8月6日(金曜日) 晴れ デッセンザーノ
8時、ゆっくりと起床。朝食に出た、各種のパンを4個も食べてしまった。
午前中、アメリカへ2通、絵葉書を書く。1通は日本文で、もう1通は英文で。1人は、ニューヨークの裏千家出張所長の山田尚氏で、東京の裏千家今日庵の多田侑史氏が「かの地に、貴君に会わせたい男がおる」と言われ、わざわざ墨書達筆の紹介状を書いて下さった。「秋には、そちらでお世話になります」という挨拶。
もう1人は、ボルチモア在住の旧軍人シュナイダー氏。僕の幼少年期の占領時代、進駐軍キャプテンとして甲府に在住。その親切と快活さで、山梨県民に人気があり、僕の一家とも交流。生家の温泉プールで、僕に泳ぎを教えたくれた。帰国後も県庁関係者とは文通が続き、その1人が、僕の渡米を氏に伝えた。氏と最後に会ったのは、朝鮮戦争が始まった時分だから、「20年ぶりに、お目にかかるのを楽しみに」と短く記した。……
昼になり、駅近くの銀行へ行き、リラが残り少ないので、小切手を現金化する。周辺のカフェで、スパゲッティ・ペペロンチーノとオレンジを注文。食後、駅前通りの商店を幾つか覗いた。と、イタリア人の持つ或る激しく派手な、伊達な感覚に、初めて気が付いた。……
男性用の白地のシャツに、水色で"團七格子"や"弁慶縞"のような大柄なデザイン。売っている女物の扇子の、はみ出すばかりのキツイ花模様。男性のブリーフの急所に造花のバラを、女性の下着の急所にナイフを刺して展示する、ストレートな、粋(いき)な感覚。極彩色の赤いスダレ。どれもアルプス以北の地では見られなかった、南欧の炎暑の熱気が生むであろう、一種エキサイティングで極端な、多血質な感性なのである。
ホテル「ミララゴ」に帰り、午後は水泳。桟橋辺りの水底が、柔らかな砂地であるのを知った。その後は自室で、秋の2ヶ月のアメリカ旅行のスケジュールを検討した。夕方、また町に出て、魚のフライとリゾット、サラダ少量を買い、室内で夕食。早めに、就寝。引き続き今日も、安穏な1日であった。
8月7日(土曜日) 晴れ デッセンザーノ
8時半、朝食。珍しく牛乳を、コップ一杯貰う。連日、水泳をするせいか、とても美味しい。イタリア語で「ラティ」と言うそうだ。
食後、しばらく湖岸通りを歩く。ガルダ湖は大湖で、あちこちの保養地には外国人が往来するようだが、デッセンザーノでは、ほとんど見かけない。実用的な商業地のためかもしれない。気候は良好だが、風光となると、例えばルツェルン湖などと比べると、好みにもよるが、僕はルツェルンを選ぶ。ガルダ湖は大味なのだ。岸辺にゴミ袋の山が放置されていたり、スイスの自然管理の完全さとは、いささか違うイタリア式か。……
ガルダ湖の西岸は、ことのほか風光明媚で、近代イタリアの国民的詩人ガブリエル・ダヌンツィオの永眠の地として知られるとか。そうだ、ダヌンツィオの作を小山内薫が翻案して、大正期に6代目菊五郎が演じた『緑の朝』というのがあったな……と、ふッとまた、歌舞伎の世界が甦る。
昼食は、湖岸通りの小さなレストランに入って、トマト・サラダとピザを食べた。東京のピザのほうが、甘口で柔らかい。会計は500リラ。
午後は水泳し、夕方、アメリカ旅行のガイドブックを読んだ。夕食は、また先程の小レストランへ行き、こんどはラザニアを注文。なかなかの美味!
帰途、露店に立ち寄り、葡萄1房、桃1個、スモモ2個を求める。150リラ。屋台のおばさんが、5リラ値引きしてくれた。イタリアでは珍しい。ナポリなどより、北部は人柄も良いのだろう。
夜は、ホテルのロビーで、他の宿泊客と一緒にテレビを観た。各自の部屋には、テレビが無いのだ。画面には、若い男女2人の歌手が公会堂で合唱、観衆が猛然たる拍手を送る場景が、放映されていた。イタリアの人々は、朗々たる歌声を好むようだ。10時、ベッドに就く。
8月8日(日曜日) 晴れ 夕立あり デッセンザーノ
8時半、朝食。午前中、休息。どうも元気が無い。6月出国以後の2ヶ月の旅疲れが出てきたのか? 今日は水泳はしない。体操をして、肩をほぐし、外出。
湖岸通りの小レストランで、昼食。コンソメスープと野菜、ほぐしたチキン。1650リラと、比較的安い。自室に戻ったが、体調が、もう一つ。横になり、アメリカ旅行のガイドブックを捲る。
夕刻、1時間ほど夕立があり、風が吹き、湖水が波立つ。夕食を抜くことにして、当地出発の荷物整理をする。明日は、ここからミラノを経由してジェノヴァに出て、明後日はスペインへと船出する。
夜、郷里の母へ手紙を書き、秋物のセーターと冬物のジャンバーを、パリの竹本氏宅まで郵送して置いて欲しい……と依頼する。秋以後の衣類を、充分に持って来なかったためだ。早めに、就寝する。
◎写真は ガルダ湖とデッセンザーノの町(亡母遺品の絵葉書)