7月19日(月曜日) 快晴 アテネーピレウス港ーデロス島ーミコノス島
今日は、バイロンの詠う「ああギリシアの島々、ギリシアの島々!」へ渡る日だ。もはやカメラからは解放され、もっと自由に歩こう。100年以前、ほとんどの旅行者の手に、カメラなんて無かったはずだ。
朝9時20分、予約したタクシーがホテルに来た。ギリシアは、タクシー料金も安い。ピレウス港までバスも地下鉄もあるが、荷物があるのでタクシーがいい。10時、ピレウスに着く。
紀元前5世紀頃から発展した、地中海周辺では最古の港湾都市の1つ。主要港が3つもあり、最大の中央港の岸壁に乗船客用ターミナルがあって、そこが外国航路の船舶や、4日以上のエーゲ海クルーズ船の発着所。タクシーを降りると、僕が予約した「アポロ号」の白い船体が、目前に待っていた。見上げると、実に美しい船だ! 気持ちが躍った。直ちに入船。鍵を受け取り、落ち着いた部屋は、ポセイドン階のPO10。
そこは1人部屋で、ガラス張りの丸窓もあり、1階上が甲板の階なので、まァ悪くなかった。日本で東京の旅行社を通した場合、経費が増額して、船底の暗い部屋になったろう。すべてを現地に来て処理するのは、ことのほか手間と時間が掛かるが、費用は安くて済む。アテネの旅行社だから良い部屋が取れた……と嬉しかった。
11時、ピレウスを出港。まずアポロ号は、キクラデス諸島へと南下。諸島には39の島々があり、エーゲ海の真ん中に、首飾りの輪のような形で纏(まと)まる。そのなかで今日は、デロス島とミコノス島を訪れる。
13時半、昼食すべく船内の食堂へ。同じポセイドン階にあり、便利。僕が与えられた広いテーブルには、アメリカ人の旅行グループが座っていて、隣席は快活な男性の老人。訊けば71歳、ギリシアで生まれたギリシア人だが、14歳で渡米、アメリカ人として57年ぶりに帰国、このクルーズを楽しみにしていたと、語ってくれたのには、ちょっと驚いた。このアポロ号はイギリスで造られたそうだが、船員はギリシア人で、この老人が愉快そうに、彼らとギリシア語で話すのも道理だ。食卓には「スズカキャ」という、ミートボールのトマト煮込みが出た。老人は「少し辛いが、美味しいんだよ」と笑った。ギリシア料理である。
午後は階上の甲板へ出て、日光浴して体操。その後は、小さなプールで泳いだ。太陽が輝き、肌が焼けた。
5時半頃、デロス島の沖合いに碇泊。そこから小舟に分乗して、デロス島の船着き場へ。現在の人口10数人、面積3平方Km の小島だが、全島そのものが古代遺跡。夕暮れ時で、陽は傾いたが明るく、海風に吹きさらされ、砕け散る波の音だけが聴こえる、荒涼とした島の中まで、1時間ばかり歩いた。
この小島は、歴史的にも地政学的にも、また経済的にも、紀元前の数世紀間にわたり、キクラデス諸島の中心地として、栄えに栄えた。東のエジプトやシリア、西のイタリアが交わる、貿易や通商の要衝として、かつギリシア諸都市の対ペルシア「デロス同盟」の本拠地として、盛時の人口2万5千、財貨財宝の溢れる国際海上都市だったのである。続いてローマもデロス島を自由港として尊重、繁栄は引き継がれた。
そのためアポロン神殿を初め、市場や劇場や柱廊や貯水地や金庫跡など、この島は今、遺跡累累たる廃墟で、その多くが原形を留めていない。散乱する崩れた大理石の上を蜥蜴(トカゲ)が走り、枯れ葦が揺れる。僅かに住居跡のモザイクの床が鮮やかに残り、神殿に奉納された数頭のライオン像が、古代を偲ばせる。
デロス島は紀元前1世紀の初め、反ローマ勢力によって略奪、占領された。その後、通商の要衝地が移動して衰退に向かい、やがて忘れられ、19世紀末に発掘されるまで眠っていた。言わば、「滅びた島」なのである。だから散策の途中で突如、廃墟の中に「男根柱」が出現すると、その生々しさに、皆が吹き出した。……
船着き場へ戻ると、まだ小舟が来ていない。アポロ号の若い船員が1人で待っていたので、少し会話した。ミコノス島の出身で20歳、アテネの高校を出たという。「この島は、冬になると、誰もいなくなる」と言った。振り向いて島を見渡すと、遺跡の礎石や折れた円柱が、眠るように倒れている。夕闇の島が、咽(むせ)ぶような憂愁に包まれている。「石山(いしやま)のいしより白し秋のかぜ」……か、とまた、芭蕉が出た。
小舟でアポロ号に帰り、出航。夜8時頃、近距離にあるミコノス島の沖合いで碇泊。碇泊中の9時、船内で夕食会。隣席は昼食の時と同じ老人で、Γ近代オリンピック第1回のアテネ競技場は、観客席は大理石ですか?
」と訊ねると、彼は即座にΓオール マーブル、オール マーブル!」と、得意そうに答えてくれた。ホタルイカのから揚げのあと、Γハルバ」というキャラメル色のケーキが出たが、Γお前は若いから」と言って、その半分をカットし、僕の皿に移してくれた。老人の親切を謝した。
9時40分過ぎ、希望者は幾つかの小舟に乗り込み、夜のミコノス島へ渡る。この島は、アテネから南東へ約155Km にあり、ピレウスから船で6、7時間を要する。古代の遺跡は無く、近代以前の数世紀間、ヴェネチア領であった程度の歴史的事跡しか持たない。人口約5000、面積86平方Km くらいだが、風車や礼拝堂が多くあり、とりわけ整備された幾つかのビーチが人気を呼び、夏には現代の観光客が蝟集して、人口も何倍かに激増する。が、アポロ号の船客が訪れたのは夜間で、風車や礼拝堂やビーチは観られなかった。
僕たちが上陸したのは、入り江の周囲に町並みが生まれた、ミコノス・タウンの船着き場。波打ち際の町は、幾つかの入り組んだ坂道に、びっしりと白い建物が立ち並ぶ。カフェや酒場やタベルナ、ディスコや土産品店には、夏の夜を楽しむ旅行者が溢れ、羊の肉を焼く臭いが漂い、ギリシア舞踊の足音や甘酸っぱい音楽も漏れてくる。店の脇の路上で、子供をあやす鈴や編んだ履き物を、老女が売っている。
この島に来て解放され、自由になった欧米の若者たちの、一種の精気のような何かも、この町を活き活きとさせている。異裝も裸体も抱擁も、この島では「自然」である。そうだ、すべてが自然視され、島々の爽やかな風や波や大気が、それを洗ってソフィスケイトする。彼らにとって、ここは美と官能の風流な島なのだ!
島々の昼の暑熱は日本を凌ぐが、夜は秋のように涼しい。空には、水晶のような星粒……。さんざめく不夜城の島を去り、小舟で11時半過ぎ、アポロ号に帰船。1時、船室で就寝。船は、ミコノスを離れた。
◎ 写真は デロス島のライオン群像(亡母遺品の絵葉書)
ミコノス・タウンの夜(同じく、亡母遺品の絵葉書)

