7月11日(日曜日) 晴れ  ルツェルン

朝7時、昨日訪れたホーフ教会の鐘の音が聴こえる。教会は湖の近くにあり、7時の鐘が鳴ると、湖岸に朝市が立つ。人々が花や果物を求めて集まる。起床して、絵葉書を2通書く。
朝食後、ホテル側の都合で214号室へ移る。部屋が広くなり、居心地がいい。午前中は仮眠。
過食気味で、昼食を抜いて外出。バスに乗り、ルツェルン湖の弟のようなロート湖へ行く。日曜日で、ボートレースをやっている。4フランを払う。バスでルツェルン湖の船着き場へ帰る。旧市街の商店は、日曜日のため軒並み休み。船着き場に繋がれている、貸しボートを漕ぐことにした。
料金を渡し、ボートに乗り込み、湖岸を見上げると、1人の少年が石壁に腰を下ろして、本を読みながら、素足を湖水に浸している。黒ズボンに黄色いシャツ、日本の高校生の身なりと、変わらない。こちらを見て、優しく笑った。僕が「乗らないか」と手招きすると、喜んで立ち上がり、ボートに一緒に乗って来た。出発!
嬉しかった。スイスの少年と、ボートを漕ぐとは思わなかった。訊けば17歳、時計やラジオ造りの工場学校へ通っている。清潔で、可憐な少年だと思った。初めは二人で並んでボートを漕いだが、沖合いに出てから、僕だけがオールを握り、少年は舳先に横たわって、読書を続けた。湖上の微風が快い。光と風と青緑の水、そしてアルプスの山々。こんな「平和」が、世の中にあってよいものだろうか。ルツェルンの平和が……。
オールを休め、湖上を揺蕩(たゆた)っていると、ふッと三島先生の顔が甦った。「三島は、性とエロスの血の海のなかで死んだ」と、喝破した劇作家がいた。が、ストイックな『劍』のごとき作品もある。恐らく「自裁」によって「飛翔」した。僕が、「男になるためのストイックな『葉隠』と、女になるためのエロティツクな『あやめ草』は、背中合わせの書だ」と言ったら、先生は、「巧いことを言う!」と褒めてくれたことがある。禁欲と色情は、背中合わせなのだ。男性と女性も、同じだ。僕の中にも、この二つが眠っている。……
貸しボートの時間が来たので、船着き場へ向かう。いつの間にか、少年は寝ていた。着岸すると、彼は目覚めて笑った。笑顔が可愛い。僕も彼も、「有り難う」と言って、握手して別れた。
ホテル「ケルピン⌋へ戻って、食堂で夕食。ここのマダムに頼むと、薄味の野菜料理を出してくれるので、助かる。欧州は、総じて味が濃い。食後その席に残り、数日後のチューリヒへの列車の時間を、Cook 社の時刻表を捲って調べた。調べていると、すこし離れた席に、アメリカ人の十代とおぼしき少女4人がいて食事中、大声で談論風発。その傍若無人のカシマシさには、呆れたというより反感を持った。将来は日本も、こうなるのかなァ。自室に引き揚げ、下着の洗濯などをして、夜11時に就寝。

7月12日(月曜日) 晴れ 午後より曇る 夕刻に雷雨あり  ルツェルン

起床後、朝食すべく階段を下りる途中で、ポールと出会う。明後日、チューリヒからアテネへ飛ぶと伝える。食堂で朝食しながら、絵葉書を1通書く。外出して、歯磨きなどを買い、理髪店へ入る。理容師は老人。フランクフルト駅構内での時よりも、仕事が細やか。が、日本人の理容師だとコメカミを剃る際、一息にやるので快感を伴うが、モタモタしている。イキが違うのだ。11時、理髪店を出る。
そこから徒歩で30分、湖岸にある水泳場へ着く。料金2フラン。湖の浅瀬を利用した眺望の美しい、環境の素晴らしい水泳場には、一驚した。これほど充実したスポーツ施設は、まだ現在の日本には見当たらないのではないか。水泳場に飛び込み台やカヌーがあり、湖岸には広々とした芝生、サッカー、テニス、バトミントン、卓球の競技場を備え、脱衣室とブランコもある休息場、レストランやカフェまで、万全の設備。恐らくはローマの公共浴場に始まる市民社会の伝統があってこそ生まれた、今日の欧州文明のサンプルの一つなのだろう。敬服! レストランで昼食に、ツナの野菜サラダを食べた。料金が安い。
その後、しばらく体操して、2時間ばかり泳ぐ。フランクフルトの水泳場は屋内のプールだったが、自然環境の湖水の水泳場もいい。時おり、芝生の寝椅子に横になった。人が居ても、鳩が逃げない。
着衣して、コーヒーを飲み、徒歩で旧市街へ帰る。映画館が目についたので、どんな様子かと、入ってみた。入場する僕を見て、チケット売場の近くにいた青年が、口許を歪めて苦笑。座席にすわって、その理由が分かった。エロティツク・コメディーだった。僅かな観客。途中で館外へ出た。
ロイス川の両岸は、波がきらめき、夏の夕暮れを楽しむ男女で、賑わっていた。中世風の装いをした若者2人が、太鼓を鳴らしながら、町廻りをする。カフェもレストランも、ビールの泡が溢れ、笑声の渦だ。と、珍しく雷雨になった。しばし激しく降りしきり、僕も裏通りの物陰に隠れた。橋を渡る者も無くなった。…
雨が止んでホテルに戻り、自室で1時間ほど仮眠。痛く疲労した1日だった。7時、階下へ降りて、食堂で夕食。雷雨があり、町が息を止めたせいか、広い食堂の人影もまばら。向こうの隅で、数人が飲んでいるだけ。でも、今宵の雨には味があるなァ…と思った。やはり一つの場所に長く居ないと、解らないものがある。学生時分、京都帝大を出た叔父の紹介で京大会館に一週間滞在、夏の京見物をして以来、このルツェルンに逗留するまで、これほど一つの場所に長く居たことは無かった。そう言えば、京都は今、祇園祭りの頃だ。
日本にいる友だちの顔、顔が浮かんで来た。急に寂しさが込み上げた。すると、向こうの隅で飲んでいる若者の一人が立ち上がり、何か目出度いことでもあったのか、祝杯を高々と挙げて、今夜ひとりぼっちの僕にもサインを送ってくれた。嬉しかった。コップを振って、サインを返した。

7月13日(火曜日) 曇り  ルツェルン

ルツェルン滞在も、今日が最終日だ。朝食後、街に出て、オレンジやミルクチョコレートを買った。服飾店の前を通ると、日本で用いるスダレ、それも白い木製のものを売っている。スイスでも夏にはスダレを使うのか、ちょっと不思議な気がした。もう一度、湖を観たくなり、船着き場まで行き、1時間ほどボートを漕ぐ。
ホテルに戻り、昼食。お名残に贅沢をして、チーズフォンデュを注文。このスイスの名物料理は、僕にとって実は、初めてではない。昭和30年代の中頃、郷里の生家の叔父が洋行し、旅館経営と地元観光地の振興策として、フォンデュ関係の資料を持ち帰って紹介、洋食の新たなメニューとした。数種類のチーズを白ワインで溶かし、ほうろう鍋で煮たクリーム状のものを、上等なパンにつけて食べるわけだが、叔父の狙いは、甲斐特産の白ワインを使うことにあった。「お前も食べてみろ」と言われて、高校生の僕も試食、美味しかった記憶が残っているが、その後、このメニューが郷里で受けたのかどうか、聴いてはいない。…
今日は、それ以来のフォンデュだが、あの時とは味が違った。チーズの種類や、ワインとの配合の量の違いなどにより、多様な味わいが生まれるらしい。目前に出されたものは、ミルクや卵までミックスされていて、極めて濃厚。酒かすのごとき臭いがして、口に合わず、残念だが食べきれなかった。
昼食後、自室で仮眠。目覚めて、荷物を整理し、明朝ここを去る準備をする。夕方、シャワーを浴びた。そこへ予告無しに、ポールが部屋を訪れた。僕がルツェルンを去るからだろう。買ってあったオレンジ1つをプレゼントした。彼は、「自分の部屋にも来てくれ」と言う。
そこで、彼がホテル内で寝起きする1階の部屋へ、一緒に行った。共に働くスペイン人が同室だが、彼は不在。ポールの机の上には、セットされた2枚の写真が置かれていた。1枚は言うまでもなく、アメリカにいる彼のガールフレンド。もう1枚は、少し腰の曲がった老女の写真。彼が言うには、ホテルの裏手の小さな広場の朝の清掃に来る老女を、この窓越しに撮ったものだそうだ。この1枚の写真には、何となく彼の気持ちの
優しさを感じた。……彼も、来月10日にはルツェルンを去り、フランクフルトへ。フランクフルトからスペインへ、スペインからアフリカへと、各地を働きながら旅して、年内にロスアンゼルスへ帰る、という。成る程、そういう旅行の仕方もあるんだな、と思う。でも、ポールも、一種の"放浪児"ではないのか?
彼は、「いつか日本へも行きたい」と漏らした。僕は、自分のアドレスを書いて渡した。部屋を去るとき、ポールは先ほどのオレンジのお返しに、僕に白桃を1つくれた。
食堂で、最後の夕食。スイス人の男性2人が飲みながら食事中で、僕を見かけると、「日本製のテレビは優秀だね」と話しかける。もう1人は、「日本女性は忠実だと評判だが、ボクの妻はもっと忠実」と冗談を言う。薄味の料理を出してくれた、愛想のいいマダムに礼を言い、明日去ることを告げる。「もう直ぐ音楽祭が始まるのよ」と、彼女は微笑した。

7月14日(水曜日) 曇り のち晴れ  ルツェルンーチューリヒーアテネ

7時、起床。朝食後、すぐにチェックアウト。フロントでポールに遇ったので、階段を背に、彼の写真を1枚撮り、ホテル「ケルピン」を去る。
9時、列車がルツェルン駅を出る。車中、ポールのファーストネームを訊くのを忘れたと、気が付く。旅先とはいえ、迂闊! 10時、チューリヒ中央駅着。そこからバスで空港へ。11時、チェックイン。待合室で、東京の観光旅行業者のK 氏に遭う。14時、やや遅れて離陸。
機内で日本の新聞を見つけ、ほぼ1ヶ月ぶりに、むさぼるように読む。機内で昼食が出た。左側の席にはギリシア人の船員がいて、名古屋港に長く停泊したとかで、カタコトの日本語を話す。右側のインド人は無言。
ギリシア上空に入って、時計の針を1時間進める。14時30分、アテネのエリニコン国際空港に到着。機内の窓越しに、サロニコス湾が見える。青い! エーゲ海だ、地中海だ。僕は、少年期からギリシア・ローマの古代史を何故か愛したので、この海の青、それも強い青が、他人事とは思えない。
空港東ターミナルの両替所で、所持金をドラクマに替える。観光案内所へ行くと、アテネ市内のトラベルエージェンシーの住所が書かれたカードを渡され、そこで全てを相談せよとアドバイスされた。
空港からバスで20分、アテネ市内へ入る。アクロポリスが見える! 盛夏の夕景のなかに、燦然としてバルテノン神殿が輝く。一瞬にして、心身が高揚する。気持ちの昂ぶりが分かる。
バスの運転手に旅行社のカードを示すと、親切にも近くで停車してくれた。店舗は、繁華な地区に近い通りの2階にあり、狭い階段を上ってドアを押すと、たちまち笑顔に包まれた。中年のマネージャーと息子の少年、青年社員2人という、こじんまりしたファミリー旅行社。ギリシアは観光国だけに、この手のサービス企業が随所にあるらしく、とりわけフリーの旅行者にとって、親身で便利な存在のようだ。
社員同士はギリシア語だが、マネージャー初め全員が、巧みな英語を話す。「僕は日本人、東京から。ギリシア滞在10日間。ホテルは安く、観光バスは一般コース、ややクルーズは高くてもいい」と条件を示した。打てば響くごとくマネージャーは理解し、ホテルのランク、巡回コース、船旅の日数と船室の等級などを、簡潔に分かりやすく提示。ユーモアを交えて話す、開けっ広げな、男臭い人柄が、いかにも南欧人らしい。
用談は2時間弱。滞在後のイタリアへの渡海のチケットまで、すべて合意に達して依頼。各方面への連絡と手続きがなされ、アメリカン・エキスプレスの小切手で、支払うものは支払った。僕が直感したのは、アルプス以北の西欧諸国に比して、「ギリシアは物価が安い!」ということだった。
今夜のホテルは、オモニア広場の近くにある。社員が電話してタクシーが呼ばれ、旅行社のサービスでホテル「アリスティディス」に着いたのが、夜の9時。周辺は下町ムードで、あまりパッとしないホテルだが、望んだので仕方がない。部屋へ荷物を置いた時、まず感じたのは、ベッドの背丈が非常に低い。モスクワのウクライナホテルのベッドの高さとは対照的で、気候の寒暑の違いによるのか。畳に寝るほどではないが、低い。
まだ、何も食べていなかった。遅いが、とにかくホテルの外へ出た。噴水への夜間照明が眩しいオモニア広場は、人混みで雑踏する庶民的な空間。そこから南西方向にのびるピレオス通りには、多くの小さなカフェや雑貨店が並び、この界隈は、アテネでも最も下町らしいところだと感じた。時折り、ポン引きめいた男が声をかけたりするので、風紀良好とは言えない。但し、騒然たる活気が夜の街に妖しく燃えている。アルプス以北の西欧のクールな都市とは全く違う、街の熱した空気や臭い!乾燥した気候で、夜間は涼しいが、西欧のシャツを着た紳士的な夏から、生身が触れあう半裸の真夏へ飛び込んだ感じだ。眼前に夏の夜が燃えている!
通りには屋台店が並び、オニイサンが肉を鉄串に刺し、炭火で焼きながら声をかける。訊くと、「スブラキ!
スブラキ!」と叫ぶ。1本を買って食べたが、少し辛いが、とても美味しい。菓子店へ入ると、日本の箪笥のような木箱の引き出しに、菓子が置かれていて驚いた。ガラスのウインドーではなかった。キリザンシヨウに似た、粉末を冷やして固めた餅状の菓子を買った。甘い甘い「ルクミ」である。僕は、東洋へ帰ったような気持ちがした。ホテルの部屋に戻ったが、チューリヒからアテネへと、この1日の"激変"に疲労していた。背丈の低いベッドに横たわった。

◎写真は パルテノン神殿(亡母遺品の絵葉書)
     アテネのプラカ地区(2001年6月、再訪時に撮る)