7月7日(水曜日) 晴れ  ウィーン

朝8時、起床。晴れて、暑し。ホテル「ハイシュワー」の部屋の窓外に見える、ウィーンの街並みは静謐。西欧より東欧に近く、モスクワに似た感触。ホテルの洗面の水はけが悪い。
このホテルは不思議にも、朝食を出さない。昨夜行った近くのレストランが代行。マダムが親切で、家庭的なメニューの朝食。9時少し前にホテルを出て、市電Jに乗る。市街の到るところ、工事中が目立つ。
国立オペラ座の前で下車。観光バスのチケットを売る老人が、片言の日本語を話す。9時半、ウィーンの市内と南西部への観光バスが発車。先ず、ホーフブルク宮殿(王宮)からシュテファン寺院、マリア・テレジア広場
やゲーテとシラーの像と、市の中心部を巡回した後、カプツィーナ教会で停車して降りる。
この教会の地下は、ハブスブルク王家の墓所。歴代の皇帝12人の他に、約140体の大小の柩(ひつぎ)が、薄暗い冷え冷えとした空間に眠っている。マリア・テレジアと夫のフランツ1世の柩が、取り分けて大きく豪勢だ。ナポレオンの皇后になったマリー・ルイーズの柩の上にだけ、なぜか紫の花束が供えられていた。
バスは市外の南西方向へ向かい、シェーンブルン宮殿に着く。女帝マリア・テレジアによって、18世紀に完成した豪華な宮殿。シェーンブルンとは、「美しい泉」を意味する。現在も、その泉がある。
外観の色が、ホワイト・イエローに映える、その長大な建物には、1441室がある。ベルサイユを意識して建造されたようだが、まだ、僕はベルサイユを知らない。が先月、レニングラードで観た来たばかりの冬宮(エルミタージュ)に比べると、建物の全体の規模は小さいのではないか。
許されている2階部分を見学したが、冬宮の冷厳な印象に比べると、華やかな潤いかあり、暖炉や調度、特に寝室のベッドなどは、冬宮より小ぶりだが、家族的とも言える温かみがある。やはり、16人もの子女を授かった女帝による、宮殿造成の結果だろうか。面白いのは、チャイナ・ルームが幾室もあることで、中国や日本の陶磁器の名品が、数多く飾られていた。また、大小の部屋の壁面には、名画が光彩を放っている。
フィンランド湾という「海」を背景とする冬宮と、決定的に異なるのは、シェーンブルンが「陸」の宮殿のた
め、庭園の設置や維持を重視していることだ。広大な敷地に、幾何学模様の花壇を配置し、中心部に噴水を置いた、その哲学的な観念性は、築山に池水と流れをあしらい、飛び石と名木を配置した、日本庭園の自然の再現性を見慣れた者から観ると、やはり何となく親しめない、馴染めない距離感がある。
けれども、この宮殿には厳めしさよりも、全体として温和な印象がある。今日でも訪れる人びとの気持ちを、暖かく和(なご)ませる何かを持っているように思う。
バスは、ウィーン市内へと引き返し、午後1時、オペラ座前に帰着。近くのカフェに入って、軽食とデザートのザッハトルテを注文。この銘菓、珍しく好物なり。シーズンオフで、2時からオペラ座内部を有料見学。
オペラ座は休場中だが、ガイドツアーの一団のために、人気の無い場内が照明で煌々としている。正面玄関口から中央階段あたりの豪華さは、さながら宮殿。客席に入ると、首を傾けて見上げるまでに天井が高く、最上階の6階ガレリーから見下ろす1階の平土間は、まるで谷底の平地のようだ。舞台は、間口に比べると、丈が高い。間口が広く、丈が低い、東京の歌舞伎座とは対照的だ。説明によると、舞台の面積は、1階客席の全面積を上回り、奥行きが深い。歌舞伎座や三宅坂の国立劇場も、舞台の奥行きは深い。
オペラ劇場としての音響効果が優れ、特に舞台から真正面のボックス席、ミッテルロージェが最良とされる。全体として、オペラ上演には広からず、狭からずの中庸かつ格好の、劇場空間を持っているようだ。場内装飾も、シックで美麗、しかも落ち着きがある。かつて僕は、これほど優雅な劇場を観たことが無かった。優雅と言えば、1階の平土間の最後方に何と、立ち見の席がある! 歌舞伎座のように最上階が普通だが、愛好家や見巧者を高料金の1階席の背後に遇するのは、粋で優雅な、文化のレベルを示す計らいだろう。感服。
午後3時、ウィーンの東北部を流れるドナウ川方面への観光バスが、オペラ座前から出発。案内者は、今朝
遇ったチケット売りの老人。映画『第三の男』の名場面になったプラーター遊園地、ドナウ川、シューベルトの生家と廻って、アウグスティーナー教会で下車。ここでは、ハプスブルク王家の人々の婚礼が行われ、使用された金色の屏風などを見せられた。続いて、ウィーンの森の北端にある、カーレンベルクの展望台で下車。ウィーン市街やドナウ川、シェーブルン宮殿の辺りまで遠望された。休息地に屋台店が出ていて、赤ワインをかけた酸っぱいアイスクリームを買って食べた。夕刻6時、オペラ座前に戻る。
そこから、オーストリア航空の事務所へ行く。アテネへの便は取れていて、チューリヒの事務所で発券、支払ってほしいと言われる。市電で、今朝のホテル「ハイシュワー」へ帰る。夜の7時になっていた。
cook社の列車時刻表を見ると、ウィーン発のチューリヒ行きの夜汽車が出ている。まだ間に合う。それに決めて、預けた荷物を受け取り、チェックアウト。ホテル近くの例のカフェで夕食後、タクシーでウィーン西駅へ向かう。都合よく、寝台指定券は有った。ウィーンは1日だけで、午後8時30分、夜行列車が出た。
コンパートメントには、先客が3人いた。ドイツ人らしき中年の男性2人が、アメリカ人らしき若い女性を相手に、声高に談笑していた。暫くして女性は、コンパートメントから去った。夜の10時を過ぎると、対面の座席が、それぞれ上下2段の寝台になる。僕は、片方の上段のベッドに横たわった。列車はオーストリアからスイスへと、山間地帯をひた走る。夏の夜なのに寒くなり、毛布をたぐり寄せた。
途中停車があり、下段の男性2人は下車したらしい。代わりに、青年1人が乗り込んで来たようで、やがて下段の電灯も消えた。日本では新幹線が出来てから、少なくとも東海道線の寝台車の運行は減った。でも、夜汽車というものもいいなァ…と、思った。少なくとも、ホテル代の一泊が節約できる。

7月8日(木曜日) 晴れ ウィーンーチューリヒールツェルン

早朝5時、車内で目覚める。6時、車掌が来て、寝台が座席に変わった。下段の青年は居なかった。コンパートメントを出て、洗面室で洗顔。戻ると、朝食とコーヒーが用意されていた。
8時30分、チューリヒ中央駅着。直ぐにタクシーで、オーストリア航空の事務所へ行く。9時オープンで、最初の受け付け。7月14日(水曜日)14時、チューリヒ発アテネ行きのチケットを受領、アメリカン・エキスプレス社の小切手で代金を支払う。10時45分、チューリヒ駅から列車でルツェルンへ。
12時少し前、ルツェルン着。直ちに、ホテル「ケルピン」へ行く。幸いにも、6日連泊の部屋が取れた。割り引いて、安くしてくれたのが、嬉しかった。フロントの右手の広い食堂で、チーズサンドの昼食。
101号室に荷物を置くと、廊下をポールが通る。部屋から出て、ちょっと立ち話。すぐ彼は去ったが、異国の町に1人でも顔見知りが居る、それだけでほッとした。溜まっていた下着の洗濯をした後、シャワーを浴びて、夕刻まで仮眠。目覚めて、水を飲む。スイスは、洗面台から出る水が飲める。ウィーンの水より、はるかに美味しい。日本へ手紙を書いた。
食堂に下りて、夕食。先日も遇ったウェーターが、手を上げてくれる。ハンバーグを注文。食後、街に出た。
ルツェルンには、明るく軽い爽やかさがある。やはり、僕の好きな町だ。適度に賑やかなのもいい。通りを歩いていると、街角のあちこちから、音楽が聴こえる。近付いた夏の音楽祭のための、練習が始まったのだ。

7月9日(金曜日) 晴れ  ルツェルン

朝8時、起床。今日は、出国して1ヶ月になる。旅立つ前、同郷で同窓のダンサーの小林恵美に会った折り、海外体験から彼女が、「長い旅なら、あちらでも1週間に1日は、休まないと駄目よ」と、アドバイスしてくれたのを思い出す。そこで、この日は、ゆっくりすることにした。僕は生来、ナマケモノだ。101号室に有ったクリーニングの袋に、ジーンズと寝巻きを入れて、廊下に出した。階下で朝食した後は、ベッドにいた。
午後は外出。常備薬、石鹸、靴下など、日常用品を買う。ホテルの自室に戻り、手紙を書き、夕方までベッドに横たわる。夕食後、散歩。ホテル「ケルピン⌋の裏手が、小さな広場になっていて、ポールが子供たちの相手をして、輪投げに興じていた。僕も加わり、しばらく遊んだ。自転車が数台あったので、久しぶりに乗って、付近を一周した。ポールも、骨休めの時間だったのだろう。
夜は、早めに休んだ。何事も無い一日だった。

7月10日(土曜日) 晴れ  ルツェルン

朝8時、起床。昨日休んだせいか、体調が良い。食堂で朝食後、フロントの前で、インド人の旅行者3名に遇う。僕がおどけて、合掌して仏像を拝むサマをすると、彼らはニッコリして、持っていたサフランのめしべと木の実をくれた。そこへポールが来合わせ、土曜日だから、夕食後の7時に会うことにした。
その足で、ホテルの近くにある雑貨店へ行き、ルツェルンの絵葉書を買う。自室に戻り、絵葉書6枚を書き、フロントで投函。再び、外出。晴天続きで、街には水撒き車が出て、路上を洗っている。
ホテルから遠くない湖岸の近くに、ホーフ教会があり、今日はまず、そこを見る。8世紀に起源をもつ修道院が、17世紀に火災で焼失。その後に再建された現在の建物は、ルネッサンス様式と言われ、スマートで端正な外観である。二つの尖塔が、競い合うように天を突く。内部の豪華な祭壇と、パイプオルガンが著名。
そこからローウェン通りに出て、しばらく北東に向かって歩くと、旧市街の外れに採石場の跡がある。ホーフ教会の建材は、ここで切り出されたようだ。森林のなかに池があり、その向こうの巨岩をくり貫いて、1匹の大きなライオン像が横たわる。ライオンの脇腹には槍が刺さり、瀕死の状態が痛ましい。フランス革命の際、
暴徒化した群衆から国王夫妻を護ろうとして落命した、スイス人の傭兵786名を追悼して築かれた「ライオン記念碑」である。ルツェルンの名所になっており、この日も池の周囲には、観光客が多かった。
バスに乗り、ロイス川とルツェルン湖にまたがるゼー橋まで来て、降りる。カペル橋のたもとのカフェに入り、卵とジャガイモを混ぜ合わせて焼いた「レシュティ」を食べる。山村の料理らしい。食後、ロイス川の両岸を歩いた。多くの屋台店が出ていて、オレンジと菓子を買って食べたが、とても美味しい。
午後は、また湖岸通りを歩く。高級ホテルやレストランが立ち並び、通りそれ自体が公園になっていて、噴水がこぼれ、アジサイの花園が咲き競い、木陰に入ると涼しく、微風が快適だ。湖上には、水泳する若者たち、カヌーを器用に漕ぐ子供たち、遠くヨットの白帆や遊覧船が、名画のごとく一望される。土曜日のせいか、行き交う人々ものんびりして、穏和な静けさに包まれている。良質の市民社会の、休日の健やかさが、気持ちを優しくしてくれる。ルツェルンという町の得難さは、この健やかで透明な安らぎにあると思う。ここには何か、「毒」というものを消化する環境がある。
ベンチに座って、遥か遠く対岸に眼を向けると、ぼうッと何やら赤い建物らしきものが浮かぶ。あれは何だろう、と思った。見極め難いので、眼をこすったりしているうちに、建物が赤い鳥居のごとく見えてきた。水上に浮かぶ赤い鳥居……とすれば、そうだ、あれは安芸の宮島のようだ。宮島だ、宮島だ。出国して1ヶ月では望郷の念など無い自分の眼に、異国の湖上の赤い建物が、宮島の鳥居に見えてくるとは、不思議だ!
すると突然そこへ、東洋人らし青年1人が、ベンチの片方に座った。そして、「日本の方ですか」と問いかけて来た。僕が、「旅行中です」と答えると、「1年前から、チューリヒで働いています。週末で、ルツェルンを観に来た」と、彼は言う。僕は、対岸の赤い建物を指差して、「あれは何でしょう」と訊いてみた。「安芸の宮島の鳥居のようにも見えるんですが…」と付け加えると、「宮島は、よかったですね」と、彼は嗤った。「スイス人にもエキゾチシズムがあって、東洋の建物を模した朱塗りの殿舎を製作して、よく湖水のアクセサリーにする」のだそうだ。宮島の謎が解けたので、僕は彼に礼を言った。
「海外で働いてみたくなり、ここへ来ましたが、日本を出るまでが大変でした」と、彼は漏らした。「四国の田舎育ちで、旅費やら何やら苦労して案配しましたが、こうして来てみると、どうもね…」と続けた。チューリヒでの月給が700フラン、下宿代が100フラン、スイスは物価が高いので、残る余裕は僅かだ、という。
話を聴いているうちに、この疲れた眼をした青年の内部に、ひとつの"幻滅"が始まったのではないか、と感じた。最近の日本は国力が上昇し、ベストセラー『何でも見てやろう』式の若者たちが、漠たる期待を懐いて、数多く海外へ押しかける。が、裏切られ、失望した結果は、海外での"放浪"が待っているのだろうか?
陽射しが傾き、湖上の人影が少なくなった。僕は彼に、「元気で頑張って下さい」と挨拶して、別れた。
ホテル「ケルピン⌋へ戻り、6時、食堂で夕食。魚のフライと野菜を食べた。自室に行き、荷物から携帯用の辞書を取り出す。出国前の半年間、英会話スクールへ通ったが、今夜のポールとの会話に少し不安があり、小型辞書を持って行くことにした。7時、ポールが約束通りフロントへ来た。食事は済ませたという。
そこで一緒にホテルを出て、付近のカフェに入った。週末で、彼には、何時もにない解放感があった。ゆっくり話せる初めての時間だった。コーヒーと菓子を注文。僕がテーブルの上に小型の辞書を置くと、それを見て彼は微笑した。彼は先ず、僕が秋に訪れるアメリカでの旅のスケジュールを、詳しく訊ねた。
「ニューヨークからロスアンゼルスまで、グレイハウンドのバスで約1ヶ月かけて横断。北部ミネアポリス在住の祖母の妹、日系人の大叔母も訪ねたい。ボストンからシカゴ、ミシシッピー川を下つてニューオンリンズ、ニューメキシコからロスアンゼルスに出て、母の日系人の従姉妹に会いたい」と話し、僕は旅したい幾つかの場所の名を挙げた。ポールは、「素晴らしい!」と言い、「ミネアポリスやニューオンリンズへは、自分もまだ行ったことがない」と、溜め息を吐いた。「アメリカは、大きいから…」と受けると、彼は「アメリカには、初めて?」と問う。「もちろん⌋と答えた。子供の時から、日本でアメリカ人には遭って来たが…。
するとポールは、話題を意外な方向へ転じた。「映画の『真夜中のカーボーイ』を観たの?』という問いかけだった。「東京で観たよ」と返すと、「どう思ったの?」と顔を見つめる。「どうッて…」といい淀んだ。彼は間を置かず、「あれが、現在のアメリカの真実だよ。アメリカには同性愛が多い」と断言した。と、二の矢が飛んで来た。「Are you homosexual ?」 僕は答えに窮し、思わず笑った。そして彼に、同じ矢を返した。ポールは即座に、「No !」と否定し、「ボクは14歳の時、女の子とゴールインした…」と呟き、苦笑した。
この告白には、実際驚いた。ポールは一見、ジェントルな青年だが、随分オマセだったんだなァ…と。その後は、スイスで訪れた山岳や湖水について語り合い、二人でホテルへ帰った。が、僕は部屋に戻らず、しばらく夜道を漫歩した。「彼が突然、あんなことを問うたのは、僕を拒むためだったのか? その懸念は無かったのに…」 見上げると、夏の夜空に星が光っている。


◎写真は ウィーンのオペラ座  ルツェルンのホーフ教会 (どちらも亡母遺品の絵葉書)