8月15日(日曜日) 晴れ  グラナダーコルドバーセビーリャ

7時、起床。朝食抜きで、すぐに荷物を持ち、ヌエバ広場へ行き、タクシーを拾って駅へ。車窓から観る、グラナダの朝の空が美しい。広場の噴水の上空を、渡り鳥の群れが南へ飛ぶ。旧い街並みなので、少ない新建築が生々しく目立つ。……

8時半、コルドバ行きの列車が出る。時間通りで、よく冷房が効き、朝食の車内販売もあった。
10時半、ボバディーリヤ駅で乗り換える。その後の車窓の風景は、藍色の空の下、遠く山並みが連なり、目前には茫漠たる黄土の穀倉地帯が続く。黒い牧牛の群れが遊び、唐詩の辺境の世界すら思い浮かんだ。ガルシア・ロルカの「遥かなる寂しきコルドバ」は、この向こうにある!
車中、スペインの若い女の子2人と、片言を交えた。どちらにも背筋の張った、気性の強さを感じた。……


午後1時、コルドバに着く。コルドバは現在、アンダルシアでは3番目の都市だが、スペインではトレドと並んで、「古都」と呼ぶに最も相応しい。ロルカの「寂しきコルドバ」とは、過去に栄えた古都だからである。
イベリア半島は有史以来、フェニキア、ギリシア、カルタゴと、諸勢力が相次いで侵攻したが、コルドバは、ローマの属州時代に中心都市となり、著名人物を輩出。続いて8世紀から11世紀まで、イスラム・スペインの首都として、特に10世紀には繁栄を極め、コンスタンティノープルと併称される「世界の都」だった。当時は人口100万、モスクは300を数え、「暗黒の中世」ヨーロッパからも留学生が集まり、医化学や歴史文献研究、言語翻訳が盛んに行われ、コルドバのイスラム文化が世界をリードした。……

コルドバ駅の構内のカウンターで、軽く昼食。パンにハム、チーズ、オムレツなどを挟んだ、スペイン式のサンドイッチとコーラ。構内に荷物預かり所が無いので、近くのバスターミナルのコインロッカーを利用。
タクシーでコルドバのシンボル、旧市街の中心にある「メスキータ」へ向かう。駅から歩いても30分ほどの場所だから、白い壁にパティオのある家々のあいだを通過すると、すぐに目的地に到着。

この巨大なモスクは、後ウマイヤ朝によって8世紀末に建設が始められ、その後の2世紀間に拡張工事が行われ、幅約130m 、奥行き約180m 、収容人員2万5千人の大建築が完成した。
イスラム教徒たちは、門を入り、中庭の泉水で身体を清めてから、モスクに入った。内部には、赤煉瓦と白大理石を組み合わせた馬蹄形アーチが、言わば"円柱の森"と化して、限り無く広がっている。この幻想的な空間の最も奥深い遠い場所で、カリフがアラーに祈りを捧げ、信者たちが拝跪(はいき)した。……
ところが13世紀半ば、キリスト教勢力がコルドバを奪還すると、メスキータはキリスト教の教会として転用され、さらにレコンキスタが定着した16世紀、建物が改造され、或る部分が大聖堂に変移した。したがって現在のメスキータは、イスラム教とキリスト教とが併存する、世界でも稀有な大寺院なのだ。たとえば、モスクの内部は元来は明るいはずだが、キリスト教徒によって入り口の多くが閉鎖されたので、今日のメスキータの内部は薄暗く、ほとんど見通しが効かない。……

その幽暗の、広大な内部の"円柱の森"を、僕は、しばらく立ち続けて、ひとりで見詰めた。他に、見物客は誰もいない。シーンとして、不気味でさえある。大正の末期、スペインを訪れた詩人の木下杢太郎は、アルハンブラ宮殿は観なかったようだが、このコルドバの「回教の大伽藍」には足を運んだ。そして、「柱の数は八百六十、真に森林の如く」と記している。建物の完成直後、柱の数は1千に達したと伝えられるから、本当は"円柱の大森林"だったのだ。……

メスキータの背後の南方を、グアダルキビル川が流れている。その右岸一帯に、コルドバの街並みの静かなたたずまいがある。1千年前の遠い大繁栄が嘘のごとき、現在の「寂しき」小都市の姿がある。その家々の白壁には赤い夏の花が咲き乱れ、人びとがシエスタで庇(ひさし)を下ろした眠るような町を、数十分ほど歩いて駅へ帰った。午後3時発、セビーリャ行きに乗る。が、車内が暑かった。混んでいて、地獄のようだった。……

午後5時、セビーリャのサンタ・フスタ駅へ着く。グラナダやコルドバと違って、駅構内が観光客で混雑し、この時刻でも蒸し暑い。例によって、クシー利用でホテルを探す。車窓から、椰子の並木道や、水瓶を背負ったロバの群れが見えたりするのは、いかにも南国らしい。10分ほどで、旧市街に入った。
セビーリャは、人口60万。アンダルシアを代表する、スペイン第4の都市。ローマ時代から発展し、地域からトラヤヌス、ハドリアヌスのごとき、著名な皇帝も出た。イスラムの統治期には、経済・産業の中心地として繁栄し、今に残る大建築も多い。さらに大航海時代には、その繁栄が絶頂に達し、新世界の金銀財貨が一手に流れ込む地、とすら評された。セビーリャは、約1時間で大西洋と繋がる、無二の良港であった。

旧市街のほぼ中心地に、いずれも16世紀に完成した、スペイン第一の規模を誇り、世界でも有数のカテドラル(大聖堂)と、それに隣接した高さ97m の「ヒラルダの塔」が立つ。その北側には、多くの参拝客や見物人を対象とする、大小様々なホテルやカフェや施設が散在する。タクシーは脇の通りに入り、小ホテル「ロマ」の前で停車。幸いにも、2泊できる部屋があった。
このホテルのロビーの壁面には、何とフランコ現総統の顔写真が飾られていて、数人の闘牛士たちが立ち話していた。セビーリャには有名な「マエストランサ闘牛場」もあって、そうだ"闘牛の街"なんだ、と思った。……
自室の25号室に荷物を置き、すぐに外出。ロビーで闘牛士たちの側を通ると、腋臭が鼻を衝いた!このホテルは冷房が弱いのだ。カテドラルの前の夕闇の広場へ出ると、客待ちする観光馬車が居並び、街が暑苦しくざわめいている。カテドラル近くの小さなレストランに入り、夕食。揚げたてのイカリングのフライに、檸檬をしぼって食べる「カラマレス・フリートス」が、美味しかった。ちょつと日本の天麩羅に近い味だが、スペイン料理は、何を食べてもいい。時計を見ると7時半、しばらく夜の市街を歩き回った。……

旧市街の中心地区の西側を、大西洋へと達するグアダルキビル川が流れ、対岸へは幾つかの橋が架かる。サン・テルモ橋から眺める「黄金の塔」や、夕映えの空が美しい。セビーリャの街並みにも古色があり、京の三条大橋あたりと似通う風景だ、と感じた。塔は、正12角形で、13世紀に通行の検問所として造られ、当初は上部が、金色の煉瓦で光っていたらしい。……
川の東岸に戻り、南へ少し歩いた地点に、市民が親しむ「スペイン広場」がある。宮殿の庭園の一部が開放されたこの広場に、1929年開催の万国博覧会のスペイン館が建てられた。建築家アニバル・ゴンザレスの設計という、広場を囲む半円形の建物に沿って、池水が流れ、幾つかの色タイル造りの太鼓橋が架かり、ボートが浮かぶ。広場には3つの噴水があり、噴き上げる水の色が違う。出店の屋台では、風船やアメ細工や煎餅などが売られ、これらは日本のものと殆ど変わらない。……
夜風が快く、居るだけでも楽しくなるような「スペイン広場」は、観光客にも親しめる憩いの場で、今世紀に開設されたのに忽ち国際化し、現在では最もポピュラーな"セビーリャの顔"かもしれない。

午後10時半、ホテル「ロマ」に戻る。下着の洗濯をし、シャワーを浴び、12時に就寝。ところが、隣室から話し声が漏れて来た。男性たちが言い争っているようだったが、やがて静かになった。ロビーで遇った闘牛士たちかもしれないな、と思った。そのうち、部屋が2階だから、馬車の蹄(ひづめ)の音が伝わって来た。終夜、それは消えなかった……


      一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月   奥の細道



◎写真は  セビーリャのスペイン広場(亡母遺品の絵葉書)