7月3日(土曜日) 晴れ グリンデルワルトールツェルン
朝8時、起床。前日に続く快晴。昨日昼食したクライネ・シャイデックの標高は2061m、グリンデルワルトは1034mだから、同じ快晴でも気温差あり、当地は暖かい。今日は標高567mのインターラーケンを経て、同じく435mのスイス中央部のルツェルンまで下る予定。9時、ホテルΓヒルシェン」を去る。
9時13分発の電車に乗ろうとするも、駅のトイレットに入っていて、乗り遅れる。出国後、初めての不覚。
9時55分、ようやくグリンデルワルトを出発。車中、旅行中のアメリカ人の老夫婦と話す。カリフォルニア在住。念願のスイス観光に満足、Γワンダフル、ワンダフル」を連発。来年は日本へ行くよし。10時40分、インターラーケン・オスト着。駅のホームに、ルツェルンまでの列車が待っていて、老夫婦が指差して教えてくれる。親切を謝して別れ、下車して乗り換える。
インターラーケンを離れると、プリエンツ湖が見えてくる。通路の向こう側の隣席に、ギターを抱えた少年が座っていて、時折りこちらを見ては微笑する。車内の乗客がまばらのせいか、彼は気が向くと、ギターをつま弾く。どこから来た少年なのか。僕は、チーズパンを千切っていた。言葉を交わすことは無かった。
12時50分、ルツェルン着。古都ルツェルンは、中央スイスの要衝。フィアヴァルトシュテッター湖(ルツェルン湖)という湖の西端にある、湖畔の小さな町だが、かつて首都であった時代もある。というのは、スイスが開発されたのは、この地域が最初だったからだ。ピラトゥス山を初め、周囲を2、3千メートル級の山々が並んだ、盆地のような地形のほとんどを、幾つかの湖水と河川が占め、その交通の要衝がルツェルンである。今日のスイスの国際都市はジュネーブであり、また商業都市はチューリヒだから、ルツェルンという都市の知名度は高くはない。が、風光と環境がひときわ優れ、旅行者と観光客には広く知られている。
駅を出ると、すぐに湖岸で、数多くの湖船が浮かんでいるのが見える。ところが土曜日のせいか、観光案内所が見当たらない。気温が上昇、夏日和になったせいか、若者が幾人も素足で歩いている。その一人に、ユースホステルが何処か訊ねると、駅近くのバス停まで連れて行ってくれた。バスで湖岸を走り、ユースホステル近くの停留所で下車。そこに居た小学生の男の子に、ユースホステルまで案内されたが、あいにくユースは午後6時オープンで閉まっていた。仕方なく停留所まで戻り、タクシーを呼び止めて、適当なホテル探しを頼んだ。午後3時頃、旧市街の湖岸から入った小通りにある、ホテルΓケルピン」に落ち着く。
ここはルツェルンの駅まで、徒歩で行けるせいか、外国からの観光客が多く、とりわけアメリカの若い世代が目立つ。簡素な飾り気の無い中流ホテルだが、設備も応対もよく、フロントの右手には食堂兼レストランもあり、安くて親切。玄関の階段を降りると、周囲に商店が散在して、買い物も便利。環境もまァ悪くない。
安心してチェックインの後、自室で半袖に着替える。夏が来たのだ。町を観に行こうとして、フロントの階まで降りると、アメリカ人らしき青年一人にバッタリ出遇った。旅行者ではなく、このホテルで働いている様子だ。バッタリに照れて、どちらも笑った。ルツェルン湖への方角を問うと、親切に教えてくれた。
湖岸に出ると、対岸の彼方向こうにはピラトゥス山が聳え、晴れた夏空に白い月が浮かぶ。湖上には白鳥が遊び、遊覧船が往来する。湖岸の通りには高級ホテルが並び、テラスの花壇に花が溢れる。そぞろ歩きの観光客も多くなく、飛んできた鳩が、僕の肩に止まったりする。教会の鐘の音も聴こえる。素敵だ!これは良いところだなァ……と思った。すべてが美しい。ひとを幸福な気持ちにする町だ。
満ち足りたような思いになって、湖岸の通りを遊歩するうちに、いつか駅前に来た。と、スイス人らしき男性と並んで歩いてくる若い日本女性に出遭う。珍しく彼女は日本男性を無視せず、僕に微笑んだので、挨拶を交わした。「観光案内所が分からず、やっとホテルを見つけた」と話すと、「お役に立たなくて…」と彼女が詫びたのは、この地に住んでいるためなのか。淑やかな日本女性らしい言葉を、久しぶりに聴いた気がした。
ホテル「ケルピン」に戻り、5時半頃、食堂で夕食。この食堂、簡素で広々とした空間に静かな落ち着きがあり、飲み水や調味料、コーヒーなどはセルフで運び、注文のメニューだけを運んで来てくれる。いささか学生食堂気分だが、サッパリとしたところがいい。スパゲッティーを食べた。スイスでパスタ類が目につくのは、イタリアに近いからだろうか。自室に帰って、荷物の整理と洗濯。シャワーの後、また町へ出る。
ルツェルンは明るい。ハイデルベルクもいい町だが、学者や学問が持つ一種の暗さもある。ルツェルンの湖や川を照らす透明な陽光が、町全体を明るく暖かくして、穏やかな品を醸している。旧市街のロイス川のゆっくりした流れの上に架かる、町のシンボルのようなカペル橋、その近くの貯水塔から、シュプロイヤー橋の辺りまで散策。流れには白鳥が浮かび、橋上から眺める夕映えの空が、えも言われない。ここを居心地のいい快適な桃源郷と感じる人々も、きっと有るだろう。……
夜の9時頃、ホテルに帰る。いつになく優しい気持ちになり、早めに休む。
7月4日(日曜日) 快晴 ルツェルン
朝8時、起床。朝食すべく広い食堂に行くと、アメリカ人の宿泊客が多く、日本人が珍しいので、あちこちから話しかけられる。パンが、焼いたもの、揚げたもの、蒸したものと、三種用意されていて、嬉しかった。
朝食後、またカペル橋を観たくなり、橋の袂(たもと)まで行き、朝の橋を眺める。川沿いのカフェで、デザートの苺を食べた。ホテルへ戻り、絵葉書を書いた後、ルツェルン湖一周の遊覧船に乗るため、駅近くの船着き場まで歩く。晴天で、湖上のさざ波が白く光って、目に眩(まぶ)しい。
11時、乗船して出航。日曜日のせいか観光客が多く、船内は大混雑。デッキを降りた地階のレストランでの昼食も、順番待ちで容易でない。フィアヴァルトシュテッター湖、通称ルツェルン湖は、船で周遊するとほぼ1日かかるので、小さな湖ではない。寄港地があまたあり、遊覧船はAからB、BからCへと、回り灯篭のように湖水を回る。回るたびに旅客を下ろし、旅客を乗せるので、一定メンバーでの遊覧ではない。
湖の水は緑青色、周囲の連峰には白雪が遠望される。午後2時過ぎ、ウィルヘルム・テルの遺跡がある寄港地で下船。乗っていた船は去る。テルの遺跡には礼拝堂が残るが、さまでのものではない。次の船が来るまで、船着き場に並ぶ寝椅子に横たわり、上半身を晒(さら)して、裸で日光浴をする。陽光燦然、湖風爽快、うつらうつらする。と、これからの旅のスケジュールが、ふと頭に浮かんだ。東京の旅行社と相談して作った予定では、スイスからウィーンに出て、ウィーンからザグレブ、ベオグラード、テサロニキ、と3昼夜かけて列車でバルカン半島を縦断し、ギリシアのアテネに到るという、勇壮なプラン。ユーレイルパスが利用可能で、面白いと思い賛成したが、いざヨーロッパに来てみると、なかなかどうして、この計画はシンドイ。バルカン半島の暑熱が思いやられる。かの地の列車の状態も、どうか。ここルツェルンのような居心地ではなかろう。
いっそウィーンから引き返し、暑いバルカン縦断の数日分を、この幸福なルツェルンで過ごしてみたい。それからチューリヒ発の飛行機で、一気にアテネへ飛ぼう!それがいい、そうしよう、という気になった。
3時20分頃、次の船が着く。乗船して、デッキでコーヒーを注文。この時はじめて気が付いたのは、金髪や茶髪の十代前半の少年船員たちが、飲み物を運び、託された荷物を移動し、たぶん食器を洗い、掃除をしたりして、懸命に働いている姿だ。戦前の日本社会には"小僧のヤブイリ"という言葉があったくらいだが、戦後は少年労働者は見かけなくなった。このスイスの少年たちは、やがて青年船員となり、湖の町で一生を終えるのだろうか、と考えると何かいじらしくなり、コーヒーを持って来た少年に、チップをあげた。
夕刻6時20分、ルツェルン旧市街の船着き場へ帰着。下船して、ホテル「ケルピン」に戻る。入り口で、昨日バッタリ出遭ったアメリカ人らしき青年と、また遇う。やはり、このホテルで働いているようだ。7時、食堂で夕食。食後、入って来た青年と挨拶を交わし、初めて1時間ほど話す。
名は、ポール。22歳。昨年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の哲学科を卒業後、ヨーロッパに来て、各地を旅しながら、アルバイトしているよし。僕も、初めての半年間の海外旅行中だと告げ、「この秋には多分、カリフォルニアへ行く。母のイトコにあたる日系人の女性が住んでいるから…」と言うと、彼は「自分の両親の家にも、どうぞ」と答え、その住所を紙に書いてくれた。ポールはナイーブで、容姿が端正。僕たちは、何となく親しくなった。……自室に帰り、洗濯をして、11時に就寝。
7月5日(月曜日) 晴れ ルツェルンーチューリヒ
朝めざめた一瞬、この町にまた来よう!と思った。案内書によれば、ゲーテやシラー、メンデルスゾーンやチャイコフスキーが、この町を愛したという。芸術家たちは文学や音楽の「毒」を癒すべく、この穏やかな幸福な町の明るい風光に、身をゆだねたのだろう。僕さえも今、少年期から滲み込んだ、歌舞伎という演劇の毒に悩まされている。この旅は、解毒のための放浪かもしれない。だから、ルツェルンを求めているのだ。
7時、起床。朝食して、チェックアウト。今朝は、ポールを見かけないので、簡単な置き手紙を書き、フロントに預ける。「ウィーンを訪れた後、引き返してルツェルンへ戻る。また、会いましょう」と。
9時少し前、ホテル「ケルピン」を出る。ルツェルン駅で、9時15分発の列車に乗る。車中、香港から来た中年の夫婦と話す。10時20分、チューリヒ着。中央駅の地上階の窓口で、ウィーンまでの座席指定券を求める。行列する中に、若い日本女性が2人いて、挨拶を交わす。千葉県の国府台で一緒に手芸品店を経営、スイスに憧れて来たとか。
構内の観光案内所へ移動。ホテルを探すも、シーズンで満員、高い部屋しか無い。担当のスイス人の女性が日本語を少し話す。彼女が親切に、「こうしたら」と言って提案したのは、もう一人がホテルを探している。アメリカ人の学生で、彼と共同なら1部屋だけ取れるが、どうか。一晩だけだから、仕方がなく承諾。と、控え室で待っていた、その学生が現われた。筋肉リュウリュウの巨漢、フットボールの試合でスイスへ来た。言葉を交わすと、18歳で、ルイジアナ州ニューオーリンズの高校生。運動選手らしく無口で、憮然としている。二人で市電に乗り、駅から遠くないホテル「アルブラ」へ行き、ベッドは2台だが、狭苦しい部屋へ荷物を置く。
置くと直ぐに、僕は外出。徒歩で、中央駅からチューリヒ湖まで直通するメインストリート、バーンホフ通りへ出る。この通りは1Km足らず、歩いても30分くらいだから、国際都市チューリヒも、さほどの大都市ではない。スイスは山岳と湖水の国で、平地面積が少ないため、都市の規模にも限界があるのだろう。
先ず、チューリヒからアテネへの直行便の有無を確かめるべく、日本航空のオフィスへ行く。係員の解答は、オーストリア航空から出ているはずと言う。そこで、オーストリア航空のオフィスへ移動。週1便飛行、明後日の水曜日は満席で、来週の水曜日の7月14日なら可能と言われる。そこで予約を申し込むと、「これからウィーンへ行かれるなら、ウィーンのオフィスで可否を確かめてほしい」という。仕方がない。アテネへ飛びたい! オーストリア航空のオフィスから、チューリヒ湖の湖岸へ出る。アルプスの白雪が望まれた。
そこからケー橋を渡り、リーマ川沿いの道を歩く。旧市街らしい町並みで、カール大帝の像がある大聖堂の古風な建物を眺めながら、駅近くのハーンホフ橋まで来ると、賑やかな商店街。その一角の小さなレストランで、遅めの軽いランチをとる。中央駅へ戻り、地上階のカフェで喫茶。関西から来た青年と会話。イタリアを廻ってきたとかで、その方面について訊ねる。「もう大変に暑かった」そうだ。
ホテル「アルブラ」に帰ると、同室になった巨漢のフットボール少年が、グウグウ眠り。ホテルに着くと直ぐに、あのままずっと寝ていたのかもしれない。起こすわけにもいかず、再び外出。駅まで行き、夕食。
夜8時頃、ホテルの自室へ戻ると、フットボール少年は不在。明朝の出発が早いので、荷物を整理した後、シャワーを浴びて、就寝。一眠りした頃、深夜に彼が戻り、トイレを使う音、シャワーする音がして、寝付かれなくなる。やがてベッドに横たわったらしく、鼾(いびき)が聴こえたきた。偶然にしても、こんな白人の怪童丸とシトネを並べ、互いに言葉もなく交流もなく、無機質な関係で一夜を終えてしまうことが、何か味気なかった。……名句が浮かんだ。
蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(ばり)する枕もと 奥の細道
7月6日(火曜日) 晴れ チューリヒーウィーン
早朝5時、起床。まだ、暗い。が、ホテル「アルブラ」のメイドは、6時に朝食を用意してくれた。怪童丸はスヤスヤ寝息を立てている。起こさないようにして、そッと部屋を出た。グッドバイ。
市電に乗って中央駅へ行く。7時30分、ウィーン行きの列車が出た。ウィーンまで、所要12時間。車窓には、山また山の風景が展開。スイスを出てオーストリアに入っても、さながら木曽川流域にも似た山間地帯が続いた。コンパートメントには、僕ひとり。車掌が、昼食のボックスと飲み物を運んできた。
インスブルックに停車。すると、現地の人らしき老女性が一人、コンパートメントへ入って来て、斜め向こうの窓際に座った。軽く挨拶はしたが、その後は無言。やがて僕は、彼女を眺めるともなく眺めているうちに、「これは…」と思い、ハッとした。70歳に近い老女だが、まさに美人!しかも、品格がある。軽快な黒い帽子、青いスーツ、黄色のネクタイ、白い手袋をして、読書する姿は、清雅で、気品に充ちている。ロートレックの絵から抜け出したようで、ヴィヴィアン・リーもそこのけの美貌。「これは、唯のネズミではない!」
ザルツブルクに到着。彼女は立ち上がり、アッサリと会釈し、下車して消えた。僕は、まったくタマゲタ。あんな女性は、日本では見られない。アメリカにも居ないだろう。欧州ならではの女性で、ため息をついた。彼女の姿が消えたホームに降りて、アイスクリームを買って食べた。煙草を買おうとすると、背後からアメリカ人とおぼしき中年の男性旅行者が肩を叩き、ケントの箱1つをくれた。"旅は情け"とか。…
発車後、暫くうつらうつらする。ウィーンに近付いた頃、地元の旅行業者数名が乗り込んで来て、コンパートメントそれぞれにアンケート用紙を配布。希望する旅行先に、「Japan 」と書いた。
夜の8時、やっとウィーンの西駅に到着。まだ幸いにも、観光案内所が開いていた。もう一人、西ドイツから来た若者が、今夜のホテルを探していた。案内所が選んだホテルに、それぞれの部屋があった。彼と一緒にタクシーで、ホテル「ハイシュワー」へ行く。荷物を置き、二人でホテル近くの街のレストランで夕食。
聞けば、彼は18歳で、昼は働き、夜は通学する。初めて休暇をとり、ウィーン見物に来たと、りんご酒を飲みながら語った。僕たちは、「グリルフーン」というチキンをローストした、オーストリアのポピュラーな料理の大皿を注文して、二人で分けて食べた。彼がメニューから選び、説明してくれた。気さくな、人の良さそうな青年で、英語での会話が面白かった。彼は日本人の僕が、フリードリヒ大王、マリア・テレジア、ビスマルク、アデナウワーの名を知っていることを、大変よろこんだ。僕が、ヘッセの『ピーター・カーメンチント』が好きだったと言うと、さらに彼はよろこんだ。彼は、ゲーテやシラーやマンを読んでいた。
18歳でも働いている彼は、こんなことを言った。「ドイツも日本も、戦争に敗けた。でも、日本の戦後の経済復興はグレイトだ。貴方の旅は6ヶ月、わたしの休暇は4週間。日本人は偉い」と、少し酔って溜め息を吐いた。ドイツはベルリンの分断が深刻だ、と嘆いたが、マルクが上昇しているのを歓んだ。
10時半頃、一緒にホテルへ帰った。ウィーンの夜は静かで、何となくモスクワの夜に似ている。
◎写真は ルツェルン湖 チューリヒの夜景 (どちらも亡母遺品の絵葉書)

