7月23日(金曜日) 晴れ のち曇り 午後に少雨 のち晴れ  ピレウスーアテネーコリントスーパトラ

5時半、起床。船内で朝食。7時、アポロ号から下船。タクシーでアテネへ。オモニア広場近くのホテル「アリスティディス」へ立ち寄る。フロントで、無くしたカメラが届いているか訊いたが、やはり届かず。
次に、例の旅行社へ立ち寄ったが、早朝で開店前。付近のホテル「エレクトラ」の1階フロアに荷を下ろし、喫茶コーナーで珈琲を飲む。辺りに、日本の「近東旅行団」のグループが集まっていて、旗を持ったマネージャーから、「アメリカ大統領ニクソン、来年訪中を発表」のニュースを聴く! そう言えば1週間前、コリントスの運河で停車した折り、車内でアメリカ人の旅行者が新聞を広げていたのは、これだったのか。ギリシアに魅了された自分は、しばし世捨て人になっていたわけで、このニュースで現実に引き戻された。

9時、旅行社に行く。ここにも、警察からカメラは届いていなかった。日本好きの20歳の青年社員が、「日本製の良いカメラを売っている店が、近くにある」と勧めるので、同行して貰って、その店へ行く。マネージャーの息子の少年も、いっしょに付いてきた。
少しキツイが、80ドルのオリンパスを購入。やはり無いと不便だ。その通りのレストラン「デルフィ」に入って、3人で早めのランチ。エビのフライをご馳走した。少年は、名が「デミィートリス・パパリス」と言って、とても可愛い。ふと窓の外を見ると、曇っていた空から、ポツリポツリと雨が落ちている。若い社員が、「Very Nice!」と声を挙げた。日本では、雨はウンザリなのに。この1月には、雪も2時間ほど降ったそうだ。外へ出ると、やや涼しい。なるほど、「Very Nice!」である。旅行社の2人は、シンタグマ広場のバスの発着場まで、僕の荷物を抱えて、送って来てくれた。午後1時半、パトラ港に向かって出発。手を振った。 

パトラ港まで4時間半、途中コリントスの地峡で20分休憩した他、バスは走り続けた。冷房が無く、吹き入る風はあるが、疲労した。車内で、アポロ号で一緒だったイタリア生まれ、シカゴ在住の男性の理容師を見かけたが、離れた席だから、会釈を交わしたのみ。午後6時、バトラ着。港内のレストランで夕食。
夜9時、乗船が始まる。船名はエグナティア号で、ナホトカからのバイカル号と同じくらいの規模。夜間の航行だと船賃が安く、しかもユーレイルパス使用者は無料。但し、寝袋にくるまれて、デッキで一晩を過ごすため、学生や若い世代の利用が多い。イタリアとギリシア間は、船舶での往来が盛んだ。
タラップを上ると、チケットを検査する船員が舷側に立ち、近くの数人とドイツ語で話している。検査員だけに表情が厳しく、その目が冷たい。彼は、僕のチケットを確かめると、小声で呟いた。「Good guy、but small
boy……」と。??意味が解らず、僕は瞬間、侮辱されたような気がした。…

船内に入ると、インフォメーションで、個室での宿泊希望を受け付けていた。イタリア南部ブリンディシまで1泊2日、20時間。疲労していたから、寝袋にくるまれ、デッキで夜を過ごすのは辛い! 奮発して、1人部屋を申し込んだ。デッキの階下に部屋はあり、ベッドが2台。隣室には何と、日本女性2人が居た。
出港後、その階の休憩室で、彼女たちと会話した。どちらも30歳台とおぼしい年上の女性たちで、一昨年からロンドン在住、共働きの共同生活。夏の休暇でギリシアを訪れ、これからイタリアを廻って、またロンドンへ帰るという。海外で働くと収入が大きいので、旅費を借金して、日本から飛び出したそうだ。
自室に戻ると、11時半近く、ピレウスからパトラまでの移動に疲労したせいか、すぐに就寝。深夜のアドリア海の航行も平穏。と、一眠りして目覚めた。そして、ふッと気が付いた。ちょうど1年前の7月23日の早朝、京都のホテルに居られた三島先生から、僕の戸塚のアパートに電話があった! 「貴方が出版する本のゲラを読んだが、大変に良かった。文章を書いたので、送ります」と言われ、幾つかの感想を仰有って、過分な褒め言葉を戴いた。が、最後に、「最初の本が新鮮でも、その瑞々(みずみず)しさを急速に失っていく例が、非常に多い。"魔"が、無くなってしまうんだ。そのことを考えて貰いたい」という言葉で、電話は終わった。
あの朝から、もう1年が経ったんだ! あの朝の氏の言葉を思い出し、涙が滲んだ。……



7月24日(土曜日) 晴れ  アドリア海ーブリンディシ

7時半、起床。8時、休憩室に接続する食堂で、セルフサービスの朝食。昨夜の日本女性2人も来ていて、僕に、レモンジュースをおごってくれた。
よく聴けば、日本人の欧州旅行中の社長クラスと家族たちを、現地で世話をする仕事をしているらしく、サラリーは良いが、夜まで「平身低頭」での奉仕は大変のよし。ギリシアに来たのも、半分は有名大会社の幹部連の介助の雑用で、「日本の男たちは手が掛かるから」遺跡も博物館も、どこも覚えていないと言う。僕は、そういう仕事があることに、少なからず驚いた。「洗濯やら荷造りやらお世話をしても、お金を払っているから、空港まで送っても、日本の男は素っ気ない⌋と漏らし、「ロンドンでは、日本人同士が遇っても、知らん顔をする
ことが多いんですよ……」と、どちらも嘆いた。1人が、「やはり有楽町が懐かしい」と言い、もう1人は、「ロンドンに来て半年もすると、"サクラ、サクラ"ばかり、歌っていたよね」と、口を揃えた。……

昼前から午後まで、デッキの椅子に座り、アメリカ旅行のガイドブックを読んだ。アドリア海は、風も波も穏やかで、陽光が溢れ、甲板には旅行客がいっぱい。読みながら、先程の日本女性たちの言葉が浮かび、日本の社会の複雑な表裏を思った。昼食は、階下のコーナーへ下りて、ハンバーガーを食べ、珈琲を飲んだ。デッキの椅子に戻ると、すぐ前に白人の青年が座っていた。挨拶し、「何処から?」と訊ねると、「カナダ」と答えたきり、気難しそうに黙ったままで、ついに下船するまで会話が無かった。人は、さまざまである。

午後5時、イタリアのブリンディシ着。人口9万の南部の港町だが、歴史は古く、ローマ時代からアッピア街道の終点として知られ、このイタリア半島という長靴のような形の踵(カカト)の地点から、ギリシアや小アジアへ渡り、また十字軍も遠征に旅立って行った。
港からブリンディシ・マリッティマ鉄道駅までは、約1km の直進する大通りによって結ばれる。荷物を持っているので、埠頭でタクシーを探し、値段を問うと、「800リラ」という高額に驚く。
と、そこへ下船した60歳くらいのベレー帽を被った老人が、後ろからやって来て、「いっしょに駅まで行こう」と声を掛けてくれた。彼は、英語を少し話すらしく、「イタリアのタクシーは高い」と言い、「自分はスペイン人で、バルセロナで弁護士をしている」と告げ、「来年、日本へ行くかもしれない」と微笑。小肥りで、背は高くなく、円い縁目がねのガラスにヒビがあり、何となく井伏鱒二と似ていた。彼は、僕も持っているcook 社の列車時刻表を手にしていて、片腕を伸ばすと、僕の黒い鞄を持ってくれた。重いスーツケースを抱え、彼の後から1km の通りを歩いて、鉄道駅に到着。彼は、住所が書かれた名刺を渡し、「バルセロナに来たら、電話をかけて欲しい。日本のことを聴きたいから」と告げ、小さな駅の入り口で、握手して別れた。……

小ぢんまりとした地方の駅だが、エグナティア号の船客たちが列車のチケットを求めて、列を成していた。時間がかかったが、10時20分発、ナポリ行き夜汽車の寝台券が取れた。ユーレイルパスがあるので、乗車券は無料。7時過ぎ、構内の食堂で夕食。カキとイカを酢であえた料理を食べた。鮨を好む日本人には、酢が口に合う。食事が済む頃、近くから歌声が聴こえる。しだいに大きくなる。「あッ、"懐かしきケンタッキーの我が家"だ! スティーブン・フォスターだ!」と気付いた。
駅の外へ出ると、辺りに人垣が出来ていて、その輪の中で、少女のような若い女性2人が合唱、男性2人が楽器を伴奏している。アメリカの大学生たちが、夏休みのアルバイトに南欧まで遠征、駅から駅へと歌って旅行している、と分かった。道理で、路上に置かれた皿には、紙幣や小銭が入っている。
やがて、曲は"オールド・ブラック・ジョー"に変わったが、それにしても、夕暮れの港町の小さな駅の傍らで耳にするフォスターは、まことに旅情切々として、聴き入る旅行者たちもシンとしている。……

夜更けの10時20分、列車はブリンディシを出た。寝台車のベッドに横たわったが、先刻のフォスターが耳について離れない。微睡むうちに、なぜか「サクラ、サクラ……」がダブってきた。日本人は何処へ行っても、日本を探しているのだ。


◎写真は  アテネの写真店でカメラを買ったときの1枚(1971年7月)

      ギリシアのパトラ港の周辺(亡母遺品の絵葉書)

      イタリア半島南部オトラントからのアドリア海(2010年12月・再訪時に撮る)