8月12日(木曜日) 曇り  西地中海ーマラガーグラナダ

7時半、起床。8時半、デッキ階のカフェテリアで朝食。船内の放送は、英・仏・独・伊・スペインの5ヶ国語で話されるから、時間が掛かる。終わると何時も、グリーク・ダンスの甘酸っぱく気だるいが、時おり爽やかでもある音楽が流れる。これは、ジェノヴァ市内でも流行っていた。船員の幹部クラスには、デンマーク人やオランダ人もいるようだ。廊下で出合うと、オランダ人の船員は、日本人の船客の僕に、軽い親愛感を示す。過去の歴史からすれば、不思議ではない。……

朝食から船室に戻り、ベッドに横たわっていたら、イタリア人のボーイがドアをノックし、すぐに船室を出ろと言う。放送で前触れはあったが、スペインのマラガ着は午後1時の予定。あまりの早さに不快になったが、荷物を纏めて下船出口へ持って行き、デッキの椅子に座り、曇り空の海を眺めた。
12時、昼食。ここでスペイン時間に変わり、時計を1時間遅らせる。デンマークの船員が客席を廻り、手持ちのリラをペセタに替えてくれる。これは親切だと思った。

午後1時、マラガ港に着く。埠頭に降り立つと、やはり暑いが、何故かホッとした。20日近く居たイタリアから、やっと脱け出したおもい。旅先で出合う各国人から、「貴方はイタリアが好きか?」と幾度となく訊かれた。投げやりで血の気の多い国民性は、欠点が目立つのだ。ローマ帝国解体後の長い長い混乱が、一筋縄では行かない、癖の強い人びとを生んだのだろう。「騙した者が勝ち。騙された者が馬鹿」だから、ナポリやローマの駅頭では、スリや荷物の持ち逃げにやられ、泣きじゃくるアメリカ人の女性を幾人か見かけた。何という酷い国か! そんな危ない炎暑の国を巡り歩いて、やっと他国のスペインの地に辿り着いたのだ。……

マラガは、スペイン南部では有数の港湾商業都市。南東部アルメリアのガタ岬から、南西部ジブラルタル海峡まで約300km 続く、気候温暖なリゾート海岸地帯は「コスタ・デル・ソロ(太陽の海岸)」と呼ばれるが、ほぼその中心に位置する。遠くフェニキア人によって築かれ、カルタゴやローマ、さらにイスラムの支配を経た重層性を持っている。グアダルメディナ川の河口に位置し、川の東側に港や旧市街、西側に鉄道駅や新市街がある。東側には、ローマ劇場の遺跡やイスラム時代の城塞、大聖堂などか残り、画家ピカソの生家と美術館もあって、見物には1日が必要だろう。……が、僕は、マラガを通過地として考えていた。

埠頭で、荷物の検査があり、蓋を開けて調べられる。第2次大戦前から続く、フランコ政権の長期独裁体制下に今も在るせいか、出入国管理が厳しい。バス乗り場に誘導され、乗車して鉄道駅まで移動。
マラガの鉄道駅で降りる。と、駅舎の建物の古風さに驚く。写真に残る、日本統治時代の満州国の建物を思わせる。時計の針が、急に逆廻りしたような感じに襲われた。午後1時半発のグラナダ行きの列車は、一足違いで出てしまっていた。仕方がなく、構内のカフェテリアに入って、しばらく喫茶。人影は疎(まば)らで、円いフチ眼鏡をかけ、杖を持った老人が休んでいる。何故か、僕の祖父の時代の老人に似ている、と思った。……
構内の委託所に荷物を預け、駅舎を出て、近辺を小一時間ばかり散策。新市街とは名ばかりで、煉瓦造りの旧式な建物が目立ち、ハエが飛び交い、馬糞の臭いがする。ソ連の各地では、昭和20年代末頃の日本を思い出したが、ほぼ同様の素朴で粗野な雰囲気が、ここにも立ち込めている。アムステルダムに氾濫していたポルノなどは、全く影も形も無い。戦中の国民学校時代の疎開児童たちの、痩せた姿すらも浮かんでくるような、侘しい街並みなのである。文具店に入って、メモ帳を買ったが、恐ろしく安い。釣り銭が、きちんと返された。

構内のカフェテリアに戻り、サンドイッチの軽食。午後6時20分発のコルドバ行きまで、まだ時間があったが、ホームに入ってベンチに座り、久しぶりに『唐詩選』を読んだ。が、気が乗らない。ホームの一隅に測定器が置かれいて、靴を履いたまま乗ってみると、69.0kg。数列ある長いホームには乗客も無く、1人で待つのに退屈した。そうこうするうち、列車が入線。鈍行のせいか、乗客も僅かで、予定通り発車。
夕暮れの車窓には、アンダルシア地方の茫漠たる高原の野草地帯が、延々と展開した。詩人ロルカの「遥かなるコルドバよ」という一句が浮かんで来た。スペインという風土が持つ「異境感」に、初めて身が包まれた。
7時40分、ボバディーリャ駅に着き、別の列車に乗り換える。ホームに立つと、夜風が涼しく、虫の声がする。この地は、早くも秋の気配だ。その後、ガランとした列車に2時間も揺られ、深夜10時、ようやく目的地のグラナダに到着。閑散とした駅舎の一隅で、ドイツからの旅の若者2人が、ギターを弾いていた。……

グラナダは、高さ3000m 級のシェラ・ネバダ山脈を背後にした、人口20万程度の高原都市だが、中世の約800年間にわたるイスラムのイベリア半島支配の後期、約250年間の王都となつた。それだけに今日も尚、東方アラブ文明の残影が、市街には色濃く漂う。グラナダの魅惑は、そこにこそ在って、ヘミングウェイを初め海外旅行者の多くが、スペインの訪れるべき所として、決まってトレドとグラナダを挙げるのだ。……

構内の観光案内所は、もう閉まっていた。駅前からタクシーに乗り、運転手に頼んで、宿泊先を探す。グラナダの東北部に横たわる小高い丘の上には、名にし負うアルハンブラ宮殿が聳える。丘の麓には旧市街が拡がっていて、イスラム時代には市場やモスク、住宅街があり、現在でもアラブ街やユダヤ人居住区が残り、下町として賑わう。市の西方にある鉄道駅から旧市街まで、昼なら歩いて行ける距離だが、宿探しは時間が掛かる。
最初は、旧市街の外れのペンションに案内されたが、部屋にシャワーも無くて、退散。
旧市街の中心地の1つが、ヌエバ広場である。そこからゴメレス坂を登り、柘榴(ザクロ)の門からアルハンブラ宮殿へ入場する。まだ広場には人出があり、そこから入った静かな狭い通りに、タクシーが停車。この地方特有の白い壁の建物が並び、小ホテル「カサブランカ」227号室が、僕を受け入れてくれた。

11時を過ぎていたが、何も食べていないので、外出。ヌエバ広場から入った別の通りまで行くと、多くの商店が営業し、賑やかさが残っている。目立つホテル「ヴィクトリア」の、別棟のカフェテリアに飛び込む。とそこは、前方の長いカウンター席と奥のテーブル席とに分かれ、カウンターのガラスケースの中には、いろいろな食べ物を載せた器が並び、その背後に店のウェイターがいて、各種酒類や飲み物の棚が立つ。来客たちは、それを自由に選んで飲食して談笑、交流できるという、スペイン特有の社交場「バル」だった。
すなわち、酒場と食堂と喫茶店を兼ねた"よろずやカフェ"で、当地では一般的だが、旅行者には珍しい。が彼らに、これほど分かりやすく、便利で、親しみやすい場所もなく、たちまち僕は気に入って、ガラスケースの
中を指差して、幾つか食べ物を注文。店の人も笑顔で応じ、ピーマンの素揚げ、茹でたジャガイモにマヨネーズをからめた「パタタス・アリオリ」、豚肉のソーセージに香辛料を加えたチョリソ、葡萄の果汁「モスト」という、4品の食べ物(タパスと呼ぶそうだ)が、あッという間に並べられた。上機嫌で完食、スペインの食べ物が口に合う。これまでギリシア料理が口に合ったが、スペインもいい。
気が付くと、店内には数人の客しか居ない。僕が座った左側の少し先のカウンター席に、30歳台も末とおぼしき白人男性が独りで飲んでいた。かなり酔っていて、話し掛けてきた。聞けば、ロンドンからグラナダ探訪に来たイギリス人の編集者。あれこれ日本について問われたが、ロレツが回らないくらいグラスが並び、なかなか意味が通じない。付き合っていても大変なので、会計をして(安いのに驚く)この「バル」を出た。

ヌエバ広場から南に下った辺りを、しばらく夜歩きする。商店街の町並みが古風で狭い。関東大震災以前の大正期の東京の下町すら、ふと連想させた。店頭で売っている菓子類にも、金平糖や南京豆に似たものが並び、現在の日本の子供たちが忘れた水鉄砲、メンコ、輪投げなどの玩具もある。素朴で、ひなびた、貧しげなものが多い。経済大躍進の日本が、もはや顧みなくなった品々ばかりである。……

小ホテル「カサブランカ」へ帰った。僕の部屋は2階だが、窓を開けると、このホテルの四方が白い建物に囲まれ、その真ん中に空洞のパティオ(中庭)があり、小さな井泉が音を立てている。井泉の上部には葡萄棚が繁り、2階の窓から井泉の姿は見えない。水の音が聴こえるだけだ。南欧の日中の暑熱が、白い建物によって遮断され、このパティオと井泉を生んだのだ。京都の町の家々にも坪庭を見かけるが、井泉は思い出せない。
窓から入る、シェラ・ネバダの山並みからの夜風が快い。昼下がりの暑さが、嘘のような涼しさ。どこの家からだろうか、先ほど店頭で売っていたアラブ風鈴の、かそやかな侘しい音がする。……明日は、アルハンブラ宮殿を観るのだ。2時、就寝。



◎写真は アンダルシア地方の草原風景(2018年4月、再訪時に撮る)

     グラナダの近郊風景(同上)