7月25日(日曜日) 晴れ ブリンディシーナポリ
夜汽車は、アドリア海沿いのブリンディシから、イタリア半島南部を北西に向かって走り、朝の6時50分、ティレニア海沿いのナポリ中央駅に到着。寝台車で5時に目覚めたから、洗顔だけして、直ちに下車。
まだ早朝で、観光案内所は開いていない。駅構内に佇んでいると、旅行者をホテルへ勧誘する客引きが、声を掛けてきた。現地の男性のようで、彼が荷物を手に取るので、付いて歩いて行くと、すぐ駅の近くの小ぶりのホテルに誘導された。ホテルの名称が、何と「サヨナラ」! アジア方面の自由な旅行者たちを扱うらしく、1階のフロアの壁に、墨書された漢詩の額が掛けてあった。便利な場所だから、3泊を決めた。鍵を渡された32号室は、狭苦しかったが、設備は普通。階下へ降りて朝食の後、しばらく仮眠。冷房が緩く、暑かった。
目覚めてシャワーを浴びて、外出。通りに出ると昼近く、ナポリの暑さに驚く。ギリシア各地の暑さとは異質で、湿度が上昇。すれ違った女性が、花模様の黒い扇を使っている。黒い髪、黒い瞳。道を行く男たちも背が低く、アルプス以北の男性よりも小柄だ。中央駅の構内に、立食のピザの売店があった。チーズにトマトとアンチョビを載せた、いちばんシンプルなやつを注文。が、渡されたピザの大きさに戸惑い、「半分にして」と頼んだが、駄目。珈琲も強過ぎて、口に合わず。付近で、霙(みぞれ)のような白い氷菓を売っている。東京やアルプス以北の街角では見かけないもので、アイスクリームとは違う。このシャーベットが、美味しかった!
中央駅前のガリバルディ広場から、150番のバスに乗る。コルソ・ウンベルト1世大通りを南西に直進し、サンタ・ルチア港と、その海に突き出たカステル・デローヴォ(卵城)まで、ほぼ20分余り、車窓から市内の中心地を眺める。チケットを確かめに来た男性の車掌が、あちこちを指差して、親切に教えてくれる。
サンタ・ルチア港で下車。ところが、日曜日のため卵城には入場できず、よって海岸通りを歩く。ナポリ湾とヴェスヴィオ火山を一望する風色が絶佳とされ、「ナポリを見て死ね」とまで言われる名所だが、今日の自分には、さほどに感じられない。何と言っても、すでにギリシアの海景を観てしまったからである!
サンタ・ルチア港から、王宮、サン・カルロ歌劇場、ヌオーヴォ城あたりの一帯を、徒歩して見廻る。歌劇場はイタリア屈指のもので、ヴェルディの『オテロ』を上演中。そこより北へ約2km 、ヴィア・トレドという
通りの先に、国立考古学博物館がある。ポンペイ出土のモザイク画「アレクサンダー大王の奮戦」を観覧したかったが、残念ながら、ここも日曜日のため休館。そこで、この通りを歩いたが、大きな建物が多い。
やがて広場を通過し、その先方を北東に入った界隈が、スパッカ・ナポリという有名な下町。路地裏の空に揺れる無数の洗濯物、子供たちの甲高い声の響き、賑やかな市場の呼び声、職人グループの活気に富む仕事ぶりなど、煮詰めたような濃密度の人間臭を放つ、ヴォルテージの高い、しかも古風な世界が、一転して出現する。ここに身を置くと、若干の困惑の後、しだいに懐かしさとヤルセナイものに、誰もが包まれるだろう。このような"大いなる裏町"は、戦前の大阪辺りには存在したはずだが、現下の日本社会には思い付かない。……
この境界を抜け出し、中央駅近くのホテルまで、歩いて帰った。市中を2時間以上歩き続けたので、さすがに草臥れて、しばらく自室で休息。絵葉書を書き、駅へ行って投函。構内で、息子と見送りの家族との別離抱擁のシーンを散見。さながら新派悲劇の騒ぎに、驚く。ごった返す食堂で、夕食。本場のスパゲッティ・ヴォンゴレを注文したが、麺が細く、塩味の効いたアサリがおいしかった。
ホテルに戻り、早めに休んだが、暑くて寝つかれない。ギリシアでは、夜間は薄衣が必要だったが、ここでは半裸になっても暑い。寝つかれないままに、今日見たイタリア人たちの顔が浮かんできた。……
それまで各地で遇った旅行者から、イタリアとイタリア人についての悪評を、何度も耳にした。イタリアも北部と南部、地域によって違いがある筈だが、今日1日、初めてナポリで過ごしてみて、そうした悪評も解る気がした。現在のギリシア人は、南欧らしい開放性と、旅行者への適度な親切、適度なプライドを持っている。けれども、ナポリの人びとは、すべてが過剰なのである! その饒舌、楽天的な人の良さ、情味、厚かましさ、ずる賢さ、すばしっこさ、馴れ馴れしさ、意地の悪さ、などなど、すべてが過剰で、本質的にシャイネスが欠如し、多血質で、陽気で、それらが芝居ッ気たっぷりの臭気を放つ。そして、この余りにも過剰なエネルギーこそが、"永遠のローマ"をも築いた!……
7月26日(月曜日) 晴れ ナポリーポンペイーナポリ
7時に起床するも、些か下痢気味で、階下での朝食を抑制する。9時、中央駅の観光案内所に行き、市内のCook 社の事務所について訊ねる。8月初め、ジェノヴァからスペインのマラガへ渡る、船旅のチケットを手配するためだ。9時半、駅前からポンペイ行きの観光バスに乗る。
約40分、海沿いの道を走り、ポンペイ着。紀元前後の数世紀間、人口2万5千ほどを擁する繁栄した都市だっただけに、その著名な遺跡も広大。背後には、ヴェスヴィオ火山の姿が遠望される。
女性ガイドの先導で、フォロと呼ばれる公共広場、メインストリート、バジリカ聖堂、アポロの神殿、劇場、オデオン、浴場、酒屋、洗濯屋、貴族屋敷、富豪の家などを、つぎつぎと2時間近く観て廻った。浴場跡には、石膏と化した遺体2つが置かれていた。遺跡としての保存度は高く、いずれも生々しいほどリアルだ。
大噴火によって全都市が埋没し、約1700年間の沈黙と眠りから、18世紀の発見と発掘によって、その姿を再び現わしたからである。歴史に特段の関心が無い者でも、このリアルな過去は見ものに違いない。
ところが、今日の僕には必ずしも、そうではなかった。やはり既に、ギリシア各地の遺跡を観てしまったからである! 決定的に違うのは、ポンペイには廃墟としての風化作用が無い、ということだ。人間世界の臭気が残り、人々の生活や欲望や悲喜こもごもの感情が、手に取るごとく実感されることへの、鬱陶しい嫌悪感!
ここには、ギリシア各地のごとき、神さびた遺跡としての、見る影もなき廃墟としての「詩」が無い! 在るのは唯、人間たちの過去の「現実」である。それは、ギリシアに陶酔した僕の目に、灰色の砂を掛けた。……
昼過ぎて、ナポリ中央駅に帰着。ガリバルディ広場近くの軽食堂で、トマトで味つけした米料理のリゾットを食べ、アイスクリームと紅茶を注文。伝票を切りに来たウェイターが、80Ⅹ3=と計算せず、80+80+80=と書くのには、ちょっと違和感があった。先年、渡欧された郡司正勝教授が、「向こうの連中は、やることが遅い」と言われたのも、宜なるかな。食後、150番のバスに乗り、Cook 社へ行く。
サンタ・ルチア港の付近で下車。ところが、なかなか事務所が見つからない。道を歩く男たちに訊ねても、シカトシタ返事が無い。返事があって、その通り歩いても、そこに事務所は無い。当地の男たちの不親切、いい加減さには、腹が立った。と、銀行があり、そこの係長らしき男性が、初めて親切に教えてくれた。
銀行の背後の通りに、Cook 社の事務所はあった! ところが、である。「ここでは、船のチケットは扱っていない。隣接するペヴェレッロ港にある船会社へ行け」とのこと。昼下がりの暑熱の最中を、さらに数10分間歩き、漸くのおもいで船会社へたどり着いた。ジェノヴァからマラガへの渡航チケットを、やっと入手。
右往左往しているうちに、すっかり日も傾き、中央駅に戻ったのが、午後6時。昨夜の構内の食堂で、トマトソースで和えた茄子のパスタを食べた。近くの席に、北海道から来た青年がいて、「日本の旅行社の男が、スペインの女性に手を出し、スペインの男に殺された!」という、最新のニュースを伝えてくれた。旅先での親切は結構だが、そんなことは、どうでもいいと思った。疲労したので、駅を早く出た。
ガリバルディ広場の隣の市場には、たくさんの屋台店が並んでいる。ギリシアやイタリアの海岸通りには魚介類が、市中の屋台店には季節の果物が、小山のごとく溢れている。それを見るだけで、幸せな気持ちになる。冷やしたマンゴと無花果を買い、ホテルに帰り、自室で食べた。蕩(とろ)けるようだった。
7月27日(火曜日) 晴れ ナポリーカプリ島ーナボリ
朝食の珈琲の味が、これまでの国々と違って、にがくて濃い。8時半、予約したカプリ島行きの観光バスがホテルへ来て乗車、ベヴェレッロ港まで行く。9時、出港。ソレント半島を経てカプリ島まで約2時間、明るい海景が展開。船中、アメリカ留学から帰国途次の、日本人のエンジニアに出遇う。彼は頻りに、ナポリの治安とナポリ人について悪評する。「子供までが、コマしゃくれていて、騒がしい」と。ソレント近くで、「帰れソレントへ」「サンタ・ルチア」などが船内放送で響く。こうした朗々たるイタリア歌唱が、僕はニガテだ。
11時、カプリ島のマリーナ・グランデ港に着く。いろいろな花が咲いている。赤い花が多い。
埠頭近くから、ケーブルカーに乗って、崖の上に出る。そこに小型のバスが来て、島内を一周する。道々には、レモンやオレンジの実がたわわに実り、オリーブの葉にそよぐ風が、窓から吹き入る。
カプリ島は、人口1万、東西10数キロの小島。が、温暖な気候、絶好の風光に恵まれた、欧州有数の観光地。すでにローマ古代から、初代皇帝アウグストゥス、2代皇帝ティベリウスの保養地や隠棲地に選ばれ、ローマからの往来も盛んだった。僕は少年期、シネマスコープ第1回作品『聖衣』を観たが、晩年のティベリウスのカプリ島でのシーンがあったのを、覚えている。ある方面の史書が、老後のティベリウスの島での性的な乱行を記しているのも読んだが、理智に富む人柄だったらしいから、実否は解らない。……
島内の瀟洒な小ホテルで、昼食を摂る。カキとハマグリの盛り合わせが出た後、レモンケーキのシャーベット添えのデザート。どちらも、結構だった。ホテルからの海の眺めも良く、木々も美しい。
昼食後、再びケーブルカーで降りて、埠頭から小舟に乗る。「青の洞窟」まで僅かな距離だが、内部の光の反射は、午前中が好条件らしい。が、内部に潜入すると、そこは光線と水音とが微妙に交錯する、青い音楽室だった。神秘的な世界の出現に、それぞれの小舟から歓声が上がった。
埠頭へ戻り、午後4時半、出港。2時間余り、ティレニア海の風景を観賞。
ソレント半島の向こうに連なる、名に負うアマルフィの海岸美は、かつて木下杢太郎もスケッチを残した。この周辺の地名は、鴎外訳のアンデルセン『即興詩人』にも、しばしば散見する。世界的に響き渡った名所なのである! イタリアの海岸は、気候に恵まれ、白い家々が密集し、賑やかだ。明るく陽気で、訪れる旅行者を楽天的にする。しかし、エーゲ海と島々の景観には、爽やかな孤高感と品格があった。さびさびとした、縹渺(ひょうびょう)たるものがあった。イタリアの海には、それは無い。風景美にも、広くさまざまあって、好みにもよるのだろうが、僕は、ギリシアの海が好きだ。
7時、ナポリ港に帰着。中央駅でバスから降りて、いつもの構内の食堂で夕食。トマトと、リコッタチーズのパスタを食べた。10時近く、ホテルへ戻る。
◎写真は ナポリ湾と海岸通り(亡母遺品の絵葉書)
裏町で見た、意地の悪そうなナポリッ子(1971年7月に撮る)
ポンペイの富豪の家の庭(同上)
カプリ島の昼食したホテル(同上)