびりしている。
午前中、昨夜に観られなかった所を歩く。が、月曜日で休館もある。インディアス古文書館は、18世紀末に新大陸に関する文書をまとめた資料館。コロンブス、マゼラン、コルテスなどの自筆文書も、展示している。アルカサルは、レコンキスタ以後にキリスト教の王たちが増改築した、イスラム風の華麗な王宮。彼らのオリエント異郷文明への憧憬の産物で、グラナダのアルハンブラ宮殿の片鱗が随所に見られる。……
その辺りは、旧市街の中心地に位置しているので、建物の外部へ出ると、数多くの観光馬車が行列し、その周辺は何と、足の踏み場もない馬糞の山である! それも放置され、馭者(ぎょしゃ)たちも気にしていない。かつて大正の末、木下杢太郎はセビーリャをも訪れ、支倉常長に関する文献などを調査したが、彼もまた、この馬糞について書いていたのが、ふッと思い出された。「現実のセビイアは(略)そんなに詩的ではない。道は狭く息苦しく、午日は酷烈、椰子を植えた折角の広場広場も、稀なる客を待つ多数の馬車の為めに、常に馬尿の臭を通わしている」(『えすぱにや・ぽるつがる記』)と。……それから約半世紀後の今日、セビーリャは馬糞馬尿に関する限り、まったく変わっていないのである!
馬糞の臭いのしない通りのバルに入り、遅めの昼食。焼いた肉厚のマッシュルームを食べたが、舌先がピリッとした。デザートのメロンが甘く、綿のように柔らかい。
食後、ホテル「ロマ」へ帰ったが、そこは暑いので、近くのホテル「コロン」のロビーに行くと、冷房が効いていて、大変に涼しい。珈琲を注文して休息、Cook社の列車時刻表を見ながら、これからのスケジュールを再検討した。……僕は当初、セビーリャからイベリア半島南端廻りで、ポルトガルのリスボンに抜ける予定だったが、何しろ暑い。セビーリャからリスボンまでの鈍行列車もあるが、確か杢太郎は、これに乗って「殆ど飲むや食わずで」24時間も掛かったと記していたから、やはり避けたい。結局、夜汽車で先ずマドリッドへ出て、そこから乗り継ぎ、また夜行利用でリスボンへ行くのが、暑さ対策からも最善、時間的にも最速と、どうにか判断した。……Cook 社の時刻表に、都合よくセビーリャ事務所の住所の記載があった。
善は急げと、ホテル前からタクシーに乗り、駅近くのCook 社の事務所へ行く。幸い、今夜11時発のマドリッド行き夜行寝台券があった。但し、ファーストクラス1名で685ペセタだが、これにはユーレールパスが使えない。今晩のホテル宿泊をキャンセルすればいいと考え、即座に購入した。
午後6時半、昨夜の大聖堂近くの小レストランで、早めの夕食。トマトサラダとオムレツ。当地のオムレツには、決まってジャガイモが入っている。
8時、ホテル「ロマ」に戻り、フロントで今夜1泊のキャンセルを伝えたが、すでに6時過ぎのため返金なし。これは仕方がない。……
9時、荷物を纏め、タクシーでサンタ・フスタ駅へ。構内には、多くのハエが飛び交い、手洗いも衛生状態が悪い。昨夜の「ロマ」のベッドではむず痒くなり、どうもノミがいた気もする。路上での馬糞の放置、馬尿の垂れ流しと言い、南欧諸国にはルーズな面がある。だが、スペイン人には、イタリア人のような"ずるさ"や"軽薄さ"が無い。一種の骨がある。それが、いい。……
11時、マドリッド行きの夜汽車が出た。コンパートメントには、僕だけが1人いた。
8月17日(火曜日) 晴れ マドリッド
6時半、車内で目覚める。コンパートメントの中に、洗面所があるのはいい。昨夜は、車窓から見える星が大きかった。列車は、カスティーリャ地方の乾燥した赤茶けた高原地帯を、速力を増して走っている。
マドリッドは、この内陸の中心部にあり、欧州の首都では最も高所に位置する。夏冬と昼夜の寒暖の差が激しいが、乾燥して雨が少なく、恵まれた晴天の日が多い。人口は約300万。古くはアラブ人の要塞の地だったが、16世紀半ば、スペイン・ハプスブルグのフィリップ2世によって首都とされ、以後今日まで不動だが、スペインとしては比較的新しい都市なのである。……
朝8時半、マドリッドのアトーチャ駅に着く。コインロッカーに荷物を預け、構内のカフェで朝食を摂る。
近くの席に日本人の男性が居て、挨拶を交わす。京都の某私立大学で教鞭を執るという古関氏で、40歳台半ばとおぼしく、夏休みを利用しての1人旅のよし。「これから午後4時の列車でパリに向かうまで、時間が有るんです。リスボンに行かれるなら、先ほどホームで観た、朝のリスボン行きは満員でしたよ」と、伝えて下さる。僕の予定も夜行である。「では、これから市街へ出て、お昼でも一緒に」という、氏の誘いに頷いた。
先ず、2人とも駅の窓口へ行き、古関氏はパリ行きの列車券を、僕は夜10時発のリスボン行き寝台券を、それぞれ購入した。「寝台列車を利用すると、その日のホテル代が浮くんです」と言うと、「なるほど!よく考えていますね」と、氏に嗤われた。下手な安いホテルよりも、夜汽車の方が楽しいのだ。……
僕たちは、アトーチャ駅から地下鉄に乗った。僅かな時間で、駅の北西にある旧市街の中心地の「プエタ・デル・ソル」で下車し、その賑やかな広場に沿っカフェの1つ、そこの野外の席に落ち着いた。古関氏は、「セルベッサ」というスペインのビールを、僕は、ビールを炭酸水で割った「クラーク」を、それぞれ注文した。すぐに飲み物が来て、乾杯。やがて、ビールに合うカタクチイワシの酢漬けと、ポテトコロッケが運ばれた。
古関氏は、言う。「ヨーロッパに来たのは2度目です。最初はパリやロンドンを観て、素晴らしいと思った。父や祖父がヨーロッパに憧れ、尊敬していた気持ちが、よく理解できましたね。ところが……ですよ。今回久しぶりに来て、総じてヨーロッパは旧い、と感じた。特に、このスペインが古い! そう思いませんか?」
僕は、答えた。「そうですが、良さがありますね」と。「その良さを……」と、古関氏は即座に応じた。「今や日本全体が棄てようとしているんです。いつの間にか日本はヨーロッパを追い抜き、ヨーロッパよりも新しくなった。明治このかたヨーロッパに学び、追随して止まなかった日本は現在、ヨーロッパより先端を走るようになった。そして気が付いたら、目標が無くなったんです!」「過去の良さを棄て、根無し草になつた日本は、残るのはアメリカとの経済戦争だけ。日本は一体、何処へ行こうとしてるんですかね……?」
僕のヨーロッパへの旅は最初だから、古関氏の2度目の再訪による感慨は、貴重だと思った。
いつの間にか3時近くになり、それぞれが会計して、古関氏は次の旅先パリへと去った。僕は、残りの時間にプラド美術館を瞥見すべく、タクシーに乗った。……
プラド美術館は、アトーチャ駅から歩いても10分足らずの近距離にある。館前の風にそよぐ並木道、吹き零れる幾つかの噴水が、快適な環境を作っている。この導入部が、いい。
19世紀の初めに開館した、重厚で端正な建物は、レニングラードのエルミタージュ美術館のような威圧感が薄く、訪問者にとって入りやすい。館内も適度な広さで歩きやすく、4階造りだが親しみやすい。
しかも、この或る空間に、スペイン1国を中心に優れた絵画を結集した、その密度が凄い。ベラスケス、グレコ、ゴヤの3巨匠は勿論、テイツィアーノ、ボッシュ、ルーベンスなどの、息を呑むような大宝庫である。
僕は、マドリッドには1週間後にまた来るので、ざッと1時間ばかり見歩いた。が、それだけで酔った!
5時過ぎ、徒歩でアトーチャ駅へ。まだ陽が高く、現地の女性ちが水瓶を頭に載せ、売り歩く姿に出逢う。「
Agua、Agua、」と呼び掛けながら、駅の周辺を、そろりそろりと廻っている。僕は、ここに来て「水売り」の姿というものを、初めて観た。これまで、日本で観たことは無かった。わが日本は湿潤の地だから……
しばらく駅の近くを散策し、7時頃、English対応のカフェで夕食。肉、ヒヨコ豆、野菜などを煮込んだマドリッドの郷土料理を注文。「コシード・マドリレーニョ」と言うそうだ。夏向きの食べ物ではなかった。
午後10時、リスボン行きの夜汽車が出た。幸い、乗客は少ない。マドリッドとは、暫しのお別れ。
◎写真は マドリッドのプラド美術館(2018年4月の再訪時に撮る)
