7月30日(金曜日) 晴れ  ローマ

朝食後、絵葉書を数通書いたが、前日の疲労で、午前中は仮眠する。
昼過ぎ外出、スペイン広場の「ローマ東京レストラン」へ行き、鯖焼きと冷奴を食べ、元気回復。近くの「カフェ・グレコ」で喫茶。フランクフルトの「クランツラー」を思い出す、贅沢な名店の雰囲気だ。
そこからテルミニ駅へ出て、切手を買い、絵葉書を投函。まず、駅とは目と鼻の先の、ローマ国立博物館を見物。ここは「ディオクレティアヌス帝の浴場」跡地を利用した、広大な建物。大掛かりの遺物や遺品が、所狭しとゴロゴロしている。「ミロの円盤投げ」は、立派な作品。ヴァチカン博物館でも感じたことだが、ギリシアと違い、キリスト教のお膝元なので、古代の男性の全裸像の局部を葡萄の葉で覆い、そこだけを補修しているのには、笑ってしまう。が、笑えない時代が長くあったのだろう!

国立博物館を出る。真夏の陽光、目が眩むばかり。今日は、ローマ市内の中心部を漫歩。
まず、オペラ座を横目に見て、ナツィオナーレ通りを南西に進むと、ヴェネチア広場とトラヤヌス帝の記念柱に出る。と、間近に、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世紀念堂の、大掛かりな白亜の建物が聳え立つ。ローマは、古代の神殿や劇場の遺跡、中世と近世の教会や宮殿の遺構、列柱や記念塔や凱旋門などの残骸が林立し、所狭しと犇(ひし)めいている"建築物の街"だが、この紀念堂"ヴィットリアーノ"には、とりわけ"建築物臭"が強い。イタリア統一を記念して近代に建てられた、当時の新王国の"こけ脅かし"とも言える虚勢さえ感じられ、ローマッ児からも評判が芳しくない建物らしい。後味が、何か空虚なのだ。……
そこから、テアトロ・マルチェッロ通りへ入って、「タルペイアの岩」と呼ばれる小さな崖の階段を昇ると、カンピドーリオの丘の上に出る。そこには、調和のとれた優雅な空間の、広々とした開放感のある美しい広場がある。教皇パウロ3世に託された、ミケランジェロの設計に成る、この広場は見ものだ。広場の中心には、マルクス・アウレリウス帝の騎馬像が据えられている。帝政期から伝存する唯一の、貴重なブロンズ像だ。
広場の裏手に廻ると、丘の上から、古代ローマの政治・経済・宗教の中心部であったフォロ・ロマーノと、上層階級の居住地であったパラティーノの丘、さらに巨大円形闘技場コロッセオが、一望の下に見渡せる。タキトゥスやスエトニウスが描いた複雑怪奇、有為転変の歴史的世界が、この一箇所にあたかも集約された観があって、現在のローマ市内ではパンテオンと並ぶ、感動的な風景だと思った。……

フォロ・ロマーノは、元来、丘と丘との谷間に生まれたらしい。ローマは、七つの丘を生活空間として拡大し、谷間の排水作業を重ねて、テヴェレ川の水運も発展。谷間にも、神殿や市場や集会所が建ち並び、しだいに逆に、古代ローマ社会の中心部と化していった。盛時には、各種の壮麗な建物が建ち並んだ。が、帝国の衰亡と共に荒廃し、19世紀の発掘によって再認識され、今なお発掘作業が続いている。
歩いて見ると、谷間をベースにしているので、広大な空間ではない。ほとんどの建物が遺跡化しているが、立派さの片鱗は残り、想像を刺激する。当時の交通手段を考えても、建物の巨大とは逆に道路などは狭く、コロッセオも目と鼻の先にあり、事件発生の情報は、素早く寸刻のうちに、この谷間空間を駆け巡ったはずだ。
「クーリア」という、元老院を今世紀に復元した黄土色の建物が、目についた。シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』を読むと、シーザーが元老院で暗殺された後、群衆が元老院を取り囲んでいるのは、凶報が凝縮された土地空間へ、寸刻にして伝達されたからだろう。シーザーの遺体が火葬され、アントニウスが追悼演説をした場所に「カエサルの神殿」が建っていたらしいが、現在では跡形もない。
フォロ・ロマーノには、人間世界の体臭や息遣いが、まだ残っている感がある。ギリシア各地の遺跡群のような神錆びた趣きがないのは、ひとつは年代的にも新しいからだろう。……

フォロ・ロマーノから、コロッセオへと移動する。この保存された巨大建造物の周囲を一巡し、内部に足を踏み入れるや、そこには無惨かつ醜悪な残骸が放置され、炎天下に異臭を放っている! これほど無気味な醜い不快な遺跡があろうか。約1500年前まで、ここで人間たちが何を為し、何を悦んだか。古代社会の大衆は、恐らく「悪」として認識しなかったに違いない。僕たちも今、認識せずに同様の過ちを為しているのではないか? コロッセオの醜悪さは、いろいろなものを突きつけて来る。……
ローマへやって来て、コロッセオを観ない訪客は、まず無いだろう。バイロンは「月下のコロッセオ」を詠い、ディケンズは、深夜のコロッセオの「恐ろしいばかりの淋しさ」について語っている。が、それもあれも、白昼の観衆の大歓声あっての話なのである。

コロッセオを廻り、コンスタンティヌス帝の凱旋門を眺め、サン・グレゴーリオ通りを南下すると、チルコ・マッシモの古代戦車競技場の跡地が見えてくる。往時の収容人員は30万と伝えられるが、今は夏草が繁る野原である。そこから更に南下すると、昨夜遅く野外オペラを観た、カラカラ帝の浴場跡に着く。今夜の演目は替わり、プッチーニの『蝶々夫人』の表示看板があった。そこからバスに乗り、テルミニ駅へ戻った。

駅の構内のカフェで、欧州には珍しいアイス・コーヒーを飲み、休息。コーヒーと氷とが、別々の器で出された。カフェを出ると、構内の掲示板に、午後の気温37℃とある。関西の商社マンらしき中年の男性2人と出遇う。片方から、「こんな暑いイケズなところ、早う帰りまっさ!」と言われ、苦笑。
タクシーに乗り、昨日のフランス航空のオフィスへ。顔を覚えていた女性の社員が、親切に対応。9月中旬のロンドン発ダブリン行きの英国航空の日時を決める。彼女から、岩手県上空で自衛隊戦闘機が全日空機に追突、全日空機が空中分解し、162人全員死亡の大惨事のニュースを聴き、驚く。店内に置かれた「週刊文春」「サンデー毎日」等を読む。佐藤内閣改造と重宗参院議長の退任を知る。

そこから徒歩で、ペンション「パトリス」に帰る。午後5時を過ぎていたが、まだ陽射しが高い。今日も4時間近く歩いたが、午前中は仮眠したので、さほど疲労していない。
水谷真一君が移って来て、隣室で仮眠しているらしい。ノックすると、すぐにドアが開いて、招じ入れられた。「こんな暑い日に、どこが面白くて歩いて来たんですか? 夜9時に共和国広場のレストランで、友達と夕食の約束をしました。中村さんも、いっしょに行きませんか……」 僕は彼と、8時半に会うことにした。
それまで時間があるので、再びスペイン階段まで散歩。階段を降りた広場の近くの文房具店で、大きな紙封筒を買う。アテネで購入したカメラで撮影のフィルムが増えたため、日本へ郵送するのに使う。
夕暮れの風が快いスペイン広場の周辺には、人々が集まっていた。階段を降りた、言わば船着き場のところに、ベルリーニの父のピエトロが17世紀に考案した「舟の噴水」がある。テヴェレ川でワインを運ぶ小舟を形象化したと伝えられ、夕風に吹かれてこぼれる水音が素敵だ。このような「噴水芸術」が、ローマへ来た旅人を癒す。近くには、キーツやシェリーやバイロンの旧居も残るよしで、僕は、この一帯が好きである。

ペンションに戻り、シャワーを浴びる。水谷君と徒歩で、中央駅付近の共和国広場へ向かう。と、この広場の中心部にも、立派な噴水が音を立てていた。今世紀の初めに完成した「ナイアディの噴水」で、4人の妖精が盛大に水を吹き上げる。広場の周囲は、回廊のある建物で囲まれ、その一隅にレストランがあり、回廊の外までテーブルを出しているので、吹き上げる噴水が霧になって流れ、すこしは涼しげである。……
約束したという友達2人が現れた。どちらも年上の日本女性だった! 職場が夏期休暇でイタリアへ来て、数日前に水谷君と知り合ったという。3人とも若いから、何やらハシャイデいる。水谷君は快活だから、モテるのだと思った。僕は注文した、仔牛を炭火で焼き、オリーブ油と胡椒で味付けしたステーキを、ただ黙々と食べ、食後に皆と付き合って、レモネードを飲んだ。適当に相手をしていたが、眠くなって立ち上がると、水谷君が集金して会計を済ませ、女性たちと別れ、男性2人は、いっしょに歩いてペンションへ帰った。12時になっていた。……

 
◎ 写真は、 サンタンジェロ城とサンタンジェロ橋(1971年7月に撮る)

       サンタンジェロ橋とテヴェレ川(同上)

       スペイン広場(同上)