7月15日(木曜日) 晴れ アテネーコリントスーミケーネーナフプリオンーエピダヴロスーアテネ

朝6時、起床。7時、2階の食堂で朝食。パンとジャムとコーヒーのみ。7時半、すぐに観光バスがホテルへ迎えに来た。追いたてられるように、数人一緒に乗車。国会議事堂前のシンタグマ広場で停車、残りの多数の旅行者が乗り込んできて、出発。車掌を兼ねたガイドは、英語を話す中年の女性。さっぱりした笑顔だ。
アテネ市内を出ると、車窓の左手にエーゲ海、右手に赤土の山並みが続き、アッティカ地方の乾いた気候のせいか、ほとんど樹木の影が無い。やがてバスは、ペロポネソス半島の東北端のコリントス地峡に入り、運河を渡って橋の近くで下車。乗客は1列となり、歩行者専用の通路に立ち、深さ80m 、幅23m 、長さ6343m の壮大なコリントス運河の全容を見下ろし、慄然とする。両側に岩壁が垂直にそそり立って、各時期の地層の堆積が、観て取れる。橋の袂(たもと)の休憩所に座ると、ほッとした。ヤギの肉を焼いてスブラキを売っている。
ギリシア中部とペロポネソス半島とは、コリントス地峡という首1つで繋がっていて、西のイオニア海のコリントス湾と、東のエーゲ海のサロニコス湾との合流を阻んでいる。運河を掘削、東西を連結させる発想は、早くも古代ギリシアの政治家たちや、アレクサンドロス大王にもあったという。が、金のシャベルを握って掘削に先鞭を付けたのが、皇帝ネロだったというのは面白い。かの暴君こそ、"狂気と天才"の持ち主だった。飽き性の彼の情熱は長続きせず、その後も企図の実行は難航を重ね、ついに19世紀の末、ギリシア人の手で完成する日まで、運河の開通は無かった。着想は容易、実現が難しい、そこに運河というものの歴史がある。
バスは、コリントスの遺跡へ向かう。欧州の古代都市の遺跡、すなわち廃墟を観るのは、これが僕には初めてだった。2つの海、2つの陸に股がるコリントスは、古代ギリシアの要衝の地で、貿易・産業都市として、ローマ期まで繁栄を極めた。ネロ帝もハドリアヌス帝も、当地を訪れた。ネロは競技祭に臨席、ハドリアヌスは湖からの水路を拡充した。しかし今日、僕を待ち受けていたコリントスは、晴天一碧の下、屹立するアクロコリントス山の麓に取り残された、無人都市の遺跡群だった。聴こえるのは、風の音だけである。
アゴラと呼ぶ広場、商店街の柱廊、メインストリート、劇場や音楽堂や浴場、ことごとく崩壊して風化し、不気味な岩石の塊となって沈黙し、数千年の過去をさらけ出している。「廃墟」というものの虚無感と孤独に、身を包まれない来訪者は無いだろう。僕は偶然、数日前に読んだ杜甫の『玉華宮』の詩句が、ふっと浮かんだ。

         渓(たに)回(めぐ)りて松風(しょうふう)長く
         蒼鼠(そうそ) 古瓦(こが)に竄(かく)る
         知らず 何王(なにおう)の殿(でん)ぞ
         遺構(いこう) 絶壁(ぜっぺき)の下(もと)

         憂(うれ)え来(きた)り草を藉(し)いて坐(ざ)し
         浩歌(こうか)すれば涙(なみだ) 把(は)に盈(み)つ
         冉冉(ぜんぜん)たる征途(せいと)の間(かん)
         誰(たれ)か是(こ)れ長年(ちょうねん)なる者(もの)ぞ
                                (前野直彬 注解)

見渡す廃墟の向こうに、僅かにアポロン神殿のドリア式の石造の円柱が7本、置き忘れられたように遺っている。また、広場近くの泉水には、まだ水が湧き出していて、来訪者をほッとさせる。古代都市の遺跡に、今なお生きているものの謎があり、そこに1つの不思議な魅惑が生じる。廃墟が、人間を虜(とりこ)にするのだ。
遺跡の一隅に、考古学博物館がある。紀元前7、8世紀頃にコリントスが輸出した、オリエント風装飾のアルカイック期の陶器が、多く陳列されている。目を楽しませるのは、皇帝ネロの頭部像だ。ラシーヌの戯曲『ブリタニキュス』のネロンは怖い人物だが、史書が伝える芸術家ぶったネロや、頭部像には愛らしさがある。

バスは発車し、内陸部のミケーネへ向かう。そこはアルゴス平野の北の奥、頑固で巨大な岩石群の上に、紀元前1000年代に存在した、難攻不落の城塞都市の遺跡である。周囲は赤土の不毛の山々が連なり、荒涼たる風景。遺跡の入り口の駐車場で下車。真夏の射光がキツイが、吹く風は優しい。石楠花に似た赤、白の花が、道の辺に咲き乱れる。それにしても、この透明な日光、乾燥した空気は、地上に起こる物事の輪郭をハッキリと認識させ、その可否善悪を浮かび上がらせるのではないか? みずほの国の湿潤な風土が、理非をぼかして全てを無にしてしまうのとは、思想の位相が対極になる。……
城壁に沿って暫く歩き、最初に案内されたのが、丘を利用した石造の「アトレウスの宝庫」だった。陵墓とも見られ、ヤマトの前方後円墳も丘利用だが、ミケーネは石が主体である。墓穴や通路を支える石組の的確と堅牢さには、人間の頭脳と強い意志が感じられる。墓穴の内部はガランとして暗く、いまは何も無い。往古は天井に金が張られ、花模様が描かれていたという。不毛の岩山の奥深く、黄金の花が咲いていたのだ。
ホメロスは『イリアス』の第7歌で、「黄金富めるミケネー」(土井晩翠 訳)とうたった。紀元前1000年代前半のクレタ文明は、島嶼から海洋へ拡がる和親的な傾向を帯びていたようだが、1000年代後半のミケーネ文明は、内陸山地に堅固な要塞を築く、戦闘的な体質を持っていた。武勲の死を償い、勝利の血を浄化するものは、荒地に蔵された黄金の"華"であった。
「アトレウスの宝庫」を出て、さらに城壁沿いに坂道を進むと、ミケーネのシンボル「獅子の門」に達する。大きな1枚岩を用いた、高さ3m 、幅4mの入場門で、上部の三角石には、2頭のライオンが浮き彫りされている。門前には観光客が散らばり、日本からの旅行者の姿もあった。小肥りの中年の男性と同伴の女性に遭ったので、門をバックに写真を1枚だけ撮って貰った。
この入場門をくぐり、高台に立つと、すぐ右手下方に「円形墳墓A 」の、さながら工事現場のごとく雑然として石ころが散らばり、周囲が石積みされた広い墓地が、見渡せる。ここで、バスガイドの説明を聴いた。
僕は高校時分、ハインリヒ・シュリーマンの自伝『古代への情熱』を文庫本で一読していたので、このガイドの案内は、よく理解できた。シュリーマンの幼少時代、19世紀中頃の一般的なドイツ人にとって、古代のホメロスや悲劇詩人たちが語った、遥か昔のトロイア戦争をめぐる事どもは、すべて"伝説"と思われていた。ところが、少年シュリーマンだけが、ホメロスたちの語った過去を、なぜか信じた。天才の直観だったろう。
彼は、学校教育を満足に受けなかったが、愛する『イリアス』と『オデュツセイア』の全文は、見事に暗唱したという。変転を経て、貿易商や銀行家として成功し、巨富を得た彼は、45歳で事業から退き、清国や幕末日本を含む世界漫遊に出たのち、まさに"三つ子の魂百までも"と、古代遺跡の発掘作業に突進した。
1876年、シュリーマン54歳のとき、ミケーネの古代遺跡を発見。19世紀前半、彼以前にも「獅子の門」などを目にする者はあったが、たとえばフランスの学術調査団員たちは、フランク族の城塞の門だという見解を示した。シュリーマンは、この「円形墳墓A』は、ミケーネの王アガメムノンの一家眷族が犯した、愛憎と欲望の殺戮劇を伝える墳墓である、と考えた。ここから、男女19の遺体が発見された。
男性の遺体は、顔に黄金の仮面が、胸に黄金の板が被せられ、女性の遺体は、金の王冠形の髪飾り、首飾りと指輪を身に付けていた。山岳の荒地と瓦礫の底から、採掘された黄金の多量さに、世界は驚倒した。この眩きものの光は現在、アテネ国立考古学博物館のギリシア文明の誇りとなって輝いている。
「線文字B 」が書かれた粘土板なども発掘されたが、何と言っても、シュリーマンの「黄金発見」によって、ミケーネ文明は実証された。その遺体が実は、アガメムノンより古い時代のものだったことが、のちに判明するが、ミケーネ文明の実在そのものが否定されたわけではなく、シュリーマンこそは真実の発見者であった。
バスは再び発車して、次の目的地を目指す。僕の脳裡には又もや、初唐の詩人・陳子昂の「薊丘覧古」の数節が甦って来た。詩人は詠ずる、永遠への想いを。

            南(みなみ)のかた碣石坂(けっせきはん)に登(のぼ)り
            遥(はる)かに黄金台(おうごんだい)を望(のぞ)む
            丘陵(きゅうりょう) 尽(ことごと)く喬木(きょうぼく)
            昭王(しょうおう) 安(いず)くにか在(あ)るや
            覇図(はと) 悵(ああ)已(や)んぬるかな
            馬(うま)を駆(か)りて復(ま)た帰(かえ)り来(き)たる
                                   (前野直彬 注解)

古(いにしえ)のミケーネは、まさに「黄金台」であった。 

遅めの昼食を、次のナフプリオンのレストラで摂る。レモン汁を垂らしたズッキーニのフライ、オリーブオイルをかけた焼いた鰯、どちらも美味で、僕にはギリシア料理が口に合う。
テーブルが並べられた、屋外の葡萄棚(だな)の下のテラスからは、崖下のアルゴリス湾の浜辺、右手には半島の岩山の頂きに要塞や旧市街が、見渡せる。昼下がりの焼けるような暑熱の下で、青く静まり返るエーゲ海。時おり微風が頬を撫で、眺望は1枚の油絵である。この快楽にも似た時間が、ずっと続けばいい。…
ナフプリオンは、古代から栄えた港町で、とりわけ19世紀の前半にはギリシアの首都となり、対トルコ独立戦争の要衝として、西欧諸国の拠点ともなった。現在では、リゾートとしても知られる。
昼食後、乗客の多くと坂道を降りて、崖下の浜辺を散歩した。と、地元の数人の子供たちが、麦わら帽子を被って、波打ち際で貝類を拾う風景が、目に入った。僕は、この風景が懐かしかった。「ギリシアの子供も、昔の日本の子供と、同じなんだ」と、何故か思った。向こうを見ると、現地の漁民の母と子が、2頭の驢馬に乗って、侘しげに浜辺をやって来る。僕はまた、なぜか東洋へ帰った気がした。ふッと涙が滲んだ。

バスは、近隣のエピダヴロス遺跡へ向かう。約40分で下車。山の谷間の森の周辺に、遺跡がある。
古代ギリシアの盛時、医神アスクレピオスへの信仰が盛んで、その神殿があるエピダヴロスに各地から、また遠方からも多くの崇拝者が集まった。神殿を中心に、健康回復のための医療・休養の施設、体力増進と英気涵養のための設備が、涼しい森のなかに造られた。体育練習場、競技場、宿泊所、宴会場、浴場、音楽堂(オデオン)などがあり、浴場はギリシア式とローマ風の2ヵ所、エジプトの神々を祭る神殿もあったらしいが、すべて現在では遺跡と化してしまっている。白大理石を金の彫刻で飾った、医神を讃える「円堂」の土台石も残り、往時を偲ぶよすがとなっている。ガイドの女性は、「古代のレジャーランドです」と言って、笑った。
アスクレピオスの神域から遠くない地点に、古代エピダヴロス円形劇場が遺されている。
アルゴリダ丘陵の斜面を利用して、紀元前4世紀末、アルゴスの建築家ポリュクレイトスの設計で建造され、19世紀末、山土に深く埋没していたのを、アテネ考古学協会が発掘した。保存状態の良さは奇跡的だった。
僕は、最下層の演舞場(オーケストラ)の中心部に立ち、上層に拡がるほぼ扇形の、或いは馬蹄形に近い、壮大な古代劇場の客席を見上げた瞬間、まったく興奮した。そして、名状しがたい感動に襲われた。「この劇場を観て良かった。幸福だ!」と思った。劇場そのものに対して、かほど感動した日は無かったろう。
収容人員は約14000名。石造の階段状観覧席は、上下2段階に分かれ、上段は21列、下段は34列の座席によって構成される。オーケストラの中心部で手を打つと、その音が、遥か最上階までハッキリと通る。だが、中心部を少しでも外れて打つと、やや音の通りが鈍る。自分の手でも試みたが、音響効果は抜群。
真夏の太陽が照りつける下で、額の汗を拭いながら、全55段の階段を登ってみた。最上階に立ち、オーケストラを見下ろすと、その背後に舞台が仮設され、公演の準備が進行中だ。夏季の毎週末の夜間、ギリシア古典劇が実演されて、アテネ方面から見物が押しかける、その準備なのだ。ギリシア古典劇の他にも、或る夏にはマリア・カラスが特別出演し、星空の夜の独唱に、群衆は寂として声無く、陶酔の極致に達したという。
最上階からの眺望も、また素晴らしい。仮設舞台の向こうには、松と夾竹桃の緑の森林が続き、遠くアルゴリダの山並みの頭上には、白雲が浮かんでいる。……僕は、しばらく陶然としたが、数段下に少年がひとり居るのに気付き、降りて行って、カメラを渡して1枚撮って欲しいと頼んだ。彼は笑顔で承知し、僕を1枚撮ってくれた。アメリカ人の少年だった。彼が、「貴方は日本人の教師ですか?」と訊いた。「いや、フリーランサー。シアター・クリティークです」と答えると、彼は目を丸くし、「カブキ・ドラマ……?」と問い返した。偶然出会った外国の少年の口から、「カブキ」という名称が出たのには、一瞬驚いた。礼を言い、彼と別れたが、何となく嬉しかった。僕は今や、歌舞伎を嫌いなのに!……そうだ、歌舞伎の「世界」を嫌いなんだ。
古代劇場の近くのレストランで休憩。レモネードを飲みながら、あの少年について考えた。「カブキ」という名称を知っていて、エピダヴロスを訪れていたのは、ひょっとすると、彼も"演劇少年"なのかなァ…と。

バスは夕刻、再びアテネに向かった。2時間余りで市内へ帰り、夜7時、昨日の旅行社の前で下ろして貰う。社員から、イタリアへ渡る船のチケットを受け取り、タクシーでホテル「アリスティディス」806号室に戻った。見るもの多く、疲労した1日だった。8時、ホテル近くのタベルナ(レストラン)で、遅い夕食。ギリシア名物のムサカを注文。イタリア料理のラザニアに似ているが、それよりも口に合い、美味しい。デザートのスイカも美味しい。街には、焼きながら売っている、トウモロコシの芳しい臭いが漂う。懐かしかった。

◎僕は、この最初のギリシア旅行以後の約40年間、ギリシア・トルコ・リビア・アフリカ・スペイン・イタリアなど、地中海沿岸各地に残存する、多くの古代劇場の遺跡を好んで巡歴した。目的とてもなく、さながら失意の漂白者の如く……。その結果として現在、断言し得るのは、幾つかの海辺の古代劇場も魅力的だが、その環境の静寂、形状と機能のバランスの良さ、抜群の音響効果、奇跡的な保存状態において、このエピダヴロス劇場に優越するものは、1つとして無かったと信ずる。この劇場の最良の特性は、"温雅な品格"だと思う。再訪の折り、その美質を確信した。それは現代社会には求められず、古代のギリシア文化の特性そのものであったのかも知れない。今日の建築家たちに、エピダヴロス劇場をつくることは難しいだろう。すでに紀元後2世紀の旅行家パウサニアスの『ギリシア案内記』は、当時のローマ世界において、この劇場を「最高」と評価している。
      笑いあい和(なご)みて別れし満月の
      エピダヴロスの古代の喜劇
                        2001年夏

◎写真は  コリントスの運河  ミケーネの獅子の門(どちらも2001年、再訪時に撮る)