7月31日(土曜日) 晴れ ローマーアッピア旧街道ーローマ
午前10時、起床。昨夜遅く3時近くまで、写真の整理に没頭。疲れてグッスリと眠りこけ、朝食も放棄。午前中、フィルム郵送の荷造りを済ませ、昼頃に外出。
まず中央駅へ行き、構内の郵便局で、郷里までの航空便を出し、安堵。構内のセルフサービスの食堂で、朝食兼昼食。付近に書店があり、三島由紀夫『太陽と鐡』英訳本を目にする。……
駅前からバスに乗り、コロッセオへ。そこで118番のバスに乗り換え、カラカラ浴場跡を通過して南下し、アッピア旧街道の入り口で下車。ローマ全体を包囲するアウレリアヌスの城壁には、各所に併せて18の門があるが、最大のサン・セバスティアーノ門が街道の起点。
すでに紀元前4世紀末、ここを起点として、アドリア海沿いのブリンディシまで南東方向に、ローマの幹線たる街道が建設された。石畳で舗装、排水溝を備え、2車線の広さの大道路は、当時のローマの抜群の土木技術の先進性を物語っている。アッピア街道によって、ローマは地中海世界を征した!
サン・セバスティアーノ門から、マイクロバスで暫く移動すると、ドミネ・クォ・ヴァディス教会に着く。
ここは伝説の地。キリスト教徒への迫害が激しかったネロ帝の時代、ローマを去ろうとした使徒ぺテロが、この地まで来ると、キリストの霊が浮かんだ。「主よ、何処へ?」と問うと、「ローマへ、再び十字架に架からん」と霊は答えた。ぺテロは翻然と悟り、ローマへ引き返し、処刑されたと伝えられる。「ドミネ・クォ・ヴァディス?」という彼の問いを、そのまま名称として、9世紀頃に生まれた教会。ポーランドの作家シェンキェーヴィチの歴史小説『クォ・ヴァディス』も、伝説に誘発されて書かれた近代の名作。僕は映画化も観たので、東洋人の異教徒でも、この素朴な建物の教会には親しみを感じた。……
この教会の付近から、本格的な街道らしいアッピア街道が、ハッキリと始まる。
旧街道は、今日の目では道幅が狭く、轍(わだち)の跡が残るデゴボコの石畳は、歩き難い。店も無く、人影も稀で、道に沿って唐傘松が並び、1マイルごとに置かれた表示石が、道端に見られる。
街道が始まり、しばらくの距離内に、初期のキリスト教徒たちの地下の共同埋葬所であったカタコンベ、ローマ時代の各種の墓や霊廟や遺跡、建設が放棄された市外の競技場の跡などが、現れては遠ざかって行く。
陽の傾く頃に歩き始めたので、ひとしお周辺は物淋しく、前世紀には野盗が出没した言われるのも、尤もな風景が展開する。しかし、この道をゲーテも、ディケンズも辿って、ナポリまで旅しているのだ!
それだけではない。古代以来、幾千幾万の無数の人々が、ここを歩いた。そう考えると僕は、歩くことに張り合いを感じた。歩けることは幸福だ。額に汗して無我無心、歩いている時が、いちばん楽しい。何もなし得ない現在の僕にとって、ひたすら歩き続ける時こそ、生の燃焼を感じる。そうだ、放浪とは生きることなのだ!
約2Km を歩いた地点で、街道を折り返した。入り口まで往復4km 、ほぼ1時間余り、僕はアッピア街道を体験した。入り口近くなって、以前に観た、或る映画作品が思い浮かんだ。スタンリー・キューブリック監督の『スパルタカス』で、紀元前1世紀に起こったローマの剣闘士、奴隷たちの反乱を描いた。テーマの自由の追求、時代考証と名優の競演が、実に素晴らしかった。乱が終息、主謀者スパルタカスが処刑され、アッピア街道沿いに立てられた十字架に曝され、気息奄奄(えんえん)の時、その妻が忘れ形見の幼児を抱き、荷馬車に乗せられて逃れ去るのに偶然出逢う。見交わす目と目、万感の想いを残し、荷馬車がアッピア街道に消えて行く。……「スパルタカスの乱」は、ローマ時代には長く隠滅された。乱への注目と評価は、近代の自由と解放の精神を待たなければならなかった。その時代には無視され、抑え込まれ、忘れ去られる出来事がある! とすれば、あの「三島事件」の真の意味が、今後も長く理解されることは無いだろう。その本質が、もしかしたら、"アメリカ文明への反逆"であったかも知れないからである。……
夕刻6時、バスでテルミニ駅へ帰着。構内の昼のレストランで、夕食。ローマ名物のジャガイモと小麦粉で作るニョッキ、それと生ハムを食べてみる。ちょつと口に合わない感じ……。
7時過ぎ、ペンション「パトリス」5号室に戻る。と、水谷君が顔を見せ、「自室の4号室に、スペインの女性客2人が泊まるので、マダムから中村さんの部屋へ移ってくれ」と、言われたよし。「仕方が無いね」と答えると、すぐに荷物が運ばれた。部屋の奥のベッドを、彼に譲った。
夕食を済ませていない水谷君に付き合い、スペイン広場まで行き、例の「ローマ東京レストラン」に入る。彼は焼き鳥でビールを飲み、僕も食い足りない感じだったので、カッパ巻きを注文。彼に、今日歩いたアッピア街道の話をする。「この店にも縄ノレンがあるが、街道が始まる辺りの酒店の入り口には、左右2色の縄ノレンが揺れていた…」と語ると、彼は「イタリアも日本も、暑い国なんですね」と答えた。
和食への飢えが充たされると、この「ローマ東京レストラン」が、一種異様なムードに包まれていることに、初めて気付いた。現地のイタリア人が、円が強いためか、給仕として働いている。男性はハッピを羽織り、女性は浴衣に帯を絞めるが、もちろんヘンテコだ。「どんどんお代わりして下さい」「ゴハン、オサシミ、たくさん有るよ」と、カタコトで呼び掛けられると、相手がイタリア人のせいか、何やら切なくなってしまう!
客は、日本人が大多数だが、東洋好きのイタリア人も少しはいて、"トウキョウ・ステーキ"なるものを、面白そうにパクついている。現代日本の何か恥部的な縮図が、この店には見られるようで、複雑な気持ちになってしまった。……が、水谷君は「面白いですね、この店は」と言った。
帰路は、スペイン階段からヴェネト通りへ出て、芳賀氏に教わったカフェで喫茶。瀟洒(しょうしゃ)な地域だが、10時半を過ぎても賑わい、南欧の夜は遅い。カフェに出入りする客に混じって、夜の女とおぼしき人影もある。向こう側に座る水谷君の背後に、その影が近寄って囁くが、彼が手を振ると、すうっと消えた。「良い部屋があります。2万リラだって……」と、彼が嗤った。
ペンションに戻ると、今夜も12時になっていた。
◎写真は 現在のアッピア旧街道
映画『クォ・ヴァディス』(1951年)
映画『スパルタカス』(1960年)


