6月25日(金曜日) 曇り フランクフルトーパリ
朝食抜きで、フランクフルト中央駅へ直行。朝7時発のパリ行きTEE に乗車。ホームで朝食用のパンと牛乳を買う。車内はコンパートメントに分かれ、すでに相客の女性が一人座っていた。黒のサングラス、黄色のワンピースという印象鮮明の中年女性。挨拶を交わすと、アメリカ人でドイツ系、一人旅のよし。
遅い朝食を摂るべく、駅売りの牛乳瓶を開けようとしたが、開かない。「こちらに寄越しなさい」と言って、彼女が直ぐに開けてくれた。アメリカ人らしく活発でフランク、あれこれ世間話が弾んだ。インフレ気味の世界経済。ニクソンの政治と外交、ケネディ政権時代との違い。現在の欧米人の大多数が、ソ連のコミュニズムと、以前のドイツのファシズムが嫌いだと、話題が豊富。この人、雑誌の仕事でもしているのかな。
12時40分、パリの東駅着。荷物があり、タクシーに乗る。竹本忠雄氏のアパルトマンは、モンマルトルの丘の麓(ふもと)の近辺にあるという。運転手に竹本氏の住所を見せる。タクシーの車窓に街の風景が展開するが、初めてパリに来たという感じがしない。奇妙な既視感があるのだ。今日の東京という情報社会の渦中にいると、セーヌ川もエッフェル塔も、必ずしも未知の異国ではない。昭和初期、林芙美子の『下駄で歩いたパリ』の頃とは、時代が随分違って来ている。……
竹本氏のアパルトマンがある建物の扉の前の歩道で、タクシーから降りた。扉を開けると、すこし先に螺旋階段と古風な昇降機があり、それに乗って4階へ。氏のお住居のベルを押すや、直ぐに応答があり、「いやァ」と夫妻揃って迎えて下さった。4部屋ほどのアパルトマンで、居間に通されると、氏は、「高橋さんや横尾(忠則)さんがパリに来られると、空港から電話があり、迎えに行くのですが、中村さんはぶっつけ本番で現れたので、驚きました。貴方は一人で、何処へも行ける人だ」と仰有る。先輩たちには立場と流儀があり、僕は無手勝流の自由派なので赤面、東駅でお電話すればよかったな、と思った。
夫人が緑茶を淹れて、出して下さった。久しぶりの日本の味! 竹本さんは、学生時代には鈴木大拙のお弟子で、大拙先生や桑原武夫氏の導きで海外に出た当初、やはりヨーロッパを一巡する旅をされたそうだ。「覚えているのは、最初の旅。中村さんも思い切って、よく来られた。成果を期待します」と言って下さった。
竹本さんが、訪問客のために予約するペンション「パラディエ」は、モンマルトルの丘の中腹辺りにあり、ここから歩いても行ける距離だが、荷物もあってタクシーを呼ぶ。氏も同行。ゆるい坂道を登った所で停車、僅かな階段の上に「パラディエ」があった。木々の風音がし、環境静寂、設備も良く、部屋も広い。気さくなマダムが応対に出たが、2泊の宿泊代が、すでに竹本さんによって支払われていて、困惑して恐縮した。
遅い昼食をすべく、連れ立ってペンションを出て坂道を下り、賑やかなテルトル広場へ来た。丘の中腹の台地にあり、カフェやレストランが並び、帽子や装身具や風船まで物売りの屋台、似顔絵描きや辻音楽師の笑顔に、そぞろ歩きの観光客が集まっている。この一帯は戦前まで、中心地より家賃も物価も安く、著名な画家や音楽家まで移り住み、ある種の芸術家村の性質があったらしい。が、「現在は、観光地でしかありません」と竹本さんは言われる。であっても、坂道の風情、広場と町の味わいの濃さは、やはり東京の神楽坂などとは比較にならない、と思った。…
広場の一隅のテラスで昼食。竹本氏のお勧めで、鰊(ニシン)とサラダの前菜、メインは蒸した鱒を頂いた。久しぶりにワインを少々。これも竹本さんのオゴリで、恐縮。食後、氏は屋台店で、菓子のマカロンを買われ、麓の通りのお住居へ帰られた。僕は、久しぶりに旧知と食事して、旅から解放されたせいか、飲み足りなくて屋台でイチゴ酒を味わってから、ペンション「パラディエ」に戻った。
その後の夜6時、また竹本さんと会って、氏の知友の劇通クリスチャン氏と3人で、観劇に出かける予定があった。ところが、二階の自室に落ち着くと、身体の調子が悪くなっているのに気付いた。フランクフルトで水泳して、はしゃぎ過ぎたせいかなとも考え、暫くベットに横たわったが、どうも発熱したらしい。そこで早いほうがいいと思い、竹本さんのアパルトマンに電話して、夜の観劇を辞退した。竹本さんは、「こちらへ来た当初、肉食と油物が続くので、大概そうなるんです。休んで下さい」と言われ、氏のパリでの若きアシスタントの若槻君が、代わりに観劇することになった。
ウトウトと休眠していると、やがて竹本さんが来て下さり、ドアをノックして薬を渡して帰られた。旅先での発病に旧知がいるくらい、心強いことは無い。深謝!
安心したせいか、それからは昏こんと眠った。丘の上のサクレ・クール寺院の夕べの鐘の音が聴こえ、誰かが窓の下でシャンソンを口ずさむ声がした。パリらしいと思った。
6月26日(土曜日) 曇り のち雨 パリ
朝9時半、ようやく起床。やや回復。部屋の外の壁際に、朝食のセットが届いている。コーヒーとクロワッサンとジャム。部屋まで運ばれるのが、珍しい。パリ式とでも言おうか。
11時、竹本さんに電話して、昨日の礼を言う。「調子がよろしいようだから、昼食に来ませんか」と誘って下さり、徒歩でお住居まで行き、ご一緒に遅めの昼食を頂く。夫人お手作りの、海苔をまぶしたご飯と豆腐入りの汁、鯛の煮付けと白菜。歯に染み透るようであった! 僕は日頃、和食への偏向は無いが、回復後のせいか、今日ほど故国の献立を有り難いと感じたことは、かつて無かった。元気が出た。
いったんペンションへ戻り、絵葉書を数枚書き、スーツに着替えて、夕刻5時、再び竹本さんのお住居に行く。遅れて、助手の若槻氏夫妻が加わった。パリでの三島由紀夫追悼会が、今夜あるのだ。竹本夫人に送り出され、都合4人がメトロで、凱旋門近くにある会場へ足を運んだ。
その夜、小会場に集まったのは、日仏双方合わせて30人余り。フランス人の方が、目立って多かった。日本からは、作曲家の黛敏郎氏と僕。在仏の日本人画家、佐藤敬氏。会の企画者は竹本氏で、開会すると先ず、竹本氏のフランス語でのスピーチがあり、7時頃から映画『憂国』を上映した。
映画『憂国』は作家の生前、秘密裡に近い形で公開され、その状況は堂本正樹氏などから聴かされていたが、僕は広範囲に封切られた折り、初めて観た。比較的短時間のコンパクトな作品だから、パリでも上映しやすかったのだろう。上映中、参加者は息を潜め、声もなく静寂だった。
終了後、竹本氏から、三島由紀夫の生涯と文学についての講話があり、訪仏して参加した黛敏郎氏と、同じく僕についても、故人との関係を含めて紹介して頂いた。その後、参加者たちの自由交流の時間が持たれ、僕には若槻氏が通訳してくれて、昨夜は失礼した劇通のクリスチャン氏に、先ず挨拶した。クリスチャン氏は中年の上品な紳士で、日本の演劇に関心を持っていた。ユネスコ事務局勤務の某氏は、日本の剣道に興味があるよしで、自身も見るからに立派な体格だった。いずれも参加者は三島への視線を、それなりに有していた。
この季節、パリは9時頃に日没。散会すると、驟雨(しゅうう)になった。降りしきる中を、僕たちは数台に分乗して、凱旋門から遠くないモンソー公園近くの高級住宅街にある、追悼会の支援者で東洋通のローテン氏の邸宅へと急いだ。そこで追悼会の後のカクテルパーティーが、氏の厚意で催されたからだ。
広い瀟洒(しょうしゃ)な邸内には、あちこちに仏像や書画が飾られ、上等な飲料が用意されていた。ローテン氏は、大柄な闊達(かったつ)な老人で、顎の髭を長く伸ばしていた。僕たちがご挨拶すると先ず、彼は言った。「映画の『憂国』を観て、わたしは涙が流れました」と。竹本氏が通訳されたが、これには一寸、僕も驚いた。あの映画は、僕には"泣く"という類いの作品ではなかった。「驚きました」と、竹本さんに小声で言うと、氏は、「ローマ以来、ラテン諸国には、自死の思想があるんです」と囁かれた。
賑やかなパーティーで、多くのフランス人に紹介されたが、この夜の僕には何故か皆、同じように見えた。黛敏郎氏とも初対面だったが、氏は、「歌舞伎が好きです。市川染五郎に関心が有ります」と言われた。パーティーの途中で、黛氏が作曲され、収録された仏教音楽三曲が披露され、ローテン氏が謝意を述べた。
11時に終了して、邸宅を辞去。雨は止んだ。僕と竹本さんと若槻氏夫妻の4人は、シャンゼリゼ通りへ出て、遅い夕食を摂った。「これはパリ風のオジヤです」と、竹本さんが言う。氏の今日の気苦労は、さぞかしと察した。追悼会の成功を祝し、若槻氏夫妻の助力を謝して、僕が夕食をご馳走した。
深夜、タクシーでモンマルトルへ帰り、皆さんと別れる。午前2時半、就寝。
6月27日(日曜日) 晴れ パリーハイデルベルク
朝8時半、竹本氏から電話。起床して、こちらからも電話、昨日の追悼会の労を謝す。朝食後、パリを去る荷造り。11時、竹本さんのネグラ(と、ご本人が言う)にもぐり込み、又もや昼御飯を頂く。
氏夫妻に、これからの旅程をお話しする。西ドイツのハイデルベルクを観たい。そこからスイス、オーストリアを経て、出来れぱバルカン半島を列車で縦断し、ギリシアへ出る。イタリア、スペインと南欧諸国を廻って、南仏から9月初め頃、再びパリへ戻る、と。竹本さんは微笑、「壮大な一人旅ですね。ご武運を祈ります⌋と言われた。僕は、氏の明るい爽やかな笑顔が好きだ。10歳年長の戦前育ちの先輩だが、深川生まれの江戸っ子、気っぷと歯切れがいい。夫人も、長旅の健康を気遣って下さった。
ペンション「パラディエ」に戻り、タクシーで東駅へ。ところが、午後1時過ぎに着くと、駅の構内がひっそりしている。フランス鉄道のストライキで、夕刻まで運休。ハイデルベルクには、深夜到着に変更。
仕方が無いから、営業しているカフェで喫茶し、売店で絵葉書を買い、この数日お世話になった竹本さん夫妻に、まず謝意を綴り、時間があるので、そのほか日本へも五、六枚を書いた。
駅の構内を漫歩し、別のカフェにハシゴして、クック社の時間表1冊と『唐詩選』を読んだ。4時頃になると、乗務員や乗客が動きだす気配がして、やっと4時半に列車が入って来た。17時15分、大幅に遅れてTEE が発車。やれやれだが、ヨーロッパの駅は味があり、それほど退屈しなかった。
車内は空(す)いていた。相客も無く、車窓の景色を眺めているうちに、いつしか微睡(まどろ)んだ。目覚めるとドイツの山間地地帯で、空腹を感じて食堂車へ行った。夜8時を過ぎていて、誰もいない。やっと乗務員が一人現れたが、ストの延長で接客態度が緩慢。そこで若干のチップを出すと、一箱の夕食を運んで来た。が、コヒーは無いと言う。仕方なく自席まで一箱を持参、ホームで買ったエビアンを飲んだ。
22時10分、マンハイムで乗り換える。同40分、ハイデルベルクのホームに降り立つと、山間の爽やかな冷えた夜気に包まれる。瞬間、ドイツ浪漫主義があるとすれば、それは海辺でなく、山々や河川から生まれたという、直観が閃(ひらめ)いた。深夜でも大学の町らしく、構内には学生たちが多くいた。が、すでに観光案内所は閉まっている。手立てが無いから、タクシーの運転手に頼んで、ホテルを探して貰う。
ハイデルベルクは、比較的小さな地方都市で、ちょうど帯を拡げたような形状を成し、帯状の北辺をネッカー川が流れ、南辺の山腹には13世紀以来のハイデルベルク城が聳える。中央駅から旧市街まで若干の距離があり、やがてタクシーは古風な街並みのハウプト通りに入り、運転手が降りて2ヶ所ほどホテルの空きを訊いてくれたが、3つ目のホテル「ローテン・ハーン」がOK. ほッとして、運転手にチップを弾んだ。
深夜なのにフロントの青年が親切で、3階の部屋まで荷物を運んでくれた。昇降機の設備は無い。青年は僕に「学生ですか?」と問う。28歳にもなっているのに、何処でも僕は、学生にしか見られない。「いや、ライターです」と答えたら、彼は目を丸くした。簡素な部屋だが、設備はいい。階段にも廊下にも、この部屋にも、昔物語の絵が懸けられている。ドイツの最古の大学の町らしい。午前1時半、シャワーを浴びて、就寝。
6月28日(月曜日) 雨 のち晴れ ハイデルベルク
朝9時、起床。1階の食堂で朝食。昨夜は遅くて気付かなかったが、このホテルは古いが、どっしりとして大きく、落ち着きのあることを知った。学生街のためか、料金もほどほど。地域には学生酒場「ツム・ローテン・オクセン」があり、戯曲『アルト・ハイデルベルク』の舞台にもなった。
朝食後、市電に乗って、また中央駅へ行く。前夜は遅くて両替所が閉まっており、フランをマルクに替え、東京から持参のアメリカン・エキスプレス社の小切手を、数枚だが現金化した。明日の午後のベルンまでの列車の座席も、窓口で予約して、再び市電で旧市街へ戻った。
ハウプト通りの奥にあるマルクト広場から、ケーブルカー乗り場へ出て、ハイデルベルク城へと登った。山頂のカフェで昼食、軽くサンドイッチ。城内は、古い姿そのままに残っている所と、すでに廃墟と化した部分がある。フリードリヒ舘の展望台から旧市街を見渡す景色は、淡い夢のような美しさで、青春の町の風韻が、しばし時間を忘れさせる。この景色を、ショパンも観た、マーク・トウェインも観たのだ。
展望台では、日本人の若い男女の旅行客に出逢った。「昨日のフランスの鉄道ストには、参りましたね!」と、声を懸けられた。そこから地下へ降りると大酒倉があり、ワインの大樽が据えられていた。ワインを試飲する観光客、現地の小学生たちの一団で、地下が賑わっていた。
城を下りて、ハウプト通りを大学広場へと向かう。周辺は、校舎や博物館や図書館の建物が並び、学生たちの姿も多い。14世紀創立の大学だけに、「大学牢」なるものがあり、不法行為をした学生を収容する、大学側の一種の自己規制装置だが、日本では聴いたことが無く、面白いと思った。大学の治外法権、つまり自由を護るための方策だったのだろう。現在のハイデルベルク大学でも、機能しているのだろうか?
その後は、ハウプト通りをゆっくりと散策。道幅は広くなく、両側に各種商店、みやげ物屋やブティック、レストランなどか並ぶが、本屋と古書店、美術関係の店が目立つのは、大学の町らしい。古書店に入って、ランボー関係の書籍を見た。通りには小さな劇場もあり、著名楽団来演のビラが貼られていた。大学によって生きて来た、その臭いが染み付いた古風な街並みは、必ずしも明るくなく、煮詰められた濃度の暗さがある。
とあるレストランで夕食。時間が早かったので、前菜のトマトサラダのみ注文。それでも快く応対された。パリからすると、値段が随分安い。それと僕には何故か、フランス人の複雑味よりも、ドイツ人の朴訥さが、相性がいいようだ。レストランを出て、近くの食品店でパンと肉の缶詰めと飲み物を買う。
ホテル「ローテン・ハーン」の一室に戻り、しばらくベッドに横たわる。そして寝転んで、買って来た食べ物を食べた。僕は、こういう自由が好きなのだ。ランボー的自由が! 振り替えると、謡曲もお茶も書道も、いっさいの稽古事が身に付かなかった。要するに、落第生なのである。
食後、2時間ほど仮眠。夜の9時に目覚め、日本への手紙や葉書を、たくさん書いた。友だちの顔が浮かんだ。12時半、シャワーして就寝。
付記 6月26日の追悼会は、現在の三島研究家たちによって、名付けて「パリ憂国忌」と呼ばれている。
写真は モンマルトルのテルトル広場(亡母遺品の絵葉書) 竹本忠雄さんと僕(『西洋人の歌舞伎発見』出版記念会 1982年5月)

