7月20日(火曜日) 快晴  クレタ島

午後3時半、クレタ島のイラクリオンに着く。エーゲ海で最も大きな島、その主要な街。島の北岸の西部にも、ヴェネチア時代の様相の濃い街が幾つかあり、今日の行政や交通網の中心地だが、この北岸の東部イラクリオンが歴史的に古く、かつ著名。島の代名詞のようなクノッソス宮殿遺跡が、すぐ近くにあるのも、イラクリオンを観光客のポピュラーな宿泊地にしている。
クレタ島は、面積8305平方Km 、人口約50万人で、兵庫県くらいの広さ。中部地帯には、雪を戴く2千メートル級の連峰があり、南部海岸はアフリカに近く、切り立った岩や砂漠が多いという。

オールド・ハーバーで下船。すぐにバスで、旧市街の考古学博物館へ。途中、エル・グレコ公園を通過。16世紀のスペインで活躍した画家エル・グレコが、当地イラクリオンの出身者であったことを知る。
博物館の入り口の前方の樹に、燃えるような赤い花が咲いている。何の花か。……ハイビスカス?
ここには、紀元前2000年まで遡るミノア(クレタ)文明を証明する、数多くの発掘品が時代別に展示されている。とりわけ、ギャラリーになっている2階の3室に収蔵された、クノッソス宮殿から出土した壁画が、素晴らしい。百合の花と孔雀の羽の冠をかぶった"百合の王子"。牛飛びの軽業師。お茶目な表情のチャーミングな巫女の"パリジェンヌ"。クロッカスを摘むユーモラスな猿。踊り子たち。……
そこに表現された、底抜けの明るさ。奔放な楽天性。海洋文明の自由な世界は、温暖小雨、爽風晴天が続く、明快な気候条件から生まれたものだろう。アルプス以北の西欧の寒冷期の暗鬱な気候、日本の多雨多湿の複雑で微妙な気候からは、このような限りない透明な絵図は描かれない、と思った。これらの壁画類は、ロートレックやビアズリーよりもモダンで、軽快で、健康的で、かつ爛熟している。そういう文明だったのだろう。

午後5時、クノッソス宮殿に着く。夕刻だが、南の島ゆえ陽光が眩しい。バスから、遺跡のある丘に降り立つと、騒然たる蝉時雨に襲われた。丘の一隅に樹木が数本あり、その傍らに、1900年から宮殿発掘を行なったイギリスの考古学者アーサー・エヴァンズの胸像が、黙々として、丘の向こうの山並みを見つめている。
クノッソス宮殿の名高い迷宮伝説を、実在した歴史として信じたのは第一に、かのシュリーマンであったが、それを近代において、見事に立証したのがエヴァンズだった。迷宮は伝説ではなかったのだ。
しかし今日、この名に負う遺跡を一巡して、僕が感じたことは先ず、この宮殿は想像よりも小さな規模だった。同時に、紀元前1700年頃の建物としては極めて複雑であり、その複雑さゆえに迷宮伝説が誕生したのではないか……? 1300室もの部屋数を一体、何のために必要としたのか、ということだった。
近世欧州の王宮にも、千単位の部屋数があったが、使用目的は明らかにされている。現代の高層ビルの数千の部屋数も、存在理由に不思議はない。クノッソスの無数の小さな部屋、狭い通路、低い天井、急勾配の階段。それに反して、広い中庭と壁画、倉庫や作業場、井戸や聖水プール、外部の舗装道路などの整った規模。これらの理由も研究者の手で、一応は解明されているようだ。
だが、その当時の生活感覚がまったく喪われると、人々は建物の使用が実感できなくなり、やがて建物は「謎」になり「迷宮化」する。王宮も高層ビルも、やがてはクノッソス同然の遺跡になれば、すべてが無感覚、無感情の迷宮となるだろう。所詮は、人間たちが住んでいた「蜂の巣」なのだ。往時のクノッソスの丘上には5万人が暮らしていたと言われ、彼らが蜂のごとく出入りしていたのだと思うと、この迷宮は謎でも何でもない、極めて平凡な生活の場であったのだ!
そう考えると可笑しくなるが、ただし「女王の部屋」の浴槽とハバカリを観て、痛く感心した。何と、それは水洗式であった。その頃、極東のニホン列島は縄文前期に当たるから、まさにクレタは先進文明地域であつた。
ギリシア神話の最高神ゼウスが、クレタ島生まれとされる点からしても、この島に誕生した文明が、やがてエーゲ海全域に波及し、ギリシア文化を育んだのは確かだろう。現在のクレタは地中海では5番目に大きい、多くの観光客が訪れる、エーゲ海の南端の1島でしかない。近代の日本も先陣を切って欧米化し、アジア各地に影響を及ぼしたが、やがては今日のクレタにも等しい、太平洋の1島と化すかもしれない。……
そんなことも思いながら、バスに揺られ、午後7時にアポロ号に帰着。

9時、夕食。大きなムサカが出た。少し食べ過ぎたので、甲板で体操中、イラクリオンを出港。
船内のダンス・ホールに行ってみた。船員たちがマイクを握って、高らかに海の歌、恋の歌を唱っている。僕の姿を見かけた船員が、「ナカムーラ! ナカムーラ!」と呼び掛けて、唱い出したのには、照れてしまった。この船には、かつて日本に寄港した船員もいる。この夜、クレタ島の沖は波が荒く、船が揺れた。


◎写真は  クレタ島のクノッソス宮殿遺跡の壁画(亡母遺品の絵葉書)