7月28日(水曜日) 晴れ  ナポリーローマ

朝食後の7時半、ホテル「サヨナラ」を去る。ナポリ中央駅の売店で、洗顔用の剃刀を買う。8時半、列車が出る。車内は暑く、混雑している。しかも、イタリア南部の民衆(と、言いたくなる!)の多弁、饒舌で騒然。聴こえてくる言葉の響きには、これまでの国々には無かった、生々しい猥雑感がある。

11時、ローマのテルミニ駅に着く。1950年代の初めに完成したという、ガラスと大理石の明るい近代建築の広々とした構内が、夏休みの観光客でごった返し、騒然としている。現地の怪しげな男が2人ほど近寄ってきたが、無視して観光案内所へ行く。ペンション「パトリス」を紹介される。構外へ出ると、馴れ馴れしく話しかけてくる人物が多い。乗り場へ行き、待ってタクシーに乗る。
テルミニ駅から西北へ10数分の、「トリトーネの噴水」や「蜂の噴水」があるバルベリーニ広場、その近くの裏通りにペンションがあった。母と娘2人、子供2人という女所帯が経営する、アパート兼ペンションで、通された部屋は2階の5号室。環境は、かなり良かった。1階の食堂で、昼食のカルボナーラが出た。

荷物を置き、付近のバス停から、バスで中央駅へ戻る。夏期の混雑を考え、8月2日発のフィレンツェまでの列車を予約。電話ボックスから、在住の芳賀幸則氏に電話を掛ける。横浜まで見送りに来てくれた、演出家の堂本正樹さんの助手おおたか・ゆきお氏は新潟出身、郷里の先輩の芳賀氏がローマのレストランでシェフとして働いているから……と、出港間際に住所を渡してくれた。親切を無にするのもと考え、連絡すると幸いにも在宅。「これから外出しますが、直ぐに帰るので、お出で下さい。見習いの若い者が居ますから」と、言ってくださった。そこで又、タクシーを使って、駅の西方のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の近くにある、芳賀氏のアパルトマンを訪ねる。運転手が300リラと言ったのに、下車の際は1000リラ払わされ、この国は油断がならない! ドアをノックすると、「ハーイ」という声と一緒に、元気そうな若者が顔を覗かせた。
室内に招じ入れられ、初対面の挨拶。渡部建、22歳。やはり新潟出身、2年前からローマに来て、芳賀氏の下でイタリア料理の板前修業中。「日本の友だちからは、"ローマの建チャン"と呼ばれるんだ」と、明るく笑う。夏の休暇の旅行で、イタリア北部から帰って来たばかりのよし。そのせいか、イタリアの悪口を言う。
3時半頃、芳賀氏が帰宅。初対面の挨拶。30歳台後半の体格の良い、日本的な好人物。8年前からのローマ在住、今やイタリア料理店のシェフなのに、微塵もバタ臭さが感じられない。珈琲とスイカやメロンをご馳走になる。"ローマの建チャン"は、北部で買って来たという、冷えたワインを注いでくれた。
芳賀氏が、「やはり日本は、いいですよ……」と呟く。「日本料理は、美しいんだ」とも仰有る。建チャンが、「でも、特殊だね日本料理は」と、口を出す。芳賀氏は、「その特殊さが、いいんだよ」と言われる。「そうだね、日本がいい」と建チャンが応え、「俺も、悪いことして来たけど、ローマの女は、グルグルパアが多いよ」と、クリクリッとした目で嗤う。可愛い青年である。「こちらにはホモが多い。中村さんも、気を付けないといけないよ。金を積まれても、ホモは嫌だ! この間も映画館で、足を蹴飛ばしてやった」と、頰を紅くした。
そして、「日本のレコードでも掛けましょうか」と言う。静かな憩いの一刻が流れた。……

芳賀氏が勤務するレストランは、ペンション「パトリス」があるバルベリーニ広場の北側、ヴェネト通りにある。この通りは並木道の樹木で覆われ、大使館や銀行、高級ホテルやカフェが並び、ローマでもシックな優雅な一角として知られる。芳賀氏は、素敵な環境で働いている。夕刻5時半、氏の車に同乗、ヴェネト通りまで行き、そのレストラン近くのカフェで、珈琲をご馳走になる。冷たくて甘い、濃くて苦い、まことに美味の逸品。氏とは、そこで別れた。ペンションに帰るのは早いので、ひとりで周辺を散策。
ヴェネト通りからシスティーナ通りへ出て、北西方向に進み、トリニタ・デイ・モンティ教会の前の広場に至る。そこから、百数十段の階段を降りたところがスペイン広場で、「舟の噴水」に人びとが群れていた。周辺の通りの一隅に、日本料理店「ローマ東京レストラン」を見かけたので、思い切って入店。渡航後、初めて日本料理店で、夕食。7時になっていた。店内は、一種独特の雰囲気。一皿の魚、ご飯と味噌汁、海苔とオシタシなどを注文。驚くほど高かったが、久しぶりの和食に満足。隣席に岐阜県の洋画家・山口氏がいて、しばし談笑。氏のイタリアの悪口と、東洋賛美に耳を傾ける。「こちらへ来ると皆、こうなるんだな」と思う。
8時過ぎ、店を出る。食後の夜道を歩くうちに、いつか「トレヴィの泉」に来たが、そのまま通過して、トリトーネ通りからバルベリーニ広場へ戻り、9時、ペンションに帰着。洗濯をしてから、おおたか・ゆきおさんに絵葉書を書いた。この界隈の夜は静かだ。


◎写真は   ローマのテルミニ駅の構内(71年7月に撮る)

       スペイン階段(同上)