7月18日(日曜日) 快晴  アテネースニオン岬ーアテネ
 
バスは市内観光を終えて、午後1時半過ぎ、シンタグマ広場近くの発着所に帰着。
待合所には、昨日のコースで一緒だった台湾の医師夫妻、カナダの大学院生たちが居て、彼らは、スニオン岬への観光から帰って来たところだった。「暑かったが、海が素晴らしい」と、口を揃えた。市内も昼下がりは焼けるような暑さで、事務所も商店もシャッターを下ろし、街路はひっそりとする。レストランが1軒だけ開いていたので、遅い昼食をとる。久しぶりにオムレツを、ひとりで食べた。
午後3時半発、アテネ・スニオン岬を往復する、観光バスに乗る。アッティカ半島の先端にあるスニオン岬まで、アポロ・コーストと呼ばれる海岸線を約1時間半、サロニコス湾を右手に眺めながら、南西へと走る。はじめ青かった海が、陽射しが傾くにつれ赤みを帯びて、ホメロスの詠う"葡萄酒色"に変わった。
 
夕刻5時、岬の駐車場で降りる。近くの小高い頂きに、ポセイドン神殿の遺跡が観える。女性ガイドの先導で歩いて行くと、ギリシア本土の突端とエーゲ海が交わる断崖の上に、白い大理石のドリア式の列柱16本が、向き合って並び立っている。高さ約6m、幅約1mの円柱だが、すらりと高く形が良く、島々と潮鳴りを背にして、その爽やかな林のような姿が、瑞々しい若者たちを思わせる。……
ガイドさんの説明では、本来は34本あったそうだ。紀元前5世紀の半ば、パルテノン神殿と同じ頃に建てられたポセイドン神殿は、第2次ペルシア戦争で破壊された。紀元後のローマ帝政期には、すでに旅行者が訪れる名所として、ほぼ今日と同じ状態に化していたことを、史書は伝えているらしい。とすれば、スニオン岬は古くから愛されて来た、言わば「ギリシア8景」の1つだったのかも知れない。
では、なぜ愛されたのだろう。ホメロスは、スニオン岬を"聖なる岬"と詠ったという。古代から荒海を航行する船乗りたちには、この岬は希望であり、安堵であり、海神ポセイドンのおわす神殿の列柱は、地上の森のそよぐ木々のような、或る「優しさ」を与えたのではないか。その優しさ故に今も、スニオン岬は愛される。ギリシアを旅する人々は、このアッティカ半島の物見櫓(ものみやぐら)のような「列柱の岬」を、長く忘れない。
しばらく僕は、柱と海原ばかりを、陶然として見詰めた。その優しさに身を委ねていると、ガイドさんが背後から来て、「バイロンの落書きを見ましょう」と誘ってくれた。18世紀以後、この地を訪れた人たちが、列柱に落書きを残した。近代のロマン派の詩人、シャトーブリアンもラマルチーヌも、この岬へ来た。ジョージ・バイロンもその1人で、1810年の22歳の冬、南欧やバルカン半島を旅行中、スニオン岬に立った。

      スニウムの大理石(なめいし)の崖(がけ)のうえに私をおけ
      私とおまえの囁(ささや)きの流れをきくものは
      浪と私のほかにはない
      そこに白鳥のごとくに、歌いつつ死なせよ
      奴隷の国は、ついにわがものではないのだー
      このサモスの酒の杯を投げて砕こう。

                     バイロン『ドン・ジュアン』1816 (阿部知二 訳)

その名を刻んだ落書きは、右手の角の柱にあった。(追記。2001年6月、スニオン岬を再訪した際は、神殿の周囲に綱がかけられて、列柱に近づけず、もはや落書きを目にすることは出来なかった。)

この岬の周辺には、駐車場の他に、レストランが1軒あるだけ。乗客には、そこで夕食が出された。先日のフランス人のガラス細工の製造業者、新顔のスイス人の青年が、僕と同席。夕陽がテーブルまで射し込み、眩しかったので黙々と、ムール貝の白ワイン煮を賞味した。美味なり。
7時、帰途に向かう。コースが変わり、アテネまで内陸部を1時間半、観るものもなく、バスに揺られる。
そこでバイロンについて、考えるともなく考えた。……稀代の天才にして寵児、かつ蕩児たるバイロンの、その詩業も、名声も、恋愛も、乱倫も、無軌道も、すべては華麗な遊戯であり、そうした一大ショーの嘘(うそ)を、生の真実(まこと)に変えたものが、みずからを浄化する「ギリシアのための涙」ではなかったか。ロンドン社交界から放逐され、異境に在ること8年の無頼の貴族にとって、ギリシアこそは故国を超越する、西洋文明の源泉であった。この源泉によって、彼は自浄し、救済され、飛翔した。
1824年1月、ギリシア独立戦争を支援すべく、自費を投げ出して募った義勇軍に加わるため、ギリシア中部ミソロンギに上陸後、豪雨を浴びてマラリアを発病し、36歳で急逝。その直前の、詩は詠ずる。

      ふがいない、わが壮年の日々よ
      またしてもよみがえる情熱の火を踏みにじれ
      美しいものの微笑にも、ひそめた面(おも)にも
      いまは心をとどむべきではない。

      青春を悔いるならば、なにゆえに命を永(ながら)えるか
      栄光の死をとぐべき国がここにある
      起(た)って、戦場に馳(は)せゆき
      おまえの生命をささげつくせ。
  
               バイロン『この日、36歳を終る』1824 (阿部知二 訳)

訃報が伝わるや、ギリシアの町や村は、半旗を掲げたという。それどころか、バイロンの「ギリシアのための涙」は、その後のアイルランドやインドや第三世界の独立運動にまで拡がり、自由の鐘の第一打となった。彼は、文字どおり死所を得たのである。……

そこで僕は、何故かフッと、昨年秋の三島先生の死が浮かんできた。三島由紀夫は、国家の犯罪者として死んだ。この1月末、参列した築地本願寺での葬儀の、当局の警戒の厳重さが甦った。事件の直後、某政治家は「気が違ったか!」と吐き捨てた。自刃した夜の、社会の騒然たる状況を忘れないが、その死を理解した者は少なかった。いや、無かった、と言っていい。その死が、今日の現実と余りにも乖離していたからである。
三島由紀夫は、現下の経済的な虚栄を嫌い、精神の自立を尊び、民族の覚醒を促して、自決したというのが、当時の公式報道であり、見解でもあった。当然、百家争鳴、諸説紛紛の論議が巻き起こった。
その中で、僕が立ち止まった説が、1つだけある。「すべてが虚構であり、遊戯であり、ショーであった。月の砂漠の虚無の果てに、稀薄だった生の実感を、掴(つか)み取るための死」という仮説だ。すなわち言い換えると、三島の死は「ウソ」だったということになる。そう感じて、そう考えることは、その論者たち自らが逆に、今日の現実を受け入れ、実感をもって生きていることを、暗黙裡に表明していたのかも知れない。つまり、戦後世界の「パクス・アメリカーナ」(アメリカの平和)という現実を、真理として疑わず、その一元化を是認して生きているからこそ、三島の死は「作為」と化し、大芝居だったということになる。キチガイにもなる。
しかし今、僕は考える。故人は成敗を度外視して、遥かな遠くを視つめていたのではないか。歴史に永遠なるものは存在せず、世界は多元である。そうあれかしと信じて、みずからを浄化し、飛翔させる「日本のための涙」を捧げ、彼は孤独な死へ突進する。バイロンの死の明日への拡がりとは異なり、三島由紀夫の奇怪な劇的な死は、この今日の世界体制が多元化する遥かな日まで、おそらく理解されず、受け入れられないだろう。……

夜8時半、バスはアテネ市内へ入り、オモニア広場で下ろして貰う。ホテル近くの、何時ものレストランで一息つき、暑いのでスイカを食べる。ギリシアの果物は、冷たくて甘い。
9時過ぎ、ホテル「アリスティディス」509号室に落ち着く。と、カメラが無い。何処にも無い! スニオン岬の夕景を1枚撮ったので、持って出たのは確かだ。先程、スイカを食べたレストランに忘れたのか? あのカメラには、ソ連から撮ってきたフィルムが収まっている! こうしては居られないと、降りてフロントの男性に話すと、「すぐ近くにポリスがあるから、行きなさい」と言われた。交番に直行し、係官とレストランを調べに行ったが、無い。何処にも無い! 礼を言って、部屋へ戻ったが、困惑。どうする?
ベッドに横になったが、寝付かれない。ナホトカ港からスニオン岬まで、すべての写真が失なわれた。何という不覚! 旅に慣れての、油断だった。が、こうなると毎朝、前日の行動を記して来たのは良かった。起き上がって、黒い皮の鞄に納めてある、大判1冊の大学ノートの日記帳の所在を確かめる。有った。安堵して、ようやく就眠。「やはり僕は、物を書いて行く人間なんだなァ……」と、思った。 

◎写真は  スニオン岬のポセイドン神殿の列柱(2001年6月、再訪時に撮る)
      
      バイロンの肖像(小川和夫 訳『ドン・ジュアン』所収 冨山房刊 1997年)