6月17日(木曜日) 曇り のち晴れ アムステルダム
一泊13ギルダー(1200円)でも、朝食付き。階下の食事ルームへ行く。と言っても、パンとバターにジャム、珈琲とミルクだけの簡素さ。が、このパンが、モスクワのホテルで出た黒パンよりも、柔らかくて旨い。朝食後、郷里の母に絵はがきを書く。僕の一日の予算は、交通費と宿泊費と食費を除き、僅か雑費は15ドル(
約5500円)である。今夜のコンセルトヘボウのコンサートに行くか迷ったが、場内を観たいので、行くことに決めた。1888年落成の音楽堂は、立派な建物である。
9時半、王宮前の観光案内所VVVで、翌朝出発の観光バスの席を予約する。コースは、アムステルダム近郊の南部地域を巡る。王宮前からトラムでコンセルトヘボウへ行き、今夜のコンサートのチケットを購入。
そこから徒歩で、近隣地域にある国立ミュージアムへ移動。19世紀末、中央駅と同じ頃に建てられた建物は、ヨーロッパ最初のミュージアムと言われ、建築も美しく、館内は窓が多く明るい。地上0階から3階まで設備が充実、図書館もある。ルネッサンスから20世紀まで、オランダに関連する多彩な文明の遺品が展示され、日本の仁王像や長崎出島の模型まで、目に飛び込んでくる。
なかでも眼目は、オランダ絵画の黄金期とされる17世紀の作品コレクションで、僕は初めて本物に接した。レンブラントの『夜警』は、壁一面を領する息を呑む大作で、見物の人だかりで込み合う。片隅からじっと眺めていると、光と影が微妙に交錯する、人間像と人間世界の透徹した描写には、神秘的なまでの精神性が迫ってくる。リアリズムを突き抜けた、崇高感に愽たれる。しばらく佇んだ。
フェルメールの『牛乳を注ぐ女』も良かった。彼女こそ名女優である。ざッと全階を観終わり、地上0階へ降りて、カフェで昼食。ハンバーガーを食べたが、充分過ぎる量だった。
午後から、後方の市立美術館へ廻る。ここには、多くのゴッホの作品が収蔵されていた。これも本物を見るのは初めてだ。『麦畑』『自画像』など、どれも素晴らしい。ゴッホは何を見てもいいな、と思う。名画が氾濫している。広重や英泉を模写した作もあり、通俗的な浮世絵の厚ぼったさが、把握されている。
館外へ出ると、晴れたが寒い。午後3時でも日照が弱く、北海からの風が冷たい。夏なのに、モスクワやレニングラードよりも寒冷だ。そこでトラムに乗り、中央駅近くの百貨店へ行き、長袖のブルゾンを一着買って、すぐに羽織る。店員との交渉もスムースで、身体が暖かくなり、店内の珈琲スタンドで喫茶。
ペンションへ帰り、自室で小休息する。暫くしてスーツに着替え、中央駅へ向かう。途中、小学生の女の子たちが赤い肩衣のような民俗衣装を着て、交通整理に協力する風景に出合う。金髪の子たちで、愛らしい。
中央駅の構内にあるレストランで夕食。コロッケと野菜を多めに注文。滞米数年のデザイナーの若尾真一郎が横浜の埠頭で、Γ哲ちゃん、向こうでは野菜を食べていれば、大丈夫だよ」と、忠告してくれたのを思い出す。
夕食後またトラムで、コンセルトヘボウへ。大きなメイン・ホールと小さなリサイタル・ホールがあり、今夜
8時から後者で、若い演奏家たちのリサイタルがある。前任指揮者エドワード・ヴァン・ベイヌムが作った教室の数人の若者が、ピアノ、ヴアイオリン、チェロ、フルートを独奏する。
入場すると、現地の観客は男女共に多くが礼装に近く、スーツを着ていて良かったと思った。ジーンズ姿のアメリカからの旅行者は、ここでは異端者になる。開演前、旅行者数名を大ホールに通して、見せてくれる。ロビーの壁画には、音楽家が描かれていた。小ホールに戻って着席すると、右隣の現地の中年の女性客から話しかけられる。「東京からですか。ベイヌムはご存じ?」「はい。日本人は彼を尊敬しています」と答えると、前列右側に座る老人の男性が立ち上がって振り返り、「有り難う」と一例したのには驚いて赤くなった。
名指揮者のクラスで鍛えられた若手だけに、いずれも演奏は充実。激しく鮮烈で、繊細にして爽やかな印象を残した。終演後に場外の人混みのなかで、日本人の女性客と、その友人とおぼしいオランダ人の女性客の若い一組に遭遇した。彼女は文学研究の留学生で、「若い演奏家たちが、音楽に打ち込む姿が素敵でした」と言い、東京では尾上松緑の弁慶が好きだったと、語った。
トラムの停留所まで一緒に歩き、そこで二人と別れた。夜11時、ペンションに帰着。
6月18日(金曜日) 雨 のち曇り 夕刻より再び雨 アムステルダム近郊
朝9時、ペンションを出る。中央駅の窓口で、東京で購入したユーレイルパスを提示、ブラッセルまでの特急TEEの指定券を貰う。近くのアメリカンエキスプレス社の前で、観光バスに乗車。10時、出発。
1時間ほどでスキポール空港のすぐ南にある、アルスメールの生花中央市場で下車。オランダは園芸大国で、アムステルダムの運河沿いに朝夕の花市が開かれるくらい、人びとの花づくりへの関心が高い。ここは世界最大の生花の取引所と言われ、入場すると規模広大、国花チューリップを初め、ありとあらゆる万花が並び置かれ、息を呑むばかり。花の匂いも強く立ち込め、むせ返るような空気だ。取引が成り立つと、直ちに空港に運ばれ、千束万束、遥か世界各国へ空輸されるわけである。
市場を一巡後、乗車して出発、デルフトへと向かう。約1時間の車中、見てきた花が目先にちらつく。ユーゴーかデュマか、確か『黒いチューリップ』というロマンチックな歴史小説があった筈。オスマン・トルコには"チューリップ時代"という一時期があった。と、あれこれ連想が浮かぶ。
デルフトは、青と白の陶器の産地として知られる。17世紀に描かれた、フェルメールの名画「デルフトの眺望」の制作地でもある。その時代の運河が観られ、味のある趣きの深い、小さな古い町の佇まいが好まれ、訪れる人が多いそうだ。デルフト陶器の制作工場の前で、バスが停車。
作業のコースを一巡した後、説明を聴く。"デルフト・ブルー"が、明の時代の陶磁器の藍色から影響を受け、繊細な絵柄が、日本の古伊万里や柿右衛門を学んだと知って、成る程なァと思った。バスの乗客のほとんどが、並んで土産のデルフト焼を買ったが、並ばなかった。陶器への関心が薄く、出費を控えたからだ。
20分少々で、ロッテルダムへ入る。オランダ第二の都市で産業中心、近代建築が目立つ。北海沿いの港に近い公園に建っている、ユーロマストという高さ185メートルの高塔を見物。ガラス張りのエレベーターで最高部で降りると、眼下のパノラマが絶景。船舶の往来や市街地すべてが遠望される。塔の中間にレストランがあり、昼食を摂る。肉料理が出されたが、量が凄い。欧米人の乗客は平らげている。
バスがロッテルダムを出ると、郊外で結婚式の一団と出会う。新郎と新婦が馬車に乗り、親戚と友人たちが前後を護って、教会まで行列して進む。近年の日本人の婚礼は簡略化したが、それより丁寧で古風である。
約30分後、デン・ハーグに到着。午後は、ここから。オランダ第三の都市、政治の中心地。700年以前からの歴史的な古都だが、こじんまりとした街全体が大きな公園に等しく、緑の樹間に宮殿、国会議事堂、政府機関、大使館、国際司法裁判所、教会、美術館などの、風格に富んだ端正な建物群が散在する。これらをゆっくりバスで一巡した後、大公園の一角にあるマドロゥダムで下車。
マドロゥダムは、オランダ国内の著名な建造物、城や宮殿、庁舎や駅舎、大学や病院、道路や橋、港や運河などを、それぞれ25分の1に縮小した模型群を、1ヘクタール未満の敷地一杯に並べた展示場。この"模型都市"は、デン・ハーグ観光の目玉とされる。高速道路の自動車の走行、港湾の船舶の出入り、サッカー場の試合の進行、当地名物の風車の回転まで、微に入り細に入って手に取るように再現され、思わず魅せられてしまう"可愛さ"がある。こうした模型都市の発想は、オランダのような一定規模の国から生まれ、ソ連のごとき巨大な領域からは生じないかも知れない…とさえ思った。
バスは、デン・ハーグ郊外の海のリゾートとして知られる、夏の観光地スへーフェニンゲンへ移動。昔の漁村が一変、今はホテルやレストランや遊技場が並び、カジノすらある。オランダ有数の日光浴の水泳場。この地帯は概して気候が寒冷なので、日光浴は大切な時間なのだ。乗客たちはカフェに誘導され、コーヒーを飲む。土産を買う客もいたが、買わなかった。
バスは帰路に転じたが、コースにオランダのシンボル、風車見物の時間が無かったのが、残念。観光した三つの街、デルフトもロッテルダムもデン・ハーグも、規模の大小の違いはあるが、何れも宮殿や教会や広場を中心にして拡がり、建物の新旧に自然な推移と調和があって、違和感が少ない。人びとの動きも、そうした自然な推移に溶け込んでいる。ソ連における新旧の建物には或る隔絶感があり、幾つか大建設工事が進行中だったが、道を行く市民の装いは質素だった。
夕刻のアムステルダムに入ると、運河の水に灯が映り、えもいわれぬ情緒を醸している。この街には、独特の色気がある。果物の熟れた匂いのような、退廃も潜む。ポルノ写真や映画の氾濫には呆れる。
5時40分、中央駅に帰着。昨日の構内のレストランで夕食。野菜サラダと魚。食後、両替所へ立ち寄り、所持金をベルギーの通貨に替える。構内を出て、煙草に火を点けようとすると、背後の赤煉瓦の壁に凭れていた若者が近付き、シュッとマッチを擦ってくれる。礼を言ったが、不思議な感覚。東京でもモスクワでも、経験していない。東洋人の旅行者だから……か。悪い気はしない。
夜8時、ペンションに帰着。
6月19日(土曜日) 雨のち曇り アムステルダムーブリュッセル
朝8時40分、ペンション「ベルネックス」を立つ。アムステルダム中央駅には改札が無いので、ホームに直行。10時17分発のTEE で、ブリュッセルへ。TEE は、東海道新幹線ほどの先端的速度を持たず、数輌の車体はどっしりと重く、一等車と二等車の質的な差異も、ほとんど感じられない。ボーイが昼食を訊きに来て、届けられたボックスランチを食べる。12時50分、ブリュッセルの中央駅に到着。
駅の構内は分かり難く、改札口もあり、パスポートやユーレイルパスを呈示する。改札を出ると、人混み
から離れた場所に一人、16、7歳の少年が立っている。「グラン・プラスは、何処ですか?⌋と、訊ねてみた。ブリュッセルの中心地の広場で、近くの市庁舎にある観光案内所へ、先ず行きたい。が、英語が通じない。当地の公用語はフランス語だった。「グラン・プラス、グラン・プラス」と繰り返すと、彼は微笑み、向こうを指差した。「観光案内所へ行きたい」と言うと、彼は「OK !」と答え、何と僕の手荷物を持ってくれた。僕がスーツケースを抱えて従い、彼の先導で5、6分歩くと、直ぐに大きな広場へ出た。そして、その
一隅にある市庁舎前まで連れて行ってくれた。何度も感謝の言葉を口にして別れたが、親切が身に沁みた。
観光案内所は、市庁舎の一階にあった。だが、ここでも英語が通じない。やっと当地3泊のペンションが見つかり、翌日のベルギー北西部への観光バスも予約できた。
乗り場からタクシー利用で、さほどの距離ではなかったが、ブリュッセル北駅付近のペンション「リンボウ」へ。市街地を囲む環状線の高速道路の傍にあり、北駅の周辺は風紀や治安が悪いと、ガイドブックにあったのを思い出す。マダムは好人物らしくニコニコと対応、鍵を渡してくれると、食堂のテーブルに戻り、夫婦でトランプ遊びを続ける始末。部屋は暗く、窓を開けると高速道路が見え、ここでも机や椅子の手触りがベトつく。やれやれ、である。が、シーツは洗濯されて白く、寝具だけは清潔。まだ昼下がりなので、外出する。
タクシーで来た道筋を逆に歩き出したが、横浜出港後10日ともなると疲労感があり、市街の風景に反応する感受力が鈍い。いつか先刻の広場のグラン・プラスへ出た。広場の周囲にはぐるりと、博物館・組合・取引所・邸宅、レストラン・カフェ・酒屋・チョコレート屋・レース屋など、すべて由緒ある歴史的な建物が建ち並ぶ。が、こちらが不感症気味なので、すべて"猫に小判"である。ユーゴーが捧げた、"世界で最も美しい広場"という賛辞も、赤ゲットの東洋人には身に沁みない。
広場に沿った、昨日の市庁舎の角を曲がった通りの奥に、名高い"小便小僧"の像が鎮座していた。周辺は土産物の店が並び、観光客も目立つ。ブリュッセル市民の郷土愛の歴史が、この像を無くてはならないものにしたが、外国人には共有する愛着は薄い。ファンが小僧に着せた、赤いチョッキが可愛かった。
この通りを引き返すと、市庁舎の近くにアミーゴというホテルがあった。アミーゴとは、友達を指すようだ。
19世紀には監獄で、ほぼ100年以前、詩人ヴェルレーヌが友人ランボーに発砲、数年の間、獄中生活を送った。「ここだったのか…」と、眠気が覚めた状態になる。とすれば、詩集『叡智』の中にある、あの絶唱
空は屋根の彼方で
あんなに青く、あんなに静かに、
樹は屋根の彼方で
枝を揺るがす。
鐘はあすこの空で、
やさしく鳴る。
鳥はあすこの樹で、
悲しく歌う。
ああ神様、これが人生です、
卑(つつま)しく静かです。
あの平和な物音は
街から来ます。
ーどうしたのだ? お前は又、
涙ばかり流して?
さあ、一体どうしたのだ、
お前の青春は?
(河上徹太郎 訳)
は、ここでの入獄中に書かれたことになる。荻窪の井伏先生が、「ああいう時に、ヴェルレーヌの最もいいものが生まれたんだ」と、呟いていたな……。
あれこれの想いに耽るうちに、いつかペンションの近くまで戻っていた。ヨーロッパの都市、レニングラードもアムステルダムもブリュッセルも、現在の東京のような、爆発的な交通渋滞は見られない。表通りから脇道に入ると人影が少なく、夕暮れは淋しい。と向こうから、一人の長身の瀟洒な身なりの青年が、大きな犬を連れて散歩して来るのに出逢った。北駅までの道筋が分からなかったので、思わず呼び止めて訊ねると、彼は「ウイ」と答え、後は英語で丁寧に教えてくれた。繰り返し礼を言って別れたが、彼は別れ際に良質の強い石鹸の匂いを残した。日本では経験しない類いの匂いで、ペンションの洗面の石鹸も強いが、食べ物や体臭のためかと、ふと思った。彼が残した上等な石鹸の匂いに、僕は強烈に「西洋」を感じた。
北駅の周辺は、雑然たる裏町ムードである。安価で便利な飲食店が並び、夕食に不自由はない。ガラス張りの陳列棚に置かれた食べ物を、自由に選んで席に運ぶ軽レストランへ入り、野菜と魚介類とビールを少量。辺りの席では現地の女性客たちが、盛んにビールを飲み交わしている。中年の女が若い男に、金を押し付けている光景も目に飛び込む。この季節のブリュッセルは、夜8時頃に日没。暗くならぬうちに、ペンションに帰る。
6月20日(日曜日) 雨のち曇り 夕刻より再び雨 ベルギー北西部
北駅で中央駅から来る観光バスを待ち、朝9時に出発。運転手に「イタリア人か」と問われ困惑、かつ苦笑。中部ヨーロッパの人々には、イタリア人が概して背が低く見えるからだろう。
車窓に展開するフランダースの田園風景を、うつらうつらと過ごす。この日は、戦死した亡父の命日。28歳だったから、ちょうど僕の歳。と考え込むうちに、1時間余りで東フランドル州の中心都市ゲントへ着く。
市庁舎近くで停車。現在は産業都市に変化しているが、旧市街の中心地には歴史的な建物が多く、中世の面影
を残している。徒歩で、聖バーフ大聖堂を訪れる。ここでは15世紀の前半、ファン・アイク兄弟が制作した祭壇画『神秘の仔羊』が、必見の傑作とされる。ところが、日曜日のため祭壇画の公開は午後からで、聖堂前でガイドの説明を聴いただけで引き返し、近隣の聖ニコラス教会へ移動。
場内に入ると、日曜日のミサが催され、讃美歌が流れる厳粛なムード。頭上高くステンドグラスが煌めき、入場者は脱帽。ソ連では宮殿建築を観たが、ヨーロッパの教会内部の森厳な空気に触れるのは、初めてだった。教会の近くに、枯木な雰囲気の地下喫茶があり、コーヒーを飲んで休憩。
およそ50分で、西フランドル州のブルージュに到着。"水の都"として知られ、中世そのままの雰囲気を遺す、ベルギー有数の観光地。先ず、レースセンターへ行く。近くの運河の傍に修道院があり、古くから修道女たちが、仕事としてレースを編んで来た歴史がある。そのレース編みの実際の風景が、ここで観られた。掲示された古い記録写真には、老修道女たちの慎ましやかな、ひっそりとした作業が写されていたが、現在では10代の少年少女から、80代までの老若男女がレース編みに挑戦、当地の産業振興の一助になっている。
何と言っても、ここでは市内を幾筋にも流れる、運河の風景が素晴らしい。50に余る、さまざまな形の橋が架かっているそうだが、その下を行き交う舟と舟の出会いが、いかにも幸福そうである。清らかな風がそよぎ、スワンが遊ぶ。日本の水郷と言えば、潮来や柳川だが、そこには稲作地帯の長閑(のどか)さがあるのに対し、ブルージュは牧草地帯の清澄な水の景観である。
市の中心地のマクルト広場にある、気軽に入れるレストランで昼食。フランス料理をベルギー風に味つけした肉料理。同席の観光客があった。イスラエルから旅してきた中年の夫婦。僕を日本人と知ってか、日本の経済成長を持ち上げ、テレビやカメラの優秀さを誉めちぎる。4年後、日本への旅行を計画中とか。僕は思わず、「でも、日本は小さな国です」と答えた。と夫婦は目を丸くして、「ノー、日本は大きな国!」と言い返した。
戦争に負けたんだ、大きな国かなァ……。
昼食後は自由時間で、広場に隣接する繁華街を散策。レース用品、ゴブラン織り、宝石、チョコレート、食器、ビールなどの名店が並ぶが、覗くだけで勿論、買わない。
午後は、広場の南方にある聖母教会を訪れた。内部は、実に荘厳な空気。但し、密教的で暗い。ミケランジェロ作の『聖母子像』やパイプオルガンなど、観るものが多い。中庭には、赤と白のバラが咲き、気高い。
バスで2時間をかけて、夕刻6時にブリュッセルへ帰着。ブルージュとは対照的に、北駅付近は環境が劣悪。いわゆる与太者が多く、昼夜問わず賭け事に夢中の男たちの姿も目に入る。通りには、刺激的な異臭がある。
ラテン系とゲルマン系の狭間にあるせいか、パリの裏玄関という感じもあって、アムステルダムよりもブリュッセルには、雑然たる人間臭の重い澱(おり)のようなものが感じられる。
昨夜の軽レストランで、野菜を多く摂取し、ペンションへ帰る。
写真は、亡母の遺品の絵葉書2枚。アムステルダムの運河 ブリュッセルのグラン・プラス


一泊13ギルダー(1200円)でも、朝食付き。階下の食事ルームへ行く。と言っても、パンとバターにジャム、珈琲とミルクだけの簡素さ。が、このパンが、モスクワのホテルで出た黒パンよりも、柔らかくて旨い。朝食後、郷里の母に絵はがきを書く。僕の一日の予算は、交通費と宿泊費と食費を除き、僅か雑費は15ドル(
約5500円)である。今夜のコンセルトヘボウのコンサートに行くか迷ったが、場内を観たいので、行くことに決めた。1888年落成の音楽堂は、立派な建物である。
9時半、王宮前の観光案内所VVVで、翌朝出発の観光バスの席を予約する。コースは、アムステルダム近郊の南部地域を巡る。王宮前からトラムでコンセルトヘボウへ行き、今夜のコンサートのチケットを購入。
そこから徒歩で、近隣地域にある国立ミュージアムへ移動。19世紀末、中央駅と同じ頃に建てられた建物は、ヨーロッパ最初のミュージアムと言われ、建築も美しく、館内は窓が多く明るい。地上0階から3階まで設備が充実、図書館もある。ルネッサンスから20世紀まで、オランダに関連する多彩な文明の遺品が展示され、日本の仁王像や長崎出島の模型まで、目に飛び込んでくる。
なかでも眼目は、オランダ絵画の黄金期とされる17世紀の作品コレクションで、僕は初めて本物に接した。レンブラントの『夜警』は、壁一面を領する息を呑む大作で、見物の人だかりで込み合う。片隅からじっと眺めていると、光と影が微妙に交錯する、人間像と人間世界の透徹した描写には、神秘的なまでの精神性が迫ってくる。リアリズムを突き抜けた、崇高感に愽たれる。しばらく佇んだ。
フェルメールの『牛乳を注ぐ女』も良かった。彼女こそ名女優である。ざッと全階を観終わり、地上0階へ降りて、カフェで昼食。ハンバーガーを食べたが、充分過ぎる量だった。
午後から、後方の市立美術館へ廻る。ここには、多くのゴッホの作品が収蔵されていた。これも本物を見るのは初めてだ。『麦畑』『自画像』など、どれも素晴らしい。ゴッホは何を見てもいいな、と思う。名画が氾濫している。広重や英泉を模写した作もあり、通俗的な浮世絵の厚ぼったさが、把握されている。
館外へ出ると、晴れたが寒い。午後3時でも日照が弱く、北海からの風が冷たい。夏なのに、モスクワやレニングラードよりも寒冷だ。そこでトラムに乗り、中央駅近くの百貨店へ行き、長袖のブルゾンを一着買って、すぐに羽織る。店員との交渉もスムースで、身体が暖かくなり、店内の珈琲スタンドで喫茶。
ペンションへ帰り、自室で小休息する。暫くしてスーツに着替え、中央駅へ向かう。途中、小学生の女の子たちが赤い肩衣のような民俗衣装を着て、交通整理に協力する風景に出合う。金髪の子たちで、愛らしい。
中央駅の構内にあるレストランで夕食。コロッケと野菜を多めに注文。滞米数年のデザイナーの若尾真一郎が横浜の埠頭で、Γ哲ちゃん、向こうでは野菜を食べていれば、大丈夫だよ」と、忠告してくれたのを思い出す。
夕食後またトラムで、コンセルトヘボウへ。大きなメイン・ホールと小さなリサイタル・ホールがあり、今夜
8時から後者で、若い演奏家たちのリサイタルがある。前任指揮者エドワード・ヴァン・ベイヌムが作った教室の数人の若者が、ピアノ、ヴアイオリン、チェロ、フルートを独奏する。
入場すると、現地の観客は男女共に多くが礼装に近く、スーツを着ていて良かったと思った。ジーンズ姿のアメリカからの旅行者は、ここでは異端者になる。開演前、旅行者数名を大ホールに通して、見せてくれる。ロビーの壁画には、音楽家が描かれていた。小ホールに戻って着席すると、右隣の現地の中年の女性客から話しかけられる。「東京からですか。ベイヌムはご存じ?」「はい。日本人は彼を尊敬しています」と答えると、前列右側に座る老人の男性が立ち上がって振り返り、「有り難う」と一例したのには驚いて赤くなった。
名指揮者のクラスで鍛えられた若手だけに、いずれも演奏は充実。激しく鮮烈で、繊細にして爽やかな印象を残した。終演後に場外の人混みのなかで、日本人の女性客と、その友人とおぼしいオランダ人の女性客の若い一組に遭遇した。彼女は文学研究の留学生で、「若い演奏家たちが、音楽に打ち込む姿が素敵でした」と言い、東京では尾上松緑の弁慶が好きだったと、語った。
トラムの停留所まで一緒に歩き、そこで二人と別れた。夜11時、ペンションに帰着。
6月18日(金曜日) 雨 のち曇り 夕刻より再び雨 アムステルダム近郊
朝9時、ペンションを出る。中央駅の窓口で、東京で購入したユーレイルパスを提示、ブラッセルまでの特急TEEの指定券を貰う。近くのアメリカンエキスプレス社の前で、観光バスに乗車。10時、出発。
1時間ほどでスキポール空港のすぐ南にある、アルスメールの生花中央市場で下車。オランダは園芸大国で、アムステルダムの運河沿いに朝夕の花市が開かれるくらい、人びとの花づくりへの関心が高い。ここは世界最大の生花の取引所と言われ、入場すると規模広大、国花チューリップを初め、ありとあらゆる万花が並び置かれ、息を呑むばかり。花の匂いも強く立ち込め、むせ返るような空気だ。取引が成り立つと、直ちに空港に運ばれ、千束万束、遥か世界各国へ空輸されるわけである。
市場を一巡後、乗車して出発、デルフトへと向かう。約1時間の車中、見てきた花が目先にちらつく。ユーゴーかデュマか、確か『黒いチューリップ』というロマンチックな歴史小説があった筈。オスマン・トルコには"チューリップ時代"という一時期があった。と、あれこれ連想が浮かぶ。
デルフトは、青と白の陶器の産地として知られる。17世紀に描かれた、フェルメールの名画「デルフトの眺望」の制作地でもある。その時代の運河が観られ、味のある趣きの深い、小さな古い町の佇まいが好まれ、訪れる人が多いそうだ。デルフト陶器の制作工場の前で、バスが停車。
作業のコースを一巡した後、説明を聴く。"デルフト・ブルー"が、明の時代の陶磁器の藍色から影響を受け、繊細な絵柄が、日本の古伊万里や柿右衛門を学んだと知って、成る程なァと思った。バスの乗客のほとんどが、並んで土産のデルフト焼を買ったが、並ばなかった。陶器への関心が薄く、出費を控えたからだ。
20分少々で、ロッテルダムへ入る。オランダ第二の都市で産業中心、近代建築が目立つ。北海沿いの港に近い公園に建っている、ユーロマストという高さ185メートルの高塔を見物。ガラス張りのエレベーターで最高部で降りると、眼下のパノラマが絶景。船舶の往来や市街地すべてが遠望される。塔の中間にレストランがあり、昼食を摂る。肉料理が出されたが、量が凄い。欧米人の乗客は平らげている。
バスがロッテルダムを出ると、郊外で結婚式の一団と出会う。新郎と新婦が馬車に乗り、親戚と友人たちが前後を護って、教会まで行列して進む。近年の日本人の婚礼は簡略化したが、それより丁寧で古風である。
約30分後、デン・ハーグに到着。午後は、ここから。オランダ第三の都市、政治の中心地。700年以前からの歴史的な古都だが、こじんまりとした街全体が大きな公園に等しく、緑の樹間に宮殿、国会議事堂、政府機関、大使館、国際司法裁判所、教会、美術館などの、風格に富んだ端正な建物群が散在する。これらをゆっくりバスで一巡した後、大公園の一角にあるマドロゥダムで下車。
マドロゥダムは、オランダ国内の著名な建造物、城や宮殿、庁舎や駅舎、大学や病院、道路や橋、港や運河などを、それぞれ25分の1に縮小した模型群を、1ヘクタール未満の敷地一杯に並べた展示場。この"模型都市"は、デン・ハーグ観光の目玉とされる。高速道路の自動車の走行、港湾の船舶の出入り、サッカー場の試合の進行、当地名物の風車の回転まで、微に入り細に入って手に取るように再現され、思わず魅せられてしまう"可愛さ"がある。こうした模型都市の発想は、オランダのような一定規模の国から生まれ、ソ連のごとき巨大な領域からは生じないかも知れない…とさえ思った。
バスは、デン・ハーグ郊外の海のリゾートとして知られる、夏の観光地スへーフェニンゲンへ移動。昔の漁村が一変、今はホテルやレストランや遊技場が並び、カジノすらある。オランダ有数の日光浴の水泳場。この地帯は概して気候が寒冷なので、日光浴は大切な時間なのだ。乗客たちはカフェに誘導され、コーヒーを飲む。土産を買う客もいたが、買わなかった。
バスは帰路に転じたが、コースにオランダのシンボル、風車見物の時間が無かったのが、残念。観光した三つの街、デルフトもロッテルダムもデン・ハーグも、規模の大小の違いはあるが、何れも宮殿や教会や広場を中心にして拡がり、建物の新旧に自然な推移と調和があって、違和感が少ない。人びとの動きも、そうした自然な推移に溶け込んでいる。ソ連における新旧の建物には或る隔絶感があり、幾つか大建設工事が進行中だったが、道を行く市民の装いは質素だった。
夕刻のアムステルダムに入ると、運河の水に灯が映り、えもいわれぬ情緒を醸している。この街には、独特の色気がある。果物の熟れた匂いのような、退廃も潜む。ポルノ写真や映画の氾濫には呆れる。
5時40分、中央駅に帰着。昨日の構内のレストランで夕食。野菜サラダと魚。食後、両替所へ立ち寄り、所持金をベルギーの通貨に替える。構内を出て、煙草に火を点けようとすると、背後の赤煉瓦の壁に凭れていた若者が近付き、シュッとマッチを擦ってくれる。礼を言ったが、不思議な感覚。東京でもモスクワでも、経験していない。東洋人の旅行者だから……か。悪い気はしない。
夜8時、ペンションに帰着。
6月19日(土曜日) 雨のち曇り アムステルダムーブリュッセル
朝8時40分、ペンション「ベルネックス」を立つ。アムステルダム中央駅には改札が無いので、ホームに直行。10時17分発のTEE で、ブリュッセルへ。TEE は、東海道新幹線ほどの先端的速度を持たず、数輌の車体はどっしりと重く、一等車と二等車の質的な差異も、ほとんど感じられない。ボーイが昼食を訊きに来て、届けられたボックスランチを食べる。12時50分、ブリュッセルの中央駅に到着。
駅の構内は分かり難く、改札口もあり、パスポートやユーレイルパスを呈示する。改札を出ると、人混み
から離れた場所に一人、16、7歳の少年が立っている。「グラン・プラスは、何処ですか?⌋と、訊ねてみた。ブリュッセルの中心地の広場で、近くの市庁舎にある観光案内所へ、先ず行きたい。が、英語が通じない。当地の公用語はフランス語だった。「グラン・プラス、グラン・プラス」と繰り返すと、彼は微笑み、向こうを指差した。「観光案内所へ行きたい」と言うと、彼は「OK !」と答え、何と僕の手荷物を持ってくれた。僕がスーツケースを抱えて従い、彼の先導で5、6分歩くと、直ぐに大きな広場へ出た。そして、その
一隅にある市庁舎前まで連れて行ってくれた。何度も感謝の言葉を口にして別れたが、親切が身に沁みた。
観光案内所は、市庁舎の一階にあった。だが、ここでも英語が通じない。やっと当地3泊のペンションが見つかり、翌日のベルギー北西部への観光バスも予約できた。
乗り場からタクシー利用で、さほどの距離ではなかったが、ブリュッセル北駅付近のペンション「リンボウ」へ。市街地を囲む環状線の高速道路の傍にあり、北駅の周辺は風紀や治安が悪いと、ガイドブックにあったのを思い出す。マダムは好人物らしくニコニコと対応、鍵を渡してくれると、食堂のテーブルに戻り、夫婦でトランプ遊びを続ける始末。部屋は暗く、窓を開けると高速道路が見え、ここでも机や椅子の手触りがベトつく。やれやれ、である。が、シーツは洗濯されて白く、寝具だけは清潔。まだ昼下がりなので、外出する。
タクシーで来た道筋を逆に歩き出したが、横浜出港後10日ともなると疲労感があり、市街の風景に反応する感受力が鈍い。いつか先刻の広場のグラン・プラスへ出た。広場の周囲にはぐるりと、博物館・組合・取引所・邸宅、レストラン・カフェ・酒屋・チョコレート屋・レース屋など、すべて由緒ある歴史的な建物が建ち並ぶ。が、こちらが不感症気味なので、すべて"猫に小判"である。ユーゴーが捧げた、"世界で最も美しい広場"という賛辞も、赤ゲットの東洋人には身に沁みない。
広場に沿った、昨日の市庁舎の角を曲がった通りの奥に、名高い"小便小僧"の像が鎮座していた。周辺は土産物の店が並び、観光客も目立つ。ブリュッセル市民の郷土愛の歴史が、この像を無くてはならないものにしたが、外国人には共有する愛着は薄い。ファンが小僧に着せた、赤いチョッキが可愛かった。
この通りを引き返すと、市庁舎の近くにアミーゴというホテルがあった。アミーゴとは、友達を指すようだ。
19世紀には監獄で、ほぼ100年以前、詩人ヴェルレーヌが友人ランボーに発砲、数年の間、獄中生活を送った。「ここだったのか…」と、眠気が覚めた状態になる。とすれば、詩集『叡智』の中にある、あの絶唱
空は屋根の彼方で
あんなに青く、あんなに静かに、
樹は屋根の彼方で
枝を揺るがす。
鐘はあすこの空で、
やさしく鳴る。
鳥はあすこの樹で、
悲しく歌う。
ああ神様、これが人生です、
卑(つつま)しく静かです。
あの平和な物音は
街から来ます。
ーどうしたのだ? お前は又、
涙ばかり流して?
さあ、一体どうしたのだ、
お前の青春は?
(河上徹太郎 訳)
は、ここでの入獄中に書かれたことになる。荻窪の井伏先生が、「ああいう時に、ヴェルレーヌの最もいいものが生まれたんだ」と、呟いていたな……。
あれこれの想いに耽るうちに、いつかペンションの近くまで戻っていた。ヨーロッパの都市、レニングラードもアムステルダムもブリュッセルも、現在の東京のような、爆発的な交通渋滞は見られない。表通りから脇道に入ると人影が少なく、夕暮れは淋しい。と向こうから、一人の長身の瀟洒な身なりの青年が、大きな犬を連れて散歩して来るのに出逢った。北駅までの道筋が分からなかったので、思わず呼び止めて訊ねると、彼は「ウイ」と答え、後は英語で丁寧に教えてくれた。繰り返し礼を言って別れたが、彼は別れ際に良質の強い石鹸の匂いを残した。日本では経験しない類いの匂いで、ペンションの洗面の石鹸も強いが、食べ物や体臭のためかと、ふと思った。彼が残した上等な石鹸の匂いに、僕は強烈に「西洋」を感じた。
北駅の周辺は、雑然たる裏町ムードである。安価で便利な飲食店が並び、夕食に不自由はない。ガラス張りの陳列棚に置かれた食べ物を、自由に選んで席に運ぶ軽レストランへ入り、野菜と魚介類とビールを少量。辺りの席では現地の女性客たちが、盛んにビールを飲み交わしている。中年の女が若い男に、金を押し付けている光景も目に飛び込む。この季節のブリュッセルは、夜8時頃に日没。暗くならぬうちに、ペンションに帰る。
6月20日(日曜日) 雨のち曇り 夕刻より再び雨 ベルギー北西部
北駅で中央駅から来る観光バスを待ち、朝9時に出発。運転手に「イタリア人か」と問われ困惑、かつ苦笑。中部ヨーロッパの人々には、イタリア人が概して背が低く見えるからだろう。
車窓に展開するフランダースの田園風景を、うつらうつらと過ごす。この日は、戦死した亡父の命日。28歳だったから、ちょうど僕の歳。と考え込むうちに、1時間余りで東フランドル州の中心都市ゲントへ着く。
市庁舎近くで停車。現在は産業都市に変化しているが、旧市街の中心地には歴史的な建物が多く、中世の面影
を残している。徒歩で、聖バーフ大聖堂を訪れる。ここでは15世紀の前半、ファン・アイク兄弟が制作した祭壇画『神秘の仔羊』が、必見の傑作とされる。ところが、日曜日のため祭壇画の公開は午後からで、聖堂前でガイドの説明を聴いただけで引き返し、近隣の聖ニコラス教会へ移動。
場内に入ると、日曜日のミサが催され、讃美歌が流れる厳粛なムード。頭上高くステンドグラスが煌めき、入場者は脱帽。ソ連では宮殿建築を観たが、ヨーロッパの教会内部の森厳な空気に触れるのは、初めてだった。教会の近くに、枯木な雰囲気の地下喫茶があり、コーヒーを飲んで休憩。
およそ50分で、西フランドル州のブルージュに到着。"水の都"として知られ、中世そのままの雰囲気を遺す、ベルギー有数の観光地。先ず、レースセンターへ行く。近くの運河の傍に修道院があり、古くから修道女たちが、仕事としてレースを編んで来た歴史がある。そのレース編みの実際の風景が、ここで観られた。掲示された古い記録写真には、老修道女たちの慎ましやかな、ひっそりとした作業が写されていたが、現在では10代の少年少女から、80代までの老若男女がレース編みに挑戦、当地の産業振興の一助になっている。
何と言っても、ここでは市内を幾筋にも流れる、運河の風景が素晴らしい。50に余る、さまざまな形の橋が架かっているそうだが、その下を行き交う舟と舟の出会いが、いかにも幸福そうである。清らかな風がそよぎ、スワンが遊ぶ。日本の水郷と言えば、潮来や柳川だが、そこには稲作地帯の長閑(のどか)さがあるのに対し、ブルージュは牧草地帯の清澄な水の景観である。
市の中心地のマクルト広場にある、気軽に入れるレストランで昼食。フランス料理をベルギー風に味つけした肉料理。同席の観光客があった。イスラエルから旅してきた中年の夫婦。僕を日本人と知ってか、日本の経済成長を持ち上げ、テレビやカメラの優秀さを誉めちぎる。4年後、日本への旅行を計画中とか。僕は思わず、「でも、日本は小さな国です」と答えた。と夫婦は目を丸くして、「ノー、日本は大きな国!」と言い返した。
戦争に負けたんだ、大きな国かなァ……。
昼食後は自由時間で、広場に隣接する繁華街を散策。レース用品、ゴブラン織り、宝石、チョコレート、食器、ビールなどの名店が並ぶが、覗くだけで勿論、買わない。
午後は、広場の南方にある聖母教会を訪れた。内部は、実に荘厳な空気。但し、密教的で暗い。ミケランジェロ作の『聖母子像』やパイプオルガンなど、観るものが多い。中庭には、赤と白のバラが咲き、気高い。
バスで2時間をかけて、夕刻6時にブリュッセルへ帰着。ブルージュとは対照的に、北駅付近は環境が劣悪。いわゆる与太者が多く、昼夜問わず賭け事に夢中の男たちの姿も目に入る。通りには、刺激的な異臭がある。
ラテン系とゲルマン系の狭間にあるせいか、パリの裏玄関という感じもあって、アムステルダムよりもブリュッセルには、雑然たる人間臭の重い澱(おり)のようなものが感じられる。
昨夜の軽レストランで、野菜を多く摂取し、ペンションへ帰る。
写真は、亡母の遺品の絵葉書2枚。アムステルダムの運河 ブリュッセルのグラン・プラス

