7月16日(金曜日) 快晴  アテネーデルフィーパトラ

6時、起床。昨夜遅く母に絵葉書を書いたので、まだ眠い。ギリシア式の朝食は簡素。南欧の夏は夜に活気があり、夕食が深更に及ぶからだろう。食事中、イタリア人とおぼしき男性の客が、「このホテルは暑い」とぼやく。7時40分、観光バスが迎えに来た。8時、シンタグマ広場で別のバスに乗り替えて、1泊2日の小旅行に出発。ガイドは、昨日と同じ中年の女性。分かりやすい英語だから、親しみが増した。
ギリシア全土とエーゲ海を併せても、日本の国土の3分の1ほどの広さ。九州・四国・山陽山陰に近畿地方を加えたくらいの領域だが、ペロポネソス半島など交通が未発達のよしで、1泊する予定になる。
バスは、アテネの在るアッティカ半島から、北西へと向かう。樹木の無い、石ばかりの山が列なる平原から、山岳地帯へ延々3時間、冷房の弱いバスに揺られる。ココアを撒いたような乾燥した野に、馬に乗った農婦や牛の群れが見られた。途中のカフェで休憩、冷えたマクワウリを食べる。土産品のコーナーを覗くと、陶器・鈴・ナイフ類・毛織物・絨毯などが並んでいた。ソフォクレスの『オイディプス王』の舞台のテーベ、トルコ占領下の有力都市だったリヴァディアを通過し、ようやくバスは、緑の濃いパルナッソス山麓へ入る。
デルフィの神域の遺跡は、この連峰に抱かれた奥深い高地にある。峩々たる山塊の眼下には、オリーブや松や糸杉が茂り、遠くイテア湾が覗き、山中には蝉の声が聴こえ、青空に白雲が湧き、高々と鷲が舞う、森厳な聖地である。アポロンを祭神とするデルフィは、紀元前1000年代のミケーネ時代から、紀元後の4世紀末頃まで繁栄したという。キリスト教が浸透、ビザンチンのテオドシウス帝が閉鎖するまで、権威を持った。そして、19世紀前半から20世紀初めにかけて、フランス考古学研究所が存在を再発見、遺跡の発掘が続く。
僕は出国前まで浅はかにも、「デルフィは、ギリシアのお伊勢さまのようなもの」と考えていた。ところが現地を訪れた今、多くの都市国家から寄進された宝物庫を目の当たりにして、デルフィの巫女の神託が、当時の地中海世界の全域に影響を及ぼしたものだと、認識を新たにした。正に、地中海精神の「へそ」だったのだ。
バスから下車して2時間余り、神域のおびただしい数の遺跡群を見歩いた。アポロン神殿、古代劇場、アテネ人の柱廊、テーベの宝庫、カスタリアーの泉、トロスと呼ぶ円形神殿などが、山頂から山腹、山腹から参道まで、びっしりと建ち並ぶ。コリントスやアスクレピオスの遺跡は、過去を偲ぶよすがとて少ない、見る影もない残骸だったが、デルフィの遺跡は保存状態が良好で、よりリアルに過去を想像できる。遺跡それぞれの印象は鮮烈であり、明るい寂しさが漂い、廃墟を歩く若者たちの笑い声が、澄んだ空気のなかに聴こえて来る。この遺跡を歩くことは、とりわけ歴史を愛する者には、きわめて幸福な時間だろう。
参道に降りて少し歩くと、デルフィのこじんまりとした町に着く。タベルナや土産品店が多く並び、そのうちの一軒に入って、遅めの昼食。座った席から、窓の遠くに青いイテア湾が見える。「ケフテダキア」というギリシア風ミートボールが、ポテトやサラダを添えて出された。かなりのボリューム。一団のなかに、アメリカ留学から帰途の台湾の医師夫妻がいて、漢字の名刺を下さったので、すこし言葉を交えた。
午後から、デルフィ博物館を見る。松林に囲まれた、白亜の大理石の建物。フランス考古学研究所がデルフィ遺跡の発掘作業中に出土した、多くの美術品を収蔵し、アルカイック期からローマ期まで、時代別に11室に別れる。そのうち今日、最も著名とされる彫刻は、紀元前400年代後半にシチリア島の僭主が献納した、青銅製の「馭者の像」だと言う。古代オリンピックの戦車競技の勝利者の像で、若き馭者の誇りと気品、風格が素晴らしい。青銅製のアポロンの像、ホメロスの像もあり、『イリアス』のパトロクロス戦死の段を描いた彫刻も、印象に残った。けれども、僕が誘い込まれたのは、紀元後2世紀の「アンティノウスの部屋」である!
と言うのも、高校生の頃に三島氏のギリシア紀行を、学生時分には、白水社「新しい世界の文学」マルグリット・ユルスナル『ハドリアヌス帝の回想』(多田智満子 訳)を愛読していたから、案の定、この部屋に誘い込まれてしまった。けだし、案の定である。アンティノウスの像が多く残されたのは、皇帝と世人の少年への深い愛執を物語るが、凡庸な作も在るなかで、現在ではデルフィの像が最も優れている、とされる。
室内に入る。と、やはり釘付けになった。大理石のアンティノウスの美しさに、僕の眼は澄んだ。……

イテア湾の船着き場には、バスごと乗船するカーフェリーが待っていた。午後遅く、出航。日中の激しい暑さが和らぎ、涼しい風が吹き初め、休んでいた船員たちも動き出した。岸を離れると、向こうの浜辺で、子供たちが貝殻を拾う光景が、また目に入った。観ていると何か安らいだ、しみじみとした気持ちになった。
青い海、空には白い鴎が舞う。甲板で、バスの一団の人たちと談笑した。アメリカ人の中年の教師夫妻は、ハイスクールが夏休みで、カリフォルニアから来た。気前が良く、奥さんが船内の売店でコーラを買い、僕にも持って来てくれた。夫妻は、先週までイタリアを廻っていて、「ギリシアのほうが、ずっと良いわ」「物価だけじゃないね」と笑う。そこへガイドさんと、先刻の台湾の医師夫妻がやって来た。皆んな「今日のランチが好かった」と褒めると、ガイドが「ギリシアに不味いものは無いわ!」と自慢、揃って爆笑した。この海と空、この気候、暫しの船内のくつろぎに、参加者が快く開放されている。「Greece 」は、不思議なところだ。
デッキの一隅には、オランダから来た夏休みの中学生たちもいて、数人で珠投げをして騒がしい。僕は彼らと話したくなり、近くに行って声をかけると、彼らも近寄ってきた。彼らが、僕のヘタな英語を懸命に解ろうとしているのが、よく分かった。こんなに英語を知っていたのかと、我ながら思うほどラクラクと言葉が出た。
「日本人だよ」と告げると、彼らは賢かった。江戸時代の鎖国も、長崎の出島も、シーボルトについても知っているのには、驚いた。この秋、日本の両陛下が訪欧されるニュースも知っていて、一人の子が鼻の下に両指を当て、髭のある陛下の真似をすると、皆が、どっと笑った。僕も笑った。嬉しかった。そして、「これまで自分の日々に、これほど楽しい無邪気な時間があったのか……」と自問した。

真っ赤な太陽が没する夕刻、エギオンの船着き場で下船。バスは30分後の7時半、パトラの埠頭に着いた。イタリア航路への港町、ギリシア指折りの商業都市。観光バスの一団20余人は、駐車場から徒歩で、埠頭近くのオルガス広場の周辺にある、中級クラスのホテル・アマリアへ行く。アメリカ人の若者と相部屋。
夜9時から夕食。3テーブルに分かれ、僕の席には、台湾の医師夫妻、カリフォルニアの高校教師夫妻、フランスのガラス細工の製造業者が座り、同室のアメリカ人の若者は別のテーブル。
各自に注文したワインが注がれ、名称「カラマリア」という、レモンの汁をかけて食べるホタルイカの唐揚げが出ると、我がグループは談論風発。話題は、それぞれが訪れたイタリアの悪口で、大いに盛り上がり、訪れていない僕は、面白く聴いていた。魚介が豊富なギリシア料理も美味で、楽しかった。
部屋へ戻り、同室の若者と簡単な挨拶。容貌は平凡だが、しなやかな身体。直ぐに部屋を出て、台湾の医師夫妻と約束した、埠頭への散歩に赴く。一緒に歩きながら、医師夫妻は頻りに、日本の経済的躍進を誉めてくれる。大戦に敗けながら、立ち直ったのは偉い、と。そして最近、アメリカが北京政府に接近し始め、台湾の国連での代表権問題の帰趨(きすう)を懸念している、とも言った。僕が、「日本と中国は、アジアの兄弟だから…⌋と答えると、夫妻は笑って歓んでくれた。30分ほどで、ホテル・アマリアへ帰った。…
それにしても、パトラという夏の港町の、噎(む)せるような夜の甘さ! 五感を刺激し、肉体を甦らせるような、匂い立つ夜気! 僕は、久しぶりに身体が疼(うず)いた……
部屋では、若者が寝息を立てていた。11時、僕も就寝。この夜は、寝苦しかった。

◎付記する。30年後の2001年夏、ギリシア再訪時には、かつてのアテネの西北部の石の山、乾燥した野原は、緑の木々が繁る風景に一変していた。浜辺で貝を取る、麦わら帽子の子供たちの侘しい姿も、すでに無かった。ギリシアの古代からの風土の強いアクが消えて、一種東洋的とも言い得た、熱っぽい土臭も薄れ、そこには、いわゆる「ユーロ化」された文化地帯が生まれていた。……

◎写真は デルフィ博物館のアンティノウスの大理石の像(亡母遺品の絵葉書2枚) 
     デルフィの円形神殿・トロス(2001年6月、再訪時に撮る)