胡児(こじ)の泉●1971年・西方旅行記ー噴水と広場の国々 第8回

★レニングラード(続き)

6月15日(火曜日)快晴
7時半、朝食を摂るべく部屋を出る。
アストリア・ホテル各階のエレベーターの昇降口には、その一隅に木製のデスクが置かれ、中年の女性従業員ひとりが坐っている。宿泊客の出入りをチェックし、部屋の鍵を預かり、質問に答える。
僕が「ドーブラェ ウートラ(おはよう!)」と挨拶して、鍵を渡すと、彼女は「ダー(はい)」と言って受け取り、僕が持っている手提げ鞄を見詰めた。
そして指先を伸ばして表面を撫で、にっこりと微笑んだ。日本製の変哲もない品物だが、御当地では珍しかったようだ。
ソ連は天然資源は豊富だが、製品の輸出入の割合が低い、今なお経済途上国なのである。

階下の朝食の席で、すでにモスクワのホテルで遇っている、オレゴン大学の学生リビーと再会。
昨夜遅く当地へ着き、二泊して明晩には、ロンドン経由で帰国のよし。秋からハーバード大学院で、さらに日本史研究を進めるとか。ー
朝食後、市内一巡の観光バスの出発まで時間があり、ホテル前のイサク広場、その中心に建つニコライ一世の馬上像、広場の向こうに聳えるイサク聖堂の周辺を、ひとりで散策する。
快晴の夏空の下、高さ百メートル超の聖堂の頂きは金色のドームで光り、収容人数一万四千の大建築を遠望すると、必ずしも印象は明るくない。乗馬の皇帝像の厳めしさも加わり、この広場全体に何がなし暗鬱な雰囲気がある。
宗教色に包まれた、万を数える“祈る”人々が集う区域には、静閑な広場が必要になる。巨大な寺院や教会や聖堂の前には、必ず広場が設けられている。
日本にも寺社の周囲や、大橋の袂(たもと)や河原には、古くから広場のような空間が生まれ、祭礼や商いや芸能の場になった。宗教が“広場”を生むことは、東西共通の現象だろう。

そんなことを考えながらホテルへ戻り、10時40分発の市内遊覧バスに乗車。参加者は十数名で、リビーが同乗していたので、傍の席に坐る。
二時間に焦点を絞ったスタンダードなバス観光で、肩の凝らない気軽なドライブと言ったところ。若い男性ガイドの英語説明も、事務的で簡単。
最初に停車したのが、冬宮の前にある宮殿広場。モスクワの赤の広場と並ぶ、この国の歴史的な顔だ。中央には、高さ約四十八メートルのアレクサンドルの円柱が屹立する。
1905年(明治38)1月、労働者が請願のため冬宮に行進、この広場で軍隊が発砲する“血の日曜日事件”が起こった。
古代ローマのフォロやバジリカが起源となり、ヨーロッパ諸都市の政治・経済の要所には、必ず公共の広場が存在する。王政下の宮殿前の広場にも、民衆を受容するデモクラディックな公共性があるだろう。
ヨーロッパの歴史は、ひと口に言って“広場の歴史”で、フランス革命もロシア革命も広場から生まれた。日本に広場が設けられ、噴水が造られるのは明治以降の近代で、それ以前の江戸城や北京の紫禁城に、公共的な大空間があったとは考えにくいのである。

すぐにバスは移動して、宮殿広場の近くにあるプーシキンの家博物館で下車。
ところが、ここは火曜日が休館日で、館内には入れない。他に代替の場所は無かったのか、ソ連の観光行政は不適切だ。
1837年1月、三十七歳の詩人プーシキンが決闘で負傷、数日後に息を引き取った臨終の部屋が、当時そのまま館内に残されていて、国民的な人気を集める観光スポットとなっている。
仕方がないから、われわれは前庭を散歩したり、ベンチに坐って喫煙する者もいて、やがて出発。

ネヴァ川を左岸から右岸へと渡る。18世紀初めのサンクトペテルブルクの都市造成は、まず右岸から始まったという。
トロイツキー橋から、川の中の島を軍事化したペトロパヴロフスク要塞を一望。要塞の背後にあるアレクサンドロフスキー公園の周囲を巡った後、バスは公園の近くの革命博物館で停車。
ここは今世紀初頭に、アールヌーヴォー様式の邸宅として建てられたが、1917年の二月革命勃発時にロシア社会民主労働党とボリシェビキの本部となり、そのゆかりで二次大戦後には革命博物館へ転身した。
館内には、ロシア革命史にまつわる政治・社会関係の諸資料が展示され、二階にレーニンが使用した部屋が再現されている。“レーニン博物館”と別称されるゆえんだ。
ガイドの革命プロパガンダの説明がくどくて、四十分余りの見学が長く感じられる。が、この博物館は、市内観光では必須のコースらしい。
バスは再び移動して、河岸通りを走る。ネヴァ川と大ネフカ川とが合流する地点に繋留された、巡洋艦オーロラの威圧的な姿が窓越しに見える。ロシア十月革命の開始を告げるべく、この艦上から冬宮に向けて発砲した事実で知られる。
ガイドの案内は革命史話だけだったが、臨席にいる日本史研究の学生リビーが、僕に補足説明をしてくれた。
「オーロラ号は、バルチック艦隊の軍艦の一つです。日露戦争の時は日本海海戦に参加し、舷側に大穴を開けられ、修復には時間が掛かりました」
「日本海軍は優秀でした。イギリス海軍が日本海軍を育てました」
僕は、リビー君の親切なコメントに謝意を表した。

ホテルに帰り、すぐに13時から一階のレストランで昼食。市街が快晴だったので、ホテルの照明が暗く感じられる。
藤倉氏とリビー君と僕、三人で食卓を囲んだ。
リビーが、「空港も、ホテルも、博物館も、雰囲気がカタイです。ソ連に来て、カタが痛くなりました。皆がカタ苦しい」と言って、僕たちを笑わせた。無口な若者なのに、ユーモアがある。
藤倉先生は、「経済の全体的なレベルを上げるには、共産体制のほうが効力が速い。ですが、その後に社会的な停滞が起こるんです」と、学者らしいことを仰有る。
僕は、黙って聴き入りながら、大きなピローク(ロシア風のパイ)を食べた。
藤倉氏は午後、僕と一緒にエルミタージュ美術館を訪れ、夜にモスクワ経由で帰国。リビーは、午後にロドヴァリェーツ、明日はエルミタージュを見物し、その夜にロンドンへ飛ぶ。僕も明朝、当地を発ってアムステルダムへ向かう。
昼食後、三人は別れの言葉を交わし、僕はリビー君と握手して、再会を約した。

14時半、ホテルを出て、徒歩でエルミタージュ美術館へ向かう。同行は各国からの旅行者十四・五名。日本人は藤倉氏と僕。現地の“ニコライ”という初老の男性が、ガイドとして加わり先導。
二十分ほどで宮殿広場に着き、その一隅にあるツーリスト・インフォメーションの前へ集合。案内人のニコライ氏から、まず冬宮の建設と美術館の成立についての歴史が、英語で簡単に説明された後、館内のあらましが紹介される。
彼氏いわく、「このエルミタージュは、世界の四大美術館の一つです。美術品の収蔵は三百万点、すべての展示室を歩くと、約二十キロメートルになります。とても数時間で全部は見られないので、今日は主要な部屋へ案内し、主要な絵画だけ見て貰います。興味が有る人は、帰りに売店でガイド・ブックを買ってから、皆さん、ここへ17時に、また集まりましょう!」
と、彼氏は突然、たどたどしい日本語で喋りだした。「エルミタージュの見物、西洋の人は二時間歩けます。東洋の人は、一時間半歩くと草臥れる。ですから今日は一時間半歩いて、残りの三十分は自由にします」と言って、悪戯ッ児のように笑った。ロシア人にしては小柄だが、ニコライさんは愛敬がある。
僕が「日本語は何処で習いましたか?」と訊くと、「領事館です。日本からの旅行者が急に増えたので、日本語が話せる現地のロシア人が必要になった。領事館の人たちが熱心に教えてくれた。授業料はタダで、ガイドの仕事もくれた」と答えて、また笑った。堅苦しいロシア人が多いのに、彼は何か楽しそうだ。

僕たちはニコライさんに引率され、宮殿広場から中庭を通って、グループ入り口から美術館内部へ入場した。
すぐに一階から二階へと通じる正面の“大使の階段”を上ると、たちまち西洋の宮殿建築のバロック的世界に包み込まれた。赤坂離宮くらいしか知らないので、その燦然たる装飾の目映さに息を呑み、圧倒される。
二階の“ピョートル大帝の間”から“紋章の間”へ、そして“聖ゲオルギーの間”へと連続する、豪奢で瀟洒、優雅で華麗な宮廷空間に、僕は、酔うような情態になって沈黙した。
このあとイタリア美術へ移動し、瞬く間に“ダ・ヴィンチの間”と“ティツィアーノの間”に通され、続いて間髪を入れず“ラファエロの間”と“カラヴァッジオの間”に案内される。
まさに名画・名作・秘画・傑作のコレクションが、そこには惜し気もなく無尽蔵に陳列され、さながら絶え間なく打ち上げる花火を見るような、衝撃と酩酊の時間に投げ込まれた。僕は絵画には門外漢で、些かの蓄積も無いが、はじめてエルミタージュが偉大な宝庫である事実を知った。
イタリア美術に眩惑され、その氾濫に
呆然となったせいか、オランダ美術やスペイン美術の部屋では、脳裏が白くなった感じで、視覚が零状況に等しい。レンブラントもベラスケスも、目には入らなかった。
三階まで上ると、ようやく麻痺感が薄れ、我にかえる。西洋の近代美術の部屋では、ゴッホの『ライラックの木』や『星影』が、目覚めて両眼を洗ったように飛び込んで来た。ー

帰路はニコライ氏を先頭に、冬宮や海軍省に面した河岸通りを歩いて、アストリア・ホテルへ向かう。快晴の日のネヴァ川の夏の風が、旅行者たちの頬に優しい。
エルミタージュでの二時間を振り返ると、あれは正しく“美の襲撃”だったな、と僕は思った。そうだ、確か十年ほど前、三島由紀夫氏に『美の襲撃』という評論集があったッけ。ー
ニコライさんが歩きながら、僕と藤倉先生とに語りかける。
「エルミタージュの美術品を買い集めた、ロマノフが持っていたような金銀は、今日のソヴェトにはありません。でも、ロシアには天然の地下資源が豊富に

眠っている。ロシア人は物を造ることが下手くそですから、地下資源を開発して外国へ売りたい。日本人は物を造ることが上手です。けれども、資源が足りない。これからロシアと日本、もっと仲良くなるでしょう!」と言って、また悪戯ッ子のような微笑を浮かべた。ー
17時半、ホテルに帰着。旅行者たちはニコライ氏と別れの握手をして、各自の部屋へ戻った。

四階の自室で暫く休息し、明朝出発のため、荷物の整理などする。
19時、階下のレストランで夕食。同席は藤倉氏のみ。
今夜は話もなく、メイン料理のキエフ風カツレツを黙々と食べる。このあと当地を去る藤倉氏は、「京都へ来たら、同志社へ連絡して下さい」と、親切に言ってくれる。
夕食後も白夜で明るく、なお時間が余るので、ホテルを出て、近辺を漫歩する。イサク広場から、人通りの少ないモイカ川河岸通りを歩くうちに、いつか異色の建物が見える地点へ来ていた。
青灰色に白線を配した外壁の、ちょつと両国の国技館の変形のような外観をもつ大建築。国立キーロフ劇場で、オペラやバレエを上演し、この国有数の格式を誇る。(帝政時代には、マリインスキー劇場と称したらしい。)
休演日のようで、周囲には人気が僅か、劇場の向かい側にある広場も静まり返っている。公共性のある大劇場にも、西洋では広場があるんだな、と思った。江戸の芝居町に、広場なんか無かったし、現在のモスクワ市内の中小劇場も、広場のスペースは持っていない。
劇場が公共的に大規模化し、附属の広場さえ必要になるのは、たぶん近代以後の現象だろう。そう考えながら広場に足を運ぶと、向こうにリムスキー・コルサコフの像があり、その傍に女性ひとりが立っている。まだハイティーンの少女で、誰かを待っているらしい。
僕は、ホテルへ戻る方角を確かめたくなり、コルサコフの像の近くまで行き、彼女に英語で方角を訊ねた。と一瞬、はにかんで困ったような表情をした。外国人馴れしていないのだ。が、急に片手を挙げて方角を示し、にっこりと相好をくずした。
僕は礼を言って踵(きびす)を返したが、何という初々しい健やかな微笑みだったことか!ソヴェト経済が停滞し、社会が硬直しても、あの微笑みがある限り、ロシアは永遠だ。以前に井伏先生が、「スラヴ民族っていうのは、良いんだ…」と呟かれた日があるが、ロシア人は素朴な無垢な力を持っている。ー

22時少し前、アストリア・ホテルに戻る。入り口の近くに、藤倉氏が脇にスーツケースを置いて立ち、空港へ行くタクシーが来るのを待っている。「お世話になりました」と、互いに挨拶を交わす。
タクシーが来て、氏が乗り込み、車が走り出すのを見送る。中肉中背の後ろ姿、京都と言い、同志社と言い、人物としての臭いや雰囲気が、何となく同郷の演劇評論家の長老、利倉幸一氏に似ているな、と思う。ー
薄暮の気配が濃くなっている。僕も明朝、一週間旅したロシアを離れるので、そのまま自室へ引き取れず、もう一度、ホテルの前のイサク広場とニコライ一世の馬上像の姿を見たくなった。
再びホテルを出て、馬上像に近づくと、像の周囲に十数人の若者たちが屯(たむろ)している。薄闇の中で、若者たちは解放されたように喋り、笑い、巫山戯(ふざけ)あい、紫煙を吹き上げる者もいる。この一角だけが騒がしい。
女の子は居ないが、彼らは日本で言う“不良グループ”なのか?五木寛之の小説『さらばモスクワ愚連隊』は、こうした一団との交遊だったのか?すでに市民が眠りに就き、広場に星の出る時刻に、彼らが好んで集まり打ち興ずるのは、それぞれの若者たちが、故知らぬ鬱屈を抱えていとるためかもしれない。ー
僕も馬上像の傍らに佇み、夜空を見上げて一服する。と、グループでも年下の華奢な少年ひとりが近寄って来て、僕が手にするケントの箱を指さした。一本を取り出して勧めると、悦んで口にくわえ、ライターの火を点けてあげると、「スパスィーバ(ありがとう)」と言って、おいしそうに吸い始めた。
僕は、若者の名前と年齢を問うてみた。“Aleksei”と“Seventeen”という答えだけが返ってきた。彼は、ケント一本を吸い尽くすと、満足げに微笑し、「スパコーイナイ ノーチ(おやすみなさい)」と言って、僕の前から消えた。ー
飴色(あめいろ)の蓬髪、その顔がりんごの花のように白かった。

◎後日

1976年(昭和51年)の秋、僕は、国際交流基金の支援で北米の十八の大学を巡回し、東アジア学科の学生たちに歌舞伎の記録映画『熊谷陣屋』を見せる、三箇月余りの旅をした。
当時、ハーバード大学には、尾上九朗右衛門氏や藤倉皓一郎氏が客員として在留していたので、僕は、ケンブリッジで藤倉先生と五年ぶりに再会することが出来た。
その折り、氏の指示で、僕を氏の宿舎まで案内してくれたロースクールの学生ジェレミイ・ホブランド君は、やがて立派な弁護士となり、アジア開発銀行の幹部としても活躍した。
彼の東京での研修生時代、僕に紹介してくれた同窓の親友リチャード・マーフィー君も、その後に筑波大学でも教鞭を執り、経済学者として一家を成し、日本で翻訳された著書もある。
両者いずれも日本の演劇や、美術・音楽に関心が深かったので、僕とは交流四十年になり、近年も東京で三人で一緒に会食した。
ところが、この友愛の結びの神であった藤倉先生は、再会後暫くして比較的早く亡くなられた。ー
こうして考えると、旅は“人生絵図”の切っ掛けを作る。
日本史研究の学生リビーとは、その後、今日まで遇っていない。

◎2014年・再訪時のサンクトペテルブルク